第一章10 『馳せよ少年』
急かされるように家を飛び出した宗馬は、あてもないままに駆け出した。
パーカーに学校指定のジャージを着用し、足の形によく馴染んだ愛用のスニーカーを履いた、動きやすさ重視の出で立ちである。
家からそう遠くない場所にある、急勾配の坂へと差し掛かる。宗馬の進行方向からは下っていくことになる。
坂の始まりからは終わりを目視できず、街中に突然崖が現れたのかと錯覚させるその坂は、多くの近隣住民を泣かせてきた。
悪名高く地元では恐れられた存在。幾人もの心臓を破壊してきたとか、してこなかったとか、とにかく色々といわくつきの坂だ。
坂を下り始めると、宗馬の脚は面白いように滑らかに回転し、速度をぐんぐんと上げていく。
風が宗馬の体を包み込み、空気と皮膚との境がみるみる曖昧になっていき、やがて溶け合い一つになっていく。
もっと速く。
逸る気持ちは風をも追い越さんと、大車輪の両脚をやいやいと急き立てる。
宗馬と宗馬の家族を巻き込まないように、敵(栞を追っている誰か)を迎え撃つ為に道場を飛び出した栞。出会って間もないよく知りもしない他人を守る為に、自らを危険に晒すことを選択したのだ。
ゴミ箱にはまっているのを発見した時、率直に変な奴だと思った。ほんの少し話しただけでどこか抜けてる奴なんだとわかった。
初対面でも飾らず真っ直ぐに向き合ってくる。だからなのか、気付けば宗馬も冗談を言ってからかったり、気安く接していた。
無防備にバカ正直にぶつかってくるから、こちらも取り繕ったり見栄を張ったり小細工を弄することが馬鹿馬鹿しくなるのだろう。
栞は「ありがとう」という言葉をちゃんと口にして伝えようとする。
笑顔で相手の瞳を真っ直ぐに見つめて、照らいもなく、只只伝えようと懸命に言霊を紡ぐ。
道場を出て行くその最後のひと時にも笑顔でありがとうと言った。
これから闘いに身を投じようとするその瞬間でさえも、宗馬に心配をかけまいと笑ってみせたのだ。
華奢な見た目とは裏腹に瞳は力強い。やり遂げなければならないことがあると言っていた。どうりで覚悟の宿った真摯な目をしていた。
――なんだ。俺は二王頭 栞という人間が結構好きなんだ。
宗馬の中で憑き物を落とすように清清しい風が吹き抜けた。
湧き出る感情に無理矢理に理由をこじつけて複雑な難題へと変貌させていたのは自分自身だった。
滅茶苦茶に絡まってしまってどうにも解けないと思っていた結び目も、蝶々結びが瞬時に解けるように、正しい一本の糸を引いてやればすんなりとあっけなく霧散してしまう。
栞を助けに行く。
迷いは消え失せ靄が晴れると、奥の方から煮え滾るマグマのような闘志がこみ上げて、宗馬の毛穴の一つひとつから溢れ出そうになる。
気が付けば道場を飛び出していた。
自分には意志がある、闘う為の拳がある。焔がこの身を焼き尽くしてしまおうと、もう構うものか。決意を裏切ってまで生きながらえるよりはずっとマシだ。
宗馬というラベルを貼った容れ物を動かす生命のシステムは、その回路を焼き切らんばかりに全開で稼働する。
だが栞が何処へ向かったのか見当がつかない。重要な問題に今更ながら思い当たる。
眩しい朝の光が宗馬の眼を突き刺し思わず目をしかめる。
家と家の隙間をこじ開けて這い出てくる巨人のように偉大な太陽がその姿を見せ始めた。
光と闇の終わりの無い争いは勝敗もはっきりしないまま、ただただ毎日毎日ひたすらに繰り返される。
いずれは闇が光の巨人を追い払い、世界を漆黒に染め上げ、また飽きもせず光の刃が漆黒を切り裂くのだ。
そんな当たり前の見慣れた、見飽きた光景が宗馬にはかけがえのない尊いものに思えて、しかめた両目を閉じてしまわないように堪える。
毎日浪費されていく一瞬一瞬の時間の欠片が、ダイヤモンドの宝石のように煌めきながら、手の平をこぼれ落ちていく。
せめてその欠片一粒一粒を見逃すことなく目に焼き付けたいと思う。
宗馬の体から湯気が立ち上っては冷えた空気に攫われていく。
栞の行きそうな所を考えてみるが、そもそも栞とは昨日会ったばかりで何も知らないのだから推理のしようがない。
宗馬にも焦りの色が見え始めた。
せっかく助太刀するため意気揚々と家を飛び出した来たというのに、間に合うことが出来ずに栞にもしものことがあったなら元も子もない。それこそ目も当てられないというもの。
「いつもは人っ子一人いねぇのに、今日は走ってる若いのをよく見るなぁ。さっきも高校生くらいの姉ちゃんが走ってんの見たし、流行ってんのかね。なぁトッポギ丸?」
物音一つ無い静寂を破り聴こえてきた声に、宗馬は規則正しく地面を打つ両足の回転を止める。
宗馬が走る少し先で寝起きのまま家を出てきたのか寝癖のついた髪でジャージにサンダルを履いたおじさんが足元で鼻息荒くしている愛犬、トッポギ丸と呼ばれたパグに話しかけている。
宗馬の視線に気づいたのか怪訝そうな顔をする。
「その女の子がどこ向かったかわかる!?」
宗馬に急に話しかけられて明らかに動揺しているおじさんの、前歯の無くなった口から空気が抜けてヒュッと甲高い音が鳴った。
「いや、ちょっと見かけただけだからわっかんねぇけどよ」
「そうか。そうだよな。すみませんでした」
当然だ。見かけただけの他人がどこへ向かったかなんてわざわざ確認する理由もない。
だがおそらくこのおじさんが見たという女の子は栞で間違い無いだろう。
当てずっぽうで走ってきた道がどうやら見事に栞の辿った道のりと一致したらしい。宗馬は気を取り直して再び走り出そうとする。
「この辺で走るっつったら深緑公園だべ。兄ちゃんもそこに走りに行くんじゃねぇのか?」
深緑公園。
宗馬も何度かランニングをしに行ったことのある場所だ。
ランニングコースが公園内に設けられていて、体育館やテニスコートなどの運動場も併設されている比較的大きな公園である。桜の木がランニングコースの両脇に植えられていて、花見のシーズンには多くの花見客が訪れる、地元では有名な花見の名所だ。
確か少年野球や大人の草野球チームが練習場に使用するグランドもあったはずだ。
宗馬の中で何かが引っかかり、脳に急速に血液が巡り思考がぐるぐると回り始める。
栞の使った魔法のような派手な炎の技。
栞と敵対する者もそれに似た技を使うのならば、広い場所での対峙が好ましい。深緑公園のグランドならば破損するような物も無いし都合が良いのではないか。
「ありがとう、おじさん!ちょっと行ってみるわ!」
「お、おう。冬だからって水分取らねぇと危険だからよ。あんまし無理すんじゃねぇぞ」
心配してくれる心優しいおじさんに手を振って応えて、宗馬は再び走り出す。
トッポギ丸のくぐもった低い鳴き声が背中越しに聞こえてきた。
――俺もできれば無理はしたくねぇけどな。
オレンジ色で統一された屋根の家々が建ち並ぶ住宅地を走り抜けていく。
似たような家が規則正しく並んだ道は緩やかなカーブを描きながら、思い出したように道を枝分かれさせる。
大樹が寝そべったようなこの一画は土地勘の無い余所者が一度足を踏み込めば、繰り返される景色に方向感覚を奪われ迷宮に迷い込んだ錯覚に陥る。
依然として静寂に包み込まれている家々では、ひっそりと住人達がその活動を始めたようで、あちらこちらで食欲をそそる香ばしい匂いが漂ってくる。
味噌汁と焼き魚の上品でどこか安心するような香りのする和食の家もあれば、ウインナーを炒めているのか肉肉しい匂いのする家もある。きっとスクランブルエッグとウインナーが丸皿の上で寄り添い、こんがりと焦げ目をつけたトーストと一緒にテーブルの上に並ぶのだ。
幸福に満ちた朝のひと時をつつがなく迎えるための準備が、今まさに着着と行われている。
なんでもない日常の、心地好い温もりと幸せに満ちた空間を、慌ただしく駆けて行く宗馬の背筋に、突如冷たいものが走った。
回転する脚を急停止させ、背後を振り返る。
視線。まるで宗馬を観察しているような。
周囲に意識を集中する。視線の先に居た筈の誰かを探す。
確かに視線を感じたと思ったが、それらしい気配はないようだ。突き刺さるような気味の悪い視線も今は感じられない。
気のせいだったのだろうか。しかし悪寒は確かに宗馬を襲った。だとしたらあれは一体――。
気にはなるが。今はそれどころではないと思い出す。
栞を助けに行くことが最優先だ。
宗馬は心の奥底に不快な蟠りを残しつつも、前を見据え再び走り出した。
日常を彩る至福の香気を振り切り、血生臭さの漂う戦さ場へと駆けていく。
迷宮が魅せる誘惑を振り切ると突然に世界は一変し、国道へと続く通りに出た。
その通り沿いに深緑公園はあった。
厳しい冬にも負けず生命力を漲らせる常緑樹がその周囲を囲い、深緑の名に恥じない深い緑を寒空に伸ばしている。
冬の空を写したようなアスファルトの道路を横断して、生い茂った木々がアーチを作る入口へと向かう。
昔の記憶を辿り目的地、グランドへの道のりを急ぐ。
土が地を固める茶色い道は、容赦のない木枯らしに散らされた葉っぱが同系色の絨毯を作っていて、踏まれる度に空気に吸い込まれるような乾いた音を響かせる。
テニスコートを横目に道を行くとその先に目的の場所はある。はず。
――目的の場所?
急に思考にぽっかりと穴が空いたように何も考えがまとまらなくなってしまった。だが何が抜け落ちてしまったのかもわからない。何も。
しばらく釈然としない気味の悪さを抱えたままランニングコースを進む。何故自分は汗をかく程に必死に走っていたのか。突然。
――俺、グランドに。そうだ! 二王頭を助けに行くためにここへ来た!
宗馬は頭の中に公園内の地図を思い浮かべる。
確かグランドはテニスコートの隣にあったはずだ。
しかし妙だ。
今の自分の進行方向だとテニスコート側から来たことになる。そうすると目的地のグランドを横に見ながら通り過ぎてきたことになる。
そんな間抜けなことがあるのかと疑いたくもなるが、事実通り越して現地点まで進んでしまっているのだから案外自分にも抜けたところがあるのだと割り切る他ない。
辟易しながら来た道をとって返す。
自分の非で失った時間を取り戻そうと急ぐ宗馬の脳内でまた何か、重要な何かがこぼれ落ちたような気がして急いでいた足を止める。
おかしい。どうして走っていた。どこへ向かっていた。ついさっきまでは確かで明確な目的が使命があった。はず。
混乱する思考の結論も妥協点も糸口も何も見出せないまま、しばらく道を進む。唐突に。
――二王頭! どうしてだ、何が起こっている!? 俺はどうしてこんな大事なことを忘れていたんだ!
不可思議な気味の悪い得体の知れない何かが宗馬の思考へと介入し、作用して掻き乱し簒奪し空白を穿っている。
引き返す。忘却。引き返す。忘却。
何度か繰り返した宗馬はようやく確信する。
グランドへ辿り着けないような何かの力が働いている。それどころか、近付けばその存在を認識することさえできなくなってしまう。
思い当たることはあった。栞の使った魔法のような力。
もしかしたら別の魔法を使うことで他者への認識へと作用する特殊な技があるのかもしれない。
――やはり二王頭は深緑公園のグランドにいる!
だが問題はどうやって宗馬がグランドへと侵入するかだ。この道を進もうとも認識から除外されてしまうのならば何度でも通り過ぎてしまうだろう。
小さく溜息をつくと宗馬は左手を腰に当て、右手でこめかみの辺りを掻いた。
「ごちゃごちゃ考えんのも面倒くせぇな」
呟いたかと思うと宗馬はゆったりと歩き始める。
緑色で塗装された金網でできた鉄扉を開けてテニスコートへと入っていく。
灰色の砂を敷き詰めたクレーコートが四面、長方形の中にきっちりと几帳面に配置されている。
直線や平行線で整理された景色は緻密で数学的な空間を作り出す。
それとは相反する無秩序で野性味を帯びた異質な男、宗馬は忖度する気配も無く突き進むと壁際に寄り添い立ち止まる。向かいのフェンスの更に向こう側に栞がいるであろうグランドがある。
なんの迷いも無く地面を蹴ると、宗馬は風を切る矢となって真っ直ぐに突き進む。
あっという間に緑のフェンスが目前に迫る。
勢いそのまま、大地を強く蹴りつけると宗馬の体は上空へと跳び上がった。鋭い放物線を描いて空を走り抜けると、フェンスを越えてその先にあるグランドへと向かっていく。
認識が奪い取られて思考は目的を見失うが、体は放物線が描く軌跡の終着点へと否応無しに連れて行かれる。
フェンスを越えてグランドの敷地へと入ろうかという時、宗馬の体を強烈な痛みが駆け抜けた。
見えない透明な膜にぶつかったかと思うと、全身を針で突き刺されたような電流が宗馬を襲ったのだ。電流の鎖が侵入者を捕らえ離すまいと巻き付くように宗馬の体を這ってくる。終わりの無い苦痛が宗馬を苛む。
遠のく意識の奥底から修羅の本能が目を覚まし、無意識のまま宗馬の右手に拳を握らせる。そして体を回転させながら遠心力を味方に、宗馬は拳を透明な膜へと叩きつけた。
水溜まりに波紋が広がるように円形の刃が冬の空を切り裂いて衝撃波となって草木を激しく揺らした。
衝撃は膜を何度も波打たせている。
なんとか堪えようと幾重も波を作り出して衝撃を逃がそうとしているようだが、総てを破壊し尽くさんとする修羅の一撃はその努力をも踏み躙る程にあまりにも圧倒的だった。
亀裂は瞬く間に透明な膜全体へと広がり、やがて音も無く砕け散った。
それと同時に宗馬の思考は明確な意志を取り戻し、煮え滾る闘志の意義を再確認する。空中で体制を整えると地面へと難なく着地した。
宗馬の着ている服は電流によって焦げつき黒い煙を上げている。加えて焦げた臭いが鼻を刺激する。
どうやら無事に辿り着くことはできたようだ。
力任せのお世辞にもスマートとは言えないやり方だが、結果をきちんと出したのだから過程がどうとか細かいことは気にしない。その辺は自分に甘い宗馬の、柔らかく表現すればおおらかな性分が遺憾なく発揮されたと言える。
それはさておき、グランドの中央へと視線を向ければ三人の人影を確認できた。
一人は先程ぶり、真紅の髪の少女栞である。
その栞と向かい合うように佇む二人の男。どちらも上背のある体格のいい、宗馬や栞よりも大人びた雰囲気を持っている。
白い頭巾を頭に被った男に限っては常人離れした、まるで人間ではないようなある種化け物染みた気配を持っている。宗馬にはわかった。
――あの男、只者じゃない!
その手には薙刀を持っていて、服装と相まって時代劇から飛び出してきたような、異次元の違和感を醸し出している。
もう一人の男は波打った長髪を中心で分けた男で、どこか歪に歪んだ、印象派の画家の描いた絵画のような、ちぐはぐな判然としない感情の置き処を見失ってしまったような、理解の及ばない超自然染みた印象を宗馬へと与えた。
視線を栞へと戻すと、その身体に刻まれた無数の傷に気付く。
宗馬の貸したジャージはすっかりボロ切れのようになり、露わになった右腕は真っ赤に染まり、痛々しさを紛糾するように訴えかけてくる。
自らの決意を証明するため、昨日出会ったばかりの男を守るため、孤独な闘いに挑んだ少女のあまりに儚く淡い輝きが七色の採光となって宙を舞っていた。
額から流れた血が目尻から頬へと伝い、その紅の描く緩やかな曲線が、宗馬にはまるで栞の涙のように見えた。
宗馬を見上げた栞の瞳の表面に透明な膜が張られて、その薄い水膜が朝陽を反射してダイヤモンドのように煌めいた。
この輝きを必ず守り通さなければならないと、宗馬は心臓の鼓動で理解した。
「どうして――?」
状況が飲み込めないのか、絞り出したように掠れた声が栞の小さな唇の奥から鳴った。
宗馬は栞を少しでも安心させようと努めて柔らかい笑顔を作ると、栞の揺れる瞳を真っ直ぐに見つめた。
微細な輝きを散りばめた大きな瞳の中には、満天の星空が広がっていて、漆黒が支配する広大な宇宙に宗馬は吸い込まれて溶けてしまったように錯覚した。
「お前を助けに来た」
生命が燃えている。宗馬の思念が灰になって朽ちていく程に、奥底から灼熱を纏った修羅が這い出てきて、徐々に宗馬の身体を支配していく。
食え。俺を喰らえ。
宗馬は対峙する二人の男に視線を送る。
「お前ら、運がねぇな。今日の俺は強いぜ」
奇妙な緊張感がこの場にいる者達の心臓を鷲掴みにして、鼓動のリズムさえ制限する。
宗馬の表情や声色が特別変わったわけでもないのだが、放たれる気がまるで大蛇のように這い寄り周囲の人間の皮膚の内側、芯の部分に絡みつき得体の知れない怖気を植え付ける。
蓬は振り切るように首を振ると、歯をむき出して宗馬へと食ってかかる。
「誰だか知らねぇけど邪魔すんなよ。なよぉ」
宗馬はちらりと蓬へ顔を向けると、すぐ興味を無くしたように視線を巡らし白い頭巾の男を見る。
「あんた何者だよ。只者じゃないのはわかるが、生気が感じられないっつうか、まるで死人みたいだな」
「実際死人だからな。からなぁ」
お前には聞いてないとばかりに蓬に対して何の反応も示さない宗馬。顔をひくつかせながら蓬が言葉を繋ぐ。
「そいつはかの有名な武蔵坊弁慶。お前も名前くらいは知ってるだろ。だろぉ? 今は俺の殭屍として忠実に命令を遂行する僕だがな。がなぁ」
「弁慶!?」
宗馬も驚きを隠すことが出来なかったようだ。ようやく宗馬の反応を引き出し、歪んだ笑みを浮かべる蓬の表情はどこか満足げだ。
「どういう仕組みで動いてるとかどうでもいいわ。伝説の僧兵と闘り合う機会なんて滅多にねぇからな。やべぇ、滾ってくるぜ」
「どうでもいいのかよ。かよぉ!? なんでそんな簡単に信じてんだよ。だよぉ!」
「うるせぇな。肌がビリビリするようなこの覇気、弁慶って言われれば納得できるって。そんくらい白頭巾のおっさんからの圧が異常なんだよ」
宗馬の頬を一筋の汗が垂れて顎の先から地面へと落ちて土を湿らせた。
今までに経験したことのない圧力が見えない壁となって宗馬へと何度もぶつかり、全身に細かい衝撃が走る。
足先から這い上がってくる寒気と、それに反して心臓から送り出される血液の温度は沸騰したように泡立ちながら、血管の中を荒れ狂う激流となって流れていく。
宗馬の根源に根付いた修羅の本能が訴えかける――これは武者震いだ。
息は上気し、興奮は度を超え、途方もない期待感に胸は締め付けられる。
これではまるで恋に焦がれる乙女。
血が欲している。命の遣り取りを、削り合いを、剥き出しの生命を抜き身に戟交する、本能の衝突を。
宗馬は自分の唇の端が知らぬ間につり上がり、血に狂った狂気の笑みを浮かべていることに気付いた。
蓬は宗馬の表情を見て思わず凍りついた。
「一般人の死体は面倒なんだが、仕方ないな。ないなぁ。処理は親父に任さればいいさ。いいさぁ」
何故だかわからないが、この男を放っておいては危険だと予感したのか、覚悟を決めたように雄叫びを上げた。
「弁慶! その男を殺せ。殺せぇ!」
蓬の切迫した叫びが終わる前に、弁慶は飛び出していた。
巨躯からは想像もつかない速度で宗馬との距離を詰める。
閃光が瞬いたように薙刀が振るわれて宗馬を真っ二つにするための銀色の刃が音を追い越して疾る。大気が裂かれ空気の波動が半円形に周囲に広がり、大量の砂を巻き上げた。
宗馬は体を屈めて刃をやり過ごすと、怯むことなく一歩を踏み出して深く懐の内側へと入り込む。
それと同時に脇腹の横で構えていた拳を突き出す。
精密な機械のように効率的に伝達されていくエネルギーは爆発的な破壊力を生み出す。その破壊の権化である拳が弁慶の脇腹へと当たり更に奥へとめり込んでいく。
巨体が宙を舞った。
風を受けた風車のように回転しながらすっ飛び、やがて地面に激突して転がった。
途中のやり取りは何も見えなかったが、今現在どちらが立っているのかは誰の目にも明らかだった。
蓬は口をあんぐりと開けたまま間抜けな表情を晒している。
栞も大きな目を更に大きくして驚いている。
宗馬は自分の右手を見つめた後、手の平を閉じたり開いたりして何やら感触を確かめているようだ。
「いかんいかん。あんまり興奮し過ぎて少しタイミングがずれた」
呟くと首を回してそれから屈伸、肩回しなどなど準備運動を始める。
数十メートルも飛んでったはずの弁慶が何事も無かったかのようにぬらりと起き上がり薙刀を構えた。
待ってましたと宗馬はニッと微笑むと、準備運動を切り上げて弁慶に向き合う。
「さあ、始めようか!」
宗馬は意気揚揚と声高に宣言すると、右拳を左の掌へと打ち付ける。
穏やかだったグランドに冷たい木枯らしが吹き始め、充満した熱気を冷まそうと冬の役割を懸命に全うしようとしているようだ。
両者を見守る栞の胸を真っ黒な何かが締め付けた。不安が恐怖が予感となって襲い掛かる。
絶対的な強者であるはずの二人。だが栞の眼にはどちらも弱弱しくそれでいて透明な、刹那の幻か微睡みに見る夢のように儚い存在に映った。
――消えてしまう。
縁起でもない感情の吐露は、しかし確かな予言のように不思議な説得力を誇示して、栞の全身を這い回り、とうとう気味の悪い不安を忘れさせてはくれなかった。




