3.もう一人の相談相手
灯りの消えた廊下を走って、辿り着いた先は姉のライラの寝室だった。後ろからジュドーが追いかけてきている気配がして、ノックもせずにライラの寝室に駆け込んで後ろ手で扉を閉めたリューシュに、パジャマ姿で寝る支度をしていたライラは、驚いて目を丸くしていた。
扉の外からジュドーの声が聞こえる。
「リューシュちゃん、話がしたいっちゃけど。出てきてくれんね」
「今日は、ライラお姉様と寝ます」
女性の寝室にジュドーが無断で入って来ることはない。逃げ場としてライラの部屋を選んだ理由はそれだったが、ジュドーの声が聞こえなくなって、リューシュは涙ぐんでしまった。洟を啜ると、心配そうにライラが近寄って来る。
「ジュドー様と喧嘩でもしたのですか?」
「いいえ、ジュドー様はわたくしが怒るようなことは致しませんわ」
「それならば、なぜ?」
「わたくし、はしたない真似をしてしまったのです」
大切にされていると分かっていたのに、自分から口付けて愛を請うような行為をしてしまった。思い出すだけで恥ずかしくて涙が零れるリューシュを、ライラが肩を抱いて椅子に座らせてくれる。水差しから注がれたレモンの香りのする水は冷たく、喉に染み渡る。
湯上りに、ジュドーは髪に良い香りのするクリームを塗って、乾かしてくれながら、水分補給のために冷たい飲み物も用意してくれる。春も昼間は日差しが強く暑く、夜も温暖なコウエン領では、冷たい飲み物一つとっても、魔術が必要な手間のかかったものだった。
髪を美しく保つためにも、リューシュを労わることにも、手を尽くしてくれるジュドーの心遣いを思い出せば、自分のしたことの恥ずかしさにリューシュは涙が零れた。
痩せたライラの手が、リューシュの背中を撫でてくれる。
ほっそりとしたライラは、16歳で結婚させられてから愛もないまま夫の元で7年以上、離れに監禁されて、夫は愛人を家に連れ込み、使用人にすら粗雑な扱いをされてすっかりと痩せ細っていた。輝くように美しかった姉の姿を幼心に覚えているだけに、今も美しいが寂し気であるのがリューシュには気にかかる。
「ジュドー様は良い方ですわ。怒ってなどおられませんわよ」
「ジュドー様に求めて欲しくて、わたくし、自分から口付けを致しましたの」
「まぁ……」
「サナ様は、ジュドー様も我慢しているかもしれない、大人しくしていると他人に盗られてしまうと仰って」
驚きに見開かれたジュドーの瞳が忘れられない。
何か言われるのが怖くて逃げ出してきてしまったのだと告げれば、ライラはリューシュの隣りに腰かけて、いなくなった母とよく似た面差しで微笑んだ。
「リューシュは、本当にジュドー様を愛しているのですね」
「それは、もちろんですわ。わたくしにとって、ジュドー様はなくてはならない方です」
魔術学校の研究過程に進むことを望んでくれて、年齢的に子どもが欲しくてもおかしくないのに、卒業を待ってくれている。ジュドーがコウエン領の領主としてのリューシュと、女性としてのリューシュ、どちらも尊重してくれていることはよく分かっていた。
「わたくし、お父様に結婚させられたでしょう? 元夫は、わたくしになど興味がなかったから、子どもができませんでしたの」
結婚しているのに子どもができないと、責め立てられて、ライラは屋敷の中で孤立して行った。正直、愛してもいない夫の子どもを妊娠して、産んで、愛せるのか分からない。けれど、子どもを産まないライラに、義母も義父も使用人もライラが悪いと責め立てる。
なんとか元夫の興味を自分に向けようと、話をしてみたら、元夫は嘲笑いながら言ったのだ。
「『卑猥な下着を着けて、自分を誘惑してみろ。上手にできたら、抱いてやる』と言われて、わたくしは、躊躇いました。外にも出してもらえない、家では義母や義父、訪ねてきた元夫の兄弟たちまでわたくしを口々に責める……耐えられなくて……」
「お姉様、言わなくてもいいのです!」
「いいえ、聞いてください。わたくしは、恥ずかしい格好をして、元夫を誘いました。あの男は、笑いながらそれを眺めていました」
姉からの告白にリューシュの目に、新しい涙が盛り上がる。褐色の頬を撫でて、ライラは穏やかにリューシュの涙を拭う。
「子どもができなくて本当に良かったと思います。あんな男の子どもを産んでも、わたくしは幸せになれなかった。リューシュ、あなたが領主になってすぐに、わたくしを助け出してくれたこと、本当に感謝していますの」
「もっと早くに助け出したかった……」
「いいえ、あなたはよくやってくれました」
両手で顔を覆ってしまったリューシュを、ライラはぎゅっと抱き締める。細い腕に抱き締められて、薄い胸に顔を埋めて、リューシュはライラの細さを噛み締める。
「節度を持って接する、とジュドー様はわたくしに誓ってくださいました」
まだリューシュは若く、学生として研究過程に通っている。それ以前も父親や兄から、酷い扱いを受けていた。全てを取り戻すことはできないが、リューシュが傷付いた分を取り戻せるように、大事に愛して、節度を持って接するとジュドーは姉のライラに誓っていたのだ。
「節度を持って……」
「ジュドー様も殿方ですもの。本気になられたら、リューシュも大変かもしれませんわ?」
「それは、その……夜の、ことですか?」
「それだけではなくて、キスされただけでも、リューシュはそのことで頭がいっぱいになってしまうでしょう?」
ジュドーのことだけ考えていたい時間もあるが、やはり、リューシュにはコウエン領領主としての仕事も、研究過程の学生としての勉強もある。
「赤ちゃんも、今できたらこまるでしょうし」
行為の先に妊娠や出産という結果があるのは分かっているが、ある程度気を付ければ防げるものだという知識もリューシュにはあった。しかし、それが絶対ではないから、ジュドーは控えてくれている。
ジュドーの行動に優しさしかないと分かれば分かるほど、自分が恥ずかしくて、部屋に戻れないと泣くリューシュを、ライラが背を押してくれた。
「そのままの気持ちをジュドー様にお伝えすれば良いのですよ。あなた、研究過程に行きたくないと言ったときも、あんなに大胆だったのに」
――わたくしは、少しでも早くジュドー様のものになりたいのです……コウエン領領主として、研究過程に進んで、魔術を深く学び、魔術師の少ないコウエン領の手本とならねばならないのは分かります。頭では分かっていても、わたくしは……
必死過ぎて忘れかけていたが、あのときに既にリューシュは大胆な告白をジュドーにしていた。それを軽蔑したりせずに、ジュドーは柔らかく受け止めてくれた。
「部屋に、戻ります。お姉様、お騒がせ致しました」
「またいつでもどうぞ」
微笑んでリューシュを送り出してくれるライラに、幸せが来ないのかと、リューシュの頭を過る。結婚も男性ももうこりごりだというくらいの経験を、ライラはしてしまった。それを塗り替える新しい恋はないのだろうか。
考えながら扉を開けて廊下を歩き出そうとして、暗がりからぬっと現れた人物に、リューシュは悲鳴を飲み込んだ。
「ジュドー様!?」
「諦めが悪くてごめんけど、リューシュちゃんが心配で。驚かせたね」
「待っていてくださっていたのですか?」
「というか、ここで落ち込んでたというか」
怖がらせてしまってリューシュを逃げさせてしまったのではないかと、廊下にしゃがみ込んでジュドーは落ち込んでいたのだという。
「怖がって……わたくし、ジュドー様を怖がったり致しませんわ」
「そんなやけん、気が抜けんっていうか。俺も男やけんね、理性が崩れそうになることがあるっちゃん」
そんな男のぎらぎらとした欲望を見せてしまったからリューシュが怯えて逃げたのだと、ジュドーの方は勘違いしているようだった。
「わたくしがはしたない真似をしたから、怒っていたのでは?」
「はしたないなんて、思ってないよ。リューシュちゃんからキスしてくれるとか、嬉しくて、可愛くて、つい、そのまま手が出そうになって、欲望と理性が戦ってただけで」
「し、寝室に戻りましょう」
ジュドーの手を引いてリューシュは寝室まで歩いていく。握ったジュドーの手は職人らしく、手の皮が厚く、大きく、暖かい。
二人きりで寝室に戻ってから、改めて向き合うと、リューシュはジュドーの広い胸にぎゅっと抱き付いた。温かくて、ジュドーの鼓動が聞こえて、ジュドーの匂いに安心する。
「俺は、強欲やけん、リューシュちゃんの全部になりたいとよ」
「わたくしの、全部ですか?」
「リューシュちゃんを初めて抱いた日に、一緒にお風呂に入ったやん? リューシュちゃんの腕には、細く赤い痕が幾つも残っとった」
湯船に浸かって優しい手つきで、ジュドーはリューシュの腕の鞭で叩かれた痕を、何度も撫でてくれた。その手の優しさと暖かさを、リューシュは夢見心地だったが忘れていない。
「酷いお父さんとお兄さんやった。結婚させられようとした男も酷かった。やけん、俺は、リューシュちゃんを父親や兄のように甘やかしたいし、リューシュちゃんの恋人でもありたいし、夫でもありたい」
今まで与えられなかったものを全ては無理かもしれないが、与えられるだけ与えてくれるというジュドーの言葉に、止まったはずの涙がまた零れる。
ジュドーの手がリューシュの背中に回って、撫で下ろすのが心地よい。
「愛しております、ジュドー様」
「俺も、愛しとうよ、リューシュちゃん」
口付けられて、リューシュは目を閉じた。
ベッドまで運ばれて、抱き締められて眠るリューシュは、ぽつぽつとライラのことをジュドーに話す。
「お姉様にも幸せが来れば良いのに……」
「そういうのは、分からんもんやけんね」
自分ばかりが幸せで申し訳ないような、それでも幸せ過ぎて涙が出てきそうな心地よさに包まれて、リューシュはジュドーの腕の中で眠った。
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