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鬼は死して尚、修羅を生く  作者: 夢現
第一章 明日の事を言えば鬼が笑う
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第一章11 『鬼灯』

 冷えた空気は乾燥で突っ張った肌の表面を執拗に突つき、冬の訪れが避けられぬ運命であることを再認識させる。


 土を一面に敷き詰めたグランドの周囲を囲む木木から鳥達がけたたましく泣き喚きながら一斉に飛び立った。

 生い茂った葉が鳥に変わっているのかと錯覚するほど、次から次へと寒空へ翼を広げていく。

 何かに追い立てられるように、我先にとしがらみのない大空へと逃げる。


 グランドの中央では音が爆ぜ、時空が歪み、放射状に広がる衝撃波が木木を揺らし、その度に未知の脅威に動転した鳥達の悲鳴が空に響きわたった。


 斬撃と殴打の応酬は絶え間無く、幾度となく繰り返され、その度に当事者以外の者を拒絶するように空気の壁が砂埃を巻き上げる。


 弁慶の薙刀が振るわれ、宗馬がかわして打撃を繰り出す。弁慶がそれをいなすと、また銀色の刃が宗馬へと疾る。


 一瞬の油断が命取りになるような紙一重の攻防は、常人では目で追うことすら出来ない速さで繰り広げられている。もう何度目の打ち合いなのか当事者達でさえも見当がつかない程になっていた。


 心臓が超スピードで鼓動している。


 唸りを上げたエンジンが車体を揺らすように、細かい振動が宗馬の全身を震わせ、循環する血液が強大な爆発力を生み出しているのがわかる。

 だが、まだまだ足りない。この程度なものか。もっと速く、疾くこの拳は届くはずだ。


 宗馬の闘争心は荒ぶり、昂ぶり、未だかつて経験したことの無い程に沸いていた。


 武の神の寵愛を受けた子供と宗馬を評した者もいたが、そう賛辞を送られることに対して何の感慨も湧いてはこなかった。むしろ、どこか釈然としない、それどころか宗馬にとっては納得のいかない評価ですらあった。


 誰に対しても遅れはとらない、少なくとも同年代には負けない自信はある。

 しかし今の宗馬の技術を培ってきたのは、それに見合った時間を対価として払い、安くない代償を無駄にはすまいと、密度の濃い修練を積んできたからだ。

 他人よりも覚えが早いのは、誰よりも考え、効率よく試行錯誤を繰り返すことを意識しているからだ。


 武に懸ける情熱や覚悟だって人一倍持っていると思う。


 武術が好きだからのめり込み、のめり込んだら他のことが目に入らなくなり、自然と生活の全てが武術中心になった。宗馬には武術しか無かったし、他の物は迷わず捨ててきた。


 才能とは瞬時の閃きや感覚の螺旋(一本の糸がその実無数の糸の集まりであるような)の中から最善を見逃すことなく見極める確率の精度が高いことである、と宗馬は考えている。

 最初のそれを見逃さず掴むことができたのは、もしかしたら運もあったのかもしれない。だがその運を引き寄せることができるのは、脳の奥の奥で模索し続け、爪先から髪の毛先までの全部で課題にぶつかった者のみである。


 やがて見極めるための眼力は徐徐に洗練されていき、高確率で閃きや最善を見つけ出していく。

 全ては互いに作用し合い、乗算のように倍倍、あるいはそれ以上の値で成長を促す上向きの好循環が生まれる。


 いるのかもわからない武の神とやらのおかげなどでは決してない。

 才能は天から与えられた特別な恩恵ではなく、自分の培ってきた技術のうちの一つに過ぎない。


 だが何よりも悲しいのは、情熱の全てを注ぎ込んだ武術で、全力を出せる相手がいないことだ。


 全身全霊で己の魂に刻み込んだ全てを出し切って、互いにぶつかり合い勝利する。そこに胸踊る歓喜が、全身に満ち溢れる感動が、日日の修練に報いる報酬が、武術の醍醐味があるはずなのだ。


 久しく味わっていないそれらの感覚は、遠い記憶の彼方へと追いやられ、存在すら不透明にしてしまうほどにぼんやりとした、言葉でしか知らない不確実な概念へと変貌していた。


 紙に垂らしたインクがじわりじわりと広がっていくように、忘れていた激情が少しずつ蘇る。

 興奮はとどまることを知らず、激情が脳天を突き抜けていく度に毛穴一つひとつが開いていくのがわかる。


 ――楽しい!


 宗馬は噴き出す歓喜の奔流に溺れていく。拳には激情が宿り、空気の壁を難なく突破して尚、勢いは衰えることがない。


 ぶつけるんだ。

 魂に刻み付けた情熱のありったけを。

 ぶつけて来い。

 伝説を創った剛力を。


 宗馬のギアがまた一段上がったように、速く、力強くなる。

 自分でも驚いている。

 限界など存在しないのではないかと錯覚するほど、一撃ごとに速度、鋭さ、威力を増していく。そして未だ限界点は見えず、先へ行けるという確信だけがあった。


 宗馬の拳が弁慶の脇腹にめり込んだ。

 衝撃が弁慶の身体を走り抜けて、内側から肉体を破壊した。


 体がくの字に折れ曲がった弁慶の顔面を下から突き上げるように宗馬の蹴りが直撃する。

 巨躯が重力に逆らいながら宙に浮かぶ。


 追撃は執拗に、確実にダメージを蓄積させて、獲物の息の根を止めようと理詰めの一手を積み重ねていく。


 宗馬の左拳が放たれる。残像すら残すことなく、瞬きの間に駆け抜ける閃光の如く、人間の反応速度を超越した左拳。


 弁慶は辛うじて薙刀の柄で軌道を逸らす。

 視覚から脳を経由した反応速度では到底対処できない。百戦錬磨の経験が無意識に弁慶の体を操り、なんとか凌いでみせた。


 伝説の僧兵に対峙する小柄な少年の正拳は理性を棄てた本能の化身であり、本能での対峙以外を拒み許しはしない。

 死闘へと嬉嬉として引き摺り込もうとする地獄の鬼が乗り移ったかのような、死の臭いを纏った禍禍しいものに視えた。


 宗馬の拳、蹴りが徐徐に弁慶の肢体を捉え始めた。



 一体何が起きているのか、栞の眼では軌道を追うことは出来なかったが、弁慶の身体が時時歪み、時間が一瞬止まってしまったようになる。


 宗馬が弁慶を圧倒し始めていることはなんとなく、感覚で理解していた。しかし到底理解出来るはずもない。


 普通の高校生の男の子(少なくとも栞が会話した宗馬の印象はそれだった)が、あの伝説の僧兵、武蔵坊弁慶を武力で凌駕するなどと誰が想像出来ただろう。


 孤軍奮闘する栞を助けに来たと宗馬は言った。


 絶望に押し潰されてしまいそうな、弱気が精神を蝕んで侵し始めたその時、宗馬の気楽な態度に安堵し、独りじゃないのだと思えた心に希望と救いを垣間見たのは確かだ。


 だがこの様な事態を想像することは到底出来なかった。


 出来るはずもない。

 それは妄想だ。夢だ。楽観的な希望的観測に過ぎない。

 しかし、妄想、夢、希望的観測の事象が目の前で現実となっている。

 視界に映る光景を処理して理解する行為を、脳に染み込んだ常識が拒んでいる。


 あの男の子は一体何者なのか。


 道場の息子だから武術は習っているだろうと予測はできる。だが、瞳のレンズが映す武術は栞の知っている武術を遥かに凌駕していて、最早別の何かであるとしか思えない。


 一見ハリウッド映画のCGをリアルに体験しているようだが、派手過ぎる過剰演出を取り除き、そのせいで妙に現実めいた、それでいて現実とはかけ離れた映像は、栞の脳内には言葉としても、光景としても記憶されてはいない。文字通り未知であった。



 狂気が心を侵食していくのが宗馬にもわかった。しかしそれを拒もうとは思わない。


 今は、今だけはこの快楽に溺れていたい。


 心の奥、どこかで感じていたのかもしれない。それは予感であり、確信でもあった。


 生命の灯火は最後の焔を燃やしている。


 己の存在理由を確かめるように、証を刻むように、火柱を高く喬く、虚空へと伸ばす。


 俺はここにいる。

 魂が吠える。

 拳は肉にめり込み、宗馬の痕跡を濃く刻む。身勝手な想いを押し付けていることは、宗馬も十分に理解している。


 ――悪ぃけど地獄まで付き合って貰うぜ弁慶!


 傲慢なエゴを拳に乗せて、ひたすらに、我武者羅に、時を越えて立ちはだかる伝説へとぶつける。

 溜め込んだ総てを吐き出すように、研鑽した技術を総動員する。


 脚は刃となって肉体を切り裂く。


 心の内側に修羅はいた。別の人格が存在するように、時折這い出てきては宗馬を支配しようとした。その度に、意志と理性をもって抑えつけてきた。


 そう思い込もうとしていた。


 宗馬は自分の口が歪な笑みを刻んでいることに気付いた。それは張り付いた面のように引き剥がすことができない。


 ――修羅は俺自身だ。


 生命の削り合いが楽しくて堪らない。完全に狂っている。

 何よりも狂っているのは、狂っていることがこの上ない快感となり、その快楽の刺激に溺れて落ちていくことが、また新しい快楽を生み出していることだ。


 足の甲が弁慶の腹部にめり込んで、その体を折り曲げた。


 ――もっと、もっと楽しませてくれ!


 唐突に光の刃が宗馬へと迫った。


 蓬の投げた札が空中で姿を変え、宗馬へと襲いかかったのだ。宗馬と弁慶の戦闘に気を取られていた栞の反応も遅れた。


「危ないっ!」


 栞は咄嗟に叫んだが、すでに機を逸していた。


 刃は宗馬のすぐ近くにまで迫り、その横顔に今にも刃を突き立てようとしている。

 宗馬は気付いていないのか、視線は弁慶へと注がれたままだ。


 反撃の好機と見たか、弁慶は光の刃が到達するタイミングに合わせて薙刀を横一閃、宗馬へと振るう。金と銀の刃が同時に宗馬へと吸い込まれていく。


 刃と刃が交錯するまでの一秒にも満たない僅かな時間の隙間、宗馬は光の刃を見ることもなく右手の人差し指と中指とで光刃を挟んで止める。

 腰を落とし薙刀の刃の腹を下から左拳で突き上げるとその軌道が変わり、宗馬の頭上すれすれを通り過ぎていく。


 空中に鉛筆で曲線を描いたように、宗馬の黒髪が数本、宙を舞った。


 屈めた体を伸ばす力を利用して、宗馬は体をコマのように回転させる。

 その回転の途中で右手に持った光の刃を蓬へと投げ返す。

 止まること無く回転は続き、振り上げた踵は、まるで斧を打ちつけるように弁慶の顳顬(こめかみ)へと終着する。


 白い布で覆われた巨大な塊が螺旋の軌道を描きながらすっ飛んだ。手から薙刀が離れ、朝陽を乱反射しながら、空中に銀色の輪っかを作る。


「ぐわっ!」


 低い声が響いた。


 声の主は蓬であり、その左肩には光の刃が刺さっている。片膝を着いて右手で傷口の近くを押さえた。道術の効力を失ったのか、程無く光の刃は霧散して空中に溶けていった。


 数秒の出来事。

 一連のやりとりが行われるには、本来不十分なはずの所要時間。


 宗馬だけが他の人間とは違う、別次元の時間軸上で行動していたとしか考えられない。あまりにも非常識な動作。


 栞と蓬、どちらもが言葉を失い、思考回路は役割を放棄し、ただ呆然と、体への命令権を剥奪されたように固まっていた。

 視線は一点へと注がれ、眼球の筋肉は伸縮性を失念したように動かすことができない。


 この世界において自由を許された唯一の存在、修羅がゆらりと音も立てずに歩きだした。打ちのめされた巨躯、弁慶の元へとゆっくり近づいていく。


 栞の背中を恐怖にも似た悪寒が、撫でるように線を引いた。ブルっと肩を震わせると栞の心に突然に焦りが芽生え、一つの気味の悪い予感が再度顔を覗かせる。


「先輩っ! 待って!」


 何故かはわからないが、栞は衝動に任せて叫んだ。


 宗馬を止めなければ、後に後悔を残すような、そんな確証のない不安が、栞の心臓を乱暴に握り、締め上げるような痛みを訴えてくる。


 宗馬は苛立っていた。先程まで心を満たしていた気持ちいい高揚感は、いつの間にやら跡形もなく消え失せ、どうしようもない怒りが、失望感が宗馬に漆黒の空洞を作っていた。


 ――俺はまだ全部を出しちゃいない! あんたが倒れてしまったら残された焔をどこへぶつければいい!? 今にも爆発しそうなこの熱を、魂の最後の雄叫びを、頼むからっ、受け止めてくれよ!


 細胞が燃え尽き、生命が真っ白な灰を積もらせていくのがわかる。 


 死は焔だ。


 この世に産まれ落ちたその瞬間から、地獄の業火は生を燃やし始め、燃やし尽くした後には真っ白な灰だけが残る。その灰もいずれは風に攫われ、無だけが取り残される。


 ならばせめて、我が身を灼く焔の有りようは、自らの意志で決めることができてもいいはずだ。そうでなければならないと思う。

 その選択は唯一、万人に対して平等に与えられる、最初で最後の自由であり、生まれや環境に左右されることもない。尊厳と誇りによってのみ護られた、不可逆で不可侵の聖域なのだ。


 宗馬は残り僅かな生命の火種、その全てを焔に変えて、この一戦を闘い抜くと決意していた。


 触れたものを溶かす程の熱量は、同時に終わりを予感させる儚さを宿す。


 一抹の哀愁を帯びた烈火だ。


 烈火はまだ己の限界を知らない。


 もっと熱く、もっと激しく、今よりも高みへと行けることは理解しているのに、それを確かめ合うことのできる相手がいない。

 その相手であったはずの伝説の僧兵、武蔵坊弁慶は、宗馬の一撃を受けて地に倒れている。


 宗馬の身勝手な言い分であることは宗馬自身も理解している。


 しかしやり場のない怒り、悲しみ、虚しさは宗馬の心の中で綯交ぜになり、ぐちゃぐちゃに、滅茶苦茶に、鉛筆の線を重ねた漆黒の塊のように、支離滅裂に絡まり合う。そうして造り出された漆黒の塊は、溢れ出す感情の吐き出し口を塞き止める。


 宗馬は倒れた弁慶のすぐ側へとたどり着く。屈み込むと、弁慶の被る頭巾の襟元を掴んだ。


「澄ました顔してんじゃねぇ! 全力を出してもいねぇのに、ぶっ倒れてんじゃねぇよ!」


 糾弾する宗馬の叫びは虚しく響きわたり、寄り添うような寒空がゆっくりと吸い取っていった。


 宗馬にとって何より度し難いのは、弁慶の斬撃には覇気が無かったことだ。

 淡淡と、機械のように、命じられたから闘っているに過ぎないのだと、刃の軌道が、斬撃の重みが語っていた。


 力を解放できることの喜びに、興奮に、平常心を失っていた。

 冷静に考えれば至極当たり前のことだった。いくら宗馬の調子が良いとはいえ、あの弁慶をこうまで圧倒できるはずもない。


 宗馬と向き合う弁慶の瞳には、真っ黒な虚無だけが映っていた。

 ぽっかりと空いてしまった二つの空洞を埋め合わせるために、事務的にはめ込まれたような、言い知れぬ違和感が漂っている。


 白布を握る両手に力が入る。


 どれもこれも宗馬の身勝手だ。独りよがりだ。相手にも同じ熱量を強いることなどできはしない。それでも――。


「俺は……あんたとっ、本気で――」


 絞り出すような声は、最後まで言葉を紡ぐことも叶わず、絡み合った感情の塊に塞き止められた。


 宗馬は耐えきれずに――宗馬自身にも正体のわからない、内側からかき乱す何かを振り切るように、右の拳を振り上げた。


 ぶつけてしまおう。

 定義を見失った乱雑な感情を。尊厳を捨てた醜く、卑しい暴力を。


 拳に力を伝達したのとほぼ同時に、振り上げた右腕に温もりが触れた。宗馬が振り返ると、傷だらけの少女――栞がそこには居た。


 哀憐を纏った瞳が宗馬を見据えている。泥と血とで汚れた顔を歪めながら、両膝を地につけ、痛々しい右手を懸命に伸ばしていた。

 頬に張り付いた深紅の髪が、輪郭に沿って流れる血の赤に溶けて、滴る雫のようにその毛先を垂らしている。


「先輩……お願いですから。もう――」


「二王頭」


 栞の細く小さな声が、しかし不思議と宗馬の鼓膜を激しく揺らした。涙を染み込ませたような湿り気のある声だった。


 栞の潤んだ瞳は水面が揺れる度に、光の粒が移動し、幾通りもの煌びやかな模様を映し出す。さながら万華鏡だ。


「そんな悲しい顔で、弁慶を傷つけてしまったら……きっと、先輩も痛いです」


 栞は宗馬を真っ直ぐに見つめながら、悲しい顔だと言った――悲しい顔? 宗馬には自分が今どんな顔をしているのかなんてわかるはずもない。


 筋肉が顔の中心に向かっている。自分の顔が酷く歪んでいることは、なんとなくわかる。


 宗馬からすれば栞の方こそ、今にも泣きだしてしまいそうな悲しい顔をしている。


 顔をくしゃくしゃにした二人、鏡のように向かい合っている。その光景を想像すると、なんだか可笑しくなってきた。


 次第に宗馬の両腕から力が抜けていく。


 宗馬の思考が、触れた手から伝わったかのように、栞が静かに微笑んだ。


 細めた両眼から、涙がスッと零れ落ちた。


 不思議だ。宗馬のぐちゃぐちゃになった心に明確な答えが出たわけでもなく、溢れ出しそうな感情の奔流を吐き出す先が見つかったわけでもない。

 全部がうやむやのまま、それらが何処かへ霧散していくような、奇妙な脱力感。


 間違っていることは理解していても、負の感情に支配され、振り上げる拳を止めることができなかった。

 栞の手の温もりが、涙で濡れた瞳が、宗馬の荒んだ心の暴走を止めた。


 差し出された救いへ、縋るように逃げ込んだ。己の不始末を栞の優しさへと押し付け、恥知らずにも心から安堵している。

 それでも、その温もりから伝わる安らぎに身を委ねずにはいられなかった。

 余命を宣告され、抗うことのできない絶対的な死を意識した瞬間に、宗馬を打ちのめした無力感。絶望が身体を蝕んでいくような、あの無力感とは別の無力感に襲われながら、宗馬の両腕が支えを失ったように、だらりとぶら下がった。


「何? 喧嘩かな?」

「えー、こんな朝から? 怖いね、早く行こっ」


 場違いな、間の抜けた声が遠くから聞こえてきた。


 倒れた弁慶以外の、三人の視線がその声の出どころへと集まった。

 ブレザー姿の女子高生が二人、仕草だけは声を潜めるようにしながら、しっかりとその会話を当事者達へ届かせながら、足早に通り過ぎていった。


 いつのまにか、通勤通学の時間帯になっていたようだ。慌ただしさと静けさが混在した、朝特有の空気感が漂い始めていた。

 四人だけを置いてけぼりにするように、世界は新しい一日の始まりに浮き足立っている。


 宗馬と栞がこの後の展開を窺っていると、二人の丁度真ん中あたりの地面に札が貼りついた。


 宗馬と栞の眼が見開かれる。札が赤みを帯びて、爆発するための準備を終える。


 宗馬はすっかり気の抜けていた身体に鞭を打ち、瞬間的に全身へとエネルギーを送り込む。

 飛びつくように栞を抱え込むと、体を捻って自らの背中を盾にする。


 札が爆ぜて、爆風が意思を持つように二人を呑み込んだ。


「弁慶!」


 耳をつんざく爆音に紛れるように、蓬の叫び声が爆風を掻い潜っていった。


 爆発から吐き出された二人、宗馬と栞が、黒煙を纏いながら、勢いよく地面を転がっていく。栞の頭を覆い隠すように腕を回す宗馬の体が、地面に衝突する度に大きく弾み、一通り全身を打ちつけると、やがて勢いを失って止まった。


 熱風に焼かれた背中の火傷と、地面に強く打った打撲と擦り傷が、一呼吸置いてタイミングを合わせたように、一斉に宗馬を襲い始める。

 一定の律動を刻みながら、執拗に襲ってくる痛みに顔を顰めながら、宗馬は抱きかかえた栞の安否を確認した。


「大丈夫か?」


「はい、私は大丈夫です。それよりも先輩、私を庇ってこんな……――」


 栞に覆い被さるようになっていた宗馬は、自然と真下にある栞の顔を眺めおろす格好になった。


 服は焼け焦げ、生地の裂け目から鮮血が覗く宗馬の惨状を、眼を上下に動かしながら心配そうに眺める栞。


 見る限りでは宗馬よりも、栞の負っている傷のほうがよっぽど重症なのだが。


 ふとした拍子に栞と眼が合うと、なんとなく気まずくなり、宗馬は慌てて立ち上がった。


 手を差し出して栞を立ち上がらせる。「ありがとうございます」という栞の言葉を、耳鳴りの治らない耳で聴きながら、視線はその元凶へと突き刺すように向ける。


 元凶、蓬の方へと意識を戻す。先程の爆発の間に移動したのだろう。蓬の一歩後ろに弁慶が屹立していた。


「人通りも多くなってきたようですね。ですねぇ。結界が作用していない場所で堂堂と闘り合うわけにもいきませんから。からぁ。ここはひとまず、退き下がりましょうかね。かねぇ」


「逃げるのかよ」


 宗馬の見え透いた挑発に対して、あからさまに機嫌を損ねた様子の蓬が顔を顰める。


「道術を人目につく場所で使うことは制限されてるんでな。でなぁ。それに仙道の札がそちらにある以上、また闘り合うことになるさ。なるさぁ」


「仙道の札は絶対に渡さない!」


 先程までの哀憐を纏った表情は消え去り、強い意志と覚悟に満ちた瞳で栞は蓬を睨む。


「必ず手に入れますよ。ますよぉ。今度は私ども、分家の屋敷にお嬢様をご招待させていただきましょうかね。かねぇ。俺からの招待を、お嬢様は断ることはできませんでしょ。でしょぉ?」


 蓬の顔が溶けるように歪み、口角がつり上がった口は薄気味悪い笑みを作り、底知れぬ嫌悪感を抱かせる。


「まさか……っ! お母様を人質として利用する気は無い、と言っていたのに」


「どうしても、仙道の札は必ず手に入れなければいけないんですよ。ですよぉ。お嬢様にも心強いお友達ができたようですしね。しねぇ」


 蓬の視線がチラと宗馬へと向けられる。激しい憎悪が渦巻いた、敵意剥き出しの視線が宗馬の視線と交錯した。それはほんの一瞬のことで、すぐに蓬の視線は栞へと戻された。


「では明日の夜七時頃、分家の屋敷でお待ちしていますよ。ますよぉ。仙道の札を忘れずに持って来てくださいよ。さいよぉ」


 そう言うと、蓬は腰のホルダーから取り出した札を右手で構え、左手で印を結んだ。

 手に持った札を空中で離すと、札がひとりでに浮き上がり、弾けたような閃光を放つ。すると波を打つように景色が歪み、蓬の身長よりも少し大きい円が現れ、空間に穴を穿った。


 蓬が最初にその穴へと入り込み、その後ろに弁慶が続いた。二人が入ったことを確認すると、穴がみるみる塞がりだし、欠けていた景色が修復されていく。


「待て!」


 空間の歪みが開けた大口を塞ぐように、円が小さくなっていく。世界という巨大な獣が、大の男二人をあっという間に呑み込んでしまった。


 追い縋った宗馬の右手が虚しく宙を掻いた。


 周囲を窺い、跡形もなく消えてしまった二人の気配を追うが、少なくとも宗馬が感知できる距離からは居なくなったようだ。


 悔しさを隠しきれないように、宗馬の眉間にシワが寄せられた。栞が駆け寄ってくる軽い足音を背中に受けながら、なおも周囲に警戒を続ける宗馬の身体を異変が襲った。


 ――爆発した!?


 そう錯覚する程、身体の内側から皮膚の外側へ向かって突き抜けるような衝撃が走った。

 全身が燃えるように熱くなり、汗腺という汗腺から冷や汗が噴き出した。

 頭を槌で何度も殴られたような鈍痛が絶え間なく襲い、視界がぐにゃりと揺らぐ。心臓が他の音をかき消す程にうるさく騒ぎ、灼熱が脳を溶かす。


「先輩!? どうしたんですか!? 大丈夫ですか!? どうしよう……救急車――」


 遥か遠くの方から栞の声がした。不規則に乱雑に反響する声がひどく聴き取りづらい。


「二……王頭、だい……じょっ……ぶだかっ……ら」


「でもっ!」


 酩酊する意識の中で、どうにか手を挙げて栞を制する。


 どうすることも出来ず、おろおろと慌てふためく栞に首を傾ける。栞の全身が渦を巻いて、周囲の景色とかき混ぜられていくような、珍妙な世界を宗馬の瞳は映し出す。


 心配するようなことではない。――そう栞に伝えてやりたいが、声を発することすら、もうできそうにない。始めからわかっていたことだ。


 終わりがやってきた。ただそれだけのことだ。


 灰が真っ白な雪のように降り積もっていく。


 宗馬を形作っていた器が、微細な粒子となって世界を覆っていく。


 時間が歩調を緩めたせいか、鼓動が緩慢にカウントダウンを刻み始めた。一つ、二つ、刻々と鼓動が終わりへと近づいていく。

 三つ、四つ、栞が顔をくしゃくしゃにして縋り泣いている。


 ――ひでぇ顔。


 宗馬の口から鮮血が噴き出されて、地面を赤く染めた。

 真っ赤な彼岸花が宗馬を(いざな)うように咲いた。


 赤は宗馬を灼いた死と、同じ色をしていた。

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