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くせ

作者: 森永盛夏

 仕事が終わって、帰路についた。細かい雨の降る中、歩いて仕事場から最寄駅までを歩いた。電車の中には、疲れたと顔に書いてある人々がチラホラと見えた。席に座り、向かいのガラスに映る自分の顔を見てみた。どうやら、私の顔にも疲れたと書いてあるらしかった。

いつだったか、上司が言っていた言葉をふと思い出した。

「なあんにもうまくいかない日ってあるよね。僕今日その日なんだよね。」

私が頷いて共感の意を示すと、彼は続けた。

「どのくらいうまくいかないかって言うと、間違えてスニーカーを履いてきちゃうくらい。」

そう言って笑っていた。私は、形だけでなく心から共感した。何をしてもうまくいかない日は確かにある。私も今はそんな時期なんだと思う。


 考え事をしていたら、私の降りなければならない駅に到着した。一度思考を止めて、ホームに降りる。両の耳にはめたイヤホンからは今話題のバンド曲が聞こえている。電車に乗り込んだときにかけた曲とは全く違うアーティストだ。どれほど深く考え込んでいたのかを思い知った。

 エスカレーターを降りて改札を抜ける。駐輪場にある自分の自転車を見たら、ふと、今日自分が歩いて帰りたい気分であると気づいた。そして、ではこの自転車はこのままにしておこうか。いや、明日のことを考えると、自転車がない状態での通勤は時間もかかるしなにより嫌だ。そんな思考をめぐり、自転車を押して帰ることにした。

 普段はただの風景だけど、歩きながらゆっくりと眺めると、それらはみんな生きている。ざわざわと揺れる街路樹や、暗闇に紛れる野良猫たち。自転車に乗っているときには目に入らないものが、私の感情を揺さぶってくるのがわかる。幼少のころよく遊んだ公演を通り過ぎ、寂れた商店街に入った。


 私は、当然のように自転車を自分の右側に置き歩いている。その事に気がついた時、私は寂しいような、懐かしいような、簡単に言えばセンチメンタルな感情になった。あの頃を思い出す。私と、その隣にはいつもあなたが居た頃のこと。

 それは、私が高校生の時にした恋の話。初めて実った恋の話。


 日はもう落ちて、美しい星空の下、電車通学のあなたを駅まで送り届ける。田んぼから香る土の匂いや、夏にはカエルの合唱。あなたの青いリュックサック、横顔や笑顔、様々な表情。私の自転車が鳴らすからからと乾いた音など。写真のような、断片的な情景が今の私に柔らかく刺さる。今はもう、あの時何を話していたかも思い出せない。それでも、わたしにとってあの日々はとても大切で、自ら捨てることのできないものだ。

 あなたは決まって私の左側を歩いた。だから私は、少しでもそばに居たいから、自転車を自分の右側に押して歩いた。そしてそれは、私の中での数少ない癖の一つになった。


 気がつけばもう、私は自宅の前に居た。平日の夜、私の癖は少しの間私を時間旅行に連れて行ってくれたようだった。バッグの小ポケットから鍵を取り出して玄関を開ける。

「おかえりなさい。」

その声は、私をささやかな旅から、この寂しくて悲しくてつまらなくて、とっても幸せな現実に引き戻してくれた。

「ただいま。」


 今日眠ってしまえば、今のような思いも記憶も、きっと薄れてしまうだろう。だけど、それでいいのだ。大切な思い出やあなたが不確かなものになってしまうよりも、不確かな思い出によって今が乱れてしまうことのほうがよっぽどいけないことなのだ。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 文章が丁寧で上手ですね。
2019/07/03 21:22 退会済み
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