0301:三日目(A)
チャイムの電子音が鳴る。三人の入居しているマンション、エスペランサー南の二階では、二人の少年が常盤というプレートのついたドアの前に立っていた。
「おはようございまーす」
「さっさと起きねぇと先行くぞ、コラ」
朝はこうして二人でさくらを迎えに行くのが日課である。昨日みたいに置いていって怒られるのもなんだ、今日は無理やり起こしてでも連れて行くとしよう。
俺はというと、二日目にして既にゲームによる寝不足にも慣れた。むしろ朝からハイな気分なのだが、ひょっとしてヤバイ状態なのだろうか。
「あら、あの子なら三十分くらい前に行ったけど……、ゆうちゃん達と一緒じゃなかったの?」
ドアから顔を出したさくらのお母さんが怪訝そうに言った。
「え?」
準貴と顔を見合わせる。さくらがいないと分かった以上、常盤さん家の前に居座っていても仕方がない。とりあえず駅に向かうことにした。
「さくらが先に行ったって、珍しいこともあるもんだな」
準貴の言うとおり、少なくとも今までの学生生活の中で彼女が先に行ったことは一度もなかった。
「昨日のこと怒ってるのかも……」
起こさなかったことだけではない。涼子のことしか見えていなかったこともそうだ。
「ハハッ。あいつ、構ってちゃんだからな」
肩で笑う準貴。
「アップステアーズのことを話そうと思ってたんだけど、仕方ないか。休み時間にでも三人で話そう」
これからの方針、PTの名前やらを話し合いたい。
「おう」
学校に到着し、準貴が部活に行くのを見送って教室に向かう。開いていた引戸から覗くと、さくらが尻尾を上に向けて机に顔をうずめていた。
何かあったのかと心配していたが、普通に学校に来ているではないか。教室に入る前に自販機で缶ジュースを買っていく。
「おはよう」
「ん……、おはよう」
席につき声をかける。さくらが眠そうに目を擦りながらこちらを向いた。
「学校で二度寝か?」
買ってきた缶コーヒーをおでこに当ててやる。
「まぁね」
缶コーヒーを受け取りプルトップを開けようとしているが、深爪のせいかなかなか開かない。自分の缶を開け、無言で彼女のものと交換してやった。
「ありがと」
礼を言い、両手で持ってすすり始める。
「昨日は悪かったな」
「何が?」
「帰り、さ」
何やら楽しみにしていたようだったが、涼子とお茶に行ってさくらと帰れなかった。楽しみにしていたのは、いつも通り食べ物を奢らせることだろうが。
「あぁ……、別にいいよ。これでチャラにしてあげる」
「そりゃどうも」
「で、うまくいったの?」
「いや、三歩進んで二歩下がってる感じだな」
結局涼子は何も話してくれなかったが、二度目を望んでいるように見えた。しかし昨日は美琴のお陰で上手くいったが、今度はどう誘えばいいのだろうか。
「ふーん、一歩進んでるんだ……」
そういうポジティブな考え方もあるのかと感心する。
「悩め、若者よ」
さくらが飲み終えた缶を後ろのゴミ箱に投げようと、バスケのシュートみたいに構えた。
「悩んでるよ、英語の長文読解並にな」
缶が手を離れ、緩やかに放物線を描く。惜しかったが、ゴミ箱の角に当たって、横に回転しながら床を転がった。
「ありゃ」
「教室の中で物を投げないように。人に当たったら危ないからね」
後ろのドアから入ってきた男が、止まった缶を拾ってゴミ箱に入れた。
「ありがと、クラス委員長」
加瀬聖。眼鏡と真面目で体の90%が構成されているような男だ。彼のことをよく知らないのは、あまりクラスの用事以外で喋ったことがないからだと気づいた。
「加瀬っていつも早いよな」
席の横を通り過ぎるのを待って尋ねた。俺が朝学校に来る時には、必ず聖と七海の姿がある。
「クラス日誌に名簿、授業の準備。これだけ早く来ても時間は足りないくらいだよ」
真面目のテンプレートみたいな言葉を返される。
「大変なんだ、クラス委員長って」
「確かに大変だけれど、得られるものも多いよ」
またテンプレートが返ってくる。言葉のキャッチボール二球目にして挫けかけた。
「加瀬はアップステアーズやってるのか?」
「塾があるから最初から最後までは入れないけれど、空いた時間で参加させてもらっているよ」
意外だ、てっきりパソコンや携帯電話を持ってないとか言い出すかと思っていた。
「へー、誰かとPT組んでるのか? 結構お誘いあるだろ」
頭がいいし、PTを組みたいと思うクラスメイトは多いのではないだろうか。
「きちんと時間が取れないから、誘いは断らせてもらってる。今は山並さんとPTを組ませてもらっているよ」
聖が黒板の前の席に座っている山並の方を見る。彼女は振り返らずに、黙々と厚い本を読んでいた。
山並七海。美月と共にクラス副委員長を務めている大人しい少女。常に日陰にいるようなイメージがあり、彼女ともあまり会話をしたことがない。入学式の時に、外国の詩が好きだとか自己紹介していた気がする。
「七海ちゃん? やることはやってるね、この色男」
さくらが軽く肘でつつく。
「ははは。小学校からの仲だから、お情けで組ませてもらっているだけだよ」
笑いを止め、聖が急に深刻そうな顔をする。俺とさくらもそれに気づき、静かに次の言葉が発せられるのを待った。
「このゲームが終わったとき、君達は今までどおりの関係でいられると思うかい?」
クラス委員長らしからぬ、趣旨のよく分からない問い。
「当たり前だろ」
あれはゲームだ、考えるまでもない。即答する。
「……」
しかしさくらは眉をひそめて考え込んでいた。どうしてそこで考える必要があるのだろうか?
「いや、変な質問をしてしまったね。すまない」
聖はそう言い残し、踵を返して七海の隣の自分の席に戻っていった。
本日最後の授業が終わったことを示すチャイムが鳴る。椅子を動かし、座ったまま三人で向かい合った。
「なぁ、たまには誰かん家に集まらないか?」
第一声は準貴の提案。
「それいいな」
「うん、中学校以来じゃない? 折角だし、みんなの家行こうよ」
高校までは度々三人の内の誰かの家に遅くまで入り浸っていたが、高校に入ってからはなんとなく行くこともなくなってしまっていた。確かにこれはいい機会だと思う。
「今日はどうする?」
「さくらの家はどうだ? たまには、ももちゃんの顔を見たいな」
さくらは三人姉妹の長女である。次女のえりかはこの高校の一年生。三女のももは小学生になったのではなかったか。
「このロリコンどもめ!」
どちらかに言われると思っていたが、やはり準貴に指摘される。
「ちがう!」
「まぁ、別にいいけど……」
さくらが自分の長いモミアゲをくるくるいじりながら許可を出した。
「よっしゃ。なんか差し入れいるか?」
生活費に余裕がないと聞いている。さくらは気を遣われるのを嫌っているが、負担をかけない程度には持っていくべきだろう。
「寿司、焼肉、エビチリ、ラーメン、カルボナーラ、牛丼、豚丼、キムチ鍋……」
彼女の口からメニューが、早口言葉の如く間を置かずに飛び出す。それは差し入れではなくて、単に好きな食べ物を言っているだけではないのか。
「待った、一つにしてくれ」
「……フライドチキン」
しばらく考えていたようだったが、俺でも購入できそうなものに絞ってくれた。
「工面する」
「早めに部活切りあげて、俺も行くから」
準貴が鞄を背負って立ち上がった。
「うん」
「また後でなー」
二人で手を振って、教室から出ていくのを見送る。
「今日は氷室さん誘わないの?」
「そう何度も誘ったら迷惑だろ」
黒板の前の席を見ると、既に美琴と涼子の姿はなかった。
「よう、さくらちゃんと斉藤。恋愛の悩み事ならおねーさんに任せなさい」
出る機会を伺っていたんじゃないかという絶妙のタイミングで、陽菜が俺の前の自席からやってきて、準貴の席に腰掛けた。
「お呼びじゃないぞ」
いつの間にか奈菜も陽菜の後ろに立っている。彼女達も俺達と同じたたら南中学の出身であり、いがみ合う間柄だが割と仲はいい。
「陰で話題になってるよ。昨日斉藤が撃沈したって」
少しも悪びれず遠慮せずに言い放つ陽菜。確かに失敗はしたが、意味を違えている気がする。
「姉さん、それはストレートすぎます……」
すかさず妹がフォローしようとしてくれる。姉と違って出来る子なんです。
「いいのよ奈菜ちゃん。あたしは凹んだ顔見に来ただけだから」
「ひどい言われ様だな」
「ゲームの方も散々やられてたみたいだしね」
「なんだ、見てたのか?」
智和の件だろうか、氷室の件だろうか? 全然気がつかなかった。
「ちっちっちっ、あたしの能力なら島の端から端まで一目瞭然なのだよ」
「姉さん、あまり能力のことは口外しないほうが……」
島の端から端まで見える力、目を強化するような能力だろうか。奈菜が止めなければ勝手に喋ってくれただろうに、残念だ。
「大丈夫よ、奈菜ちゃん。こいつ、灰燼ごときに苦戦してたくらいだもん」
陽菜が聞き慣れない言葉を口にする。
「灰燼?」
「人の形したロボットみたいなやつのこと」
どうやら涼子と戦ったあの黒い化け物のことのようだ。
「説明書に載ってた?」
さくらが身を乗り出して尋ねる。どうやら彼女も知らなかったようだ。
「いえ、ゲームの中で耳にしたと思うんですが……」
「あたし達なら一撃で粉砕できるもんねー」
陽菜が腕を組んで自慢げに言い放つ。からかいたくて体がウズウズしてきた。
「俺なら0.5発で倒せるもんねー」
「ムカッ、あたしなら0.1撃で――」
「姉さん、よく分からないところで張り合わないで下さい! ……斉藤さんもあまり姉さんをからかわないで下さい」
このままだと山手線ゲームのごとく、小数点数十桁まで言い合うことになる。奈菜もさすがに見るに見かねて陽菜の暴走を止めた。
「ごめんな。奈菜ちゃんの姉さん、からかい易いからつい」
「ムカーッ」
「分かります。姉さん単純なので……」
「奈菜ちゃん?!」
姉大好きっ子だったはずの妹に不満を言われ、陽菜が驚いていた。それを見て奈菜が声色を変える。
「でも、そこは私がカバーします。私の足りないところは姉さんがカバーしてくれます。――だから、ゲームで会った時は覚悟して下さいね」
「奈菜ちゃん……」
陽菜は妹の啖呵に感動しているようだった。傍から見れば、妹にいいとこを取られた可哀そうな姉にしか見えないのだが。
「そういうことだから、覚えておけよ!」
返り討ちにあったチンピラみたいなことを叫び、陽菜が席を立った。
「分かった分かった。気をつけて帰れよ」
「べー、だ」
二人は周りの友人達にあいさつをして去っていった。
教室に束の間の静寂が訪れる。まるで性質の悪い台風が上陸していたようだった。
「帰るか」
「うん。……祐太って、すごいね」
さくらが俺の顔を見つめて、しみじみと言った。
「何が?」
「あの双子と互角にお話できるって、すごいなぁって。あたしずっと呑まれてたよ」
「――自由気ままな女の子に鍛えられたからな」
「え、誰それ?」
お前だ、お前。返事をしないで教室を出る。
さくらはしばらく口をへの字にして考えていたが、何も言わずについて来た。
準貴の部活が終わるのを待って、さくらの家に向かう。忘れずにフライドチキンも六人前買ってきた。
「「こんばんわー」」
「いらっしゃい。うちに集まるの久しぶりじゃない? おばさん張り切っちゃうわ」
さくらのお母さんが出迎えてくれる。一言二言話をしてキッチンへと戻っていった。
玄関には大きなダンボールが積んである。中身は内職用の造花だろうか。
「こんばんわ……」
「久しぶり、祐太お兄ちゃん!」
えりかと、ももが挨拶に出てきてくれた。
えりかはさくらより背が高く、おしとやかで、よく長女と間違われる。学校で会った時には立ち話をしているが、こうして私服でいるところを見るとまた違った印象を受ける。
ももは姉と同じくポニーテールを結った元気な女の子で、人に紹介するときは『小さなさくら』で通じる。最後に見たときとは見違えるように大きくなった。
「あれ、俺は?」
準貴が自分を指差してはしゃぐ。
「準貴はキライ」
ももはくるりと回って、母を手伝う為キッチンに向かって行ってしまった。
「呼び捨てか……。ももちゃんに、お兄ちゃんと呼んで欲しいという下心があったんだが」
ロリコンはこっちだったか。えりかが半歩後ずさる。
「あの子まだ、小さい頃かくれんぼで放置されたの根に持ってるのよ」
「そんなところにフラグが隠されていたとはな……」
「バーカ、バーカ」
キッチンからももの声が聞こえた。
「いただきます」
一つのちゃぶ台を六人で囲んでご飯を頂く。前はよくこうして皆一緒に食べていたが、いつの間にこんなに狭くなったのだろう。さくらの母の作ったひじきの煮物を口に入れた。
「うん、すごい美味しいです」
「それはよかったわ。じゃんじゃん食べてね」
「おかわり!」
さくらが勢いよく空っぽになったご飯茶碗を突き出す。
「はえぇよ!」
いつもより準貴のツッコミのキレがいい。皆の顔に笑顔がこぼれる。
テレビなんてなくても、こうしてみんなで笑っていられる。今日はここに来て良かったと思った。
「甘いな準貴、飯は食うか食われるかの戦場よ」
「誰が(食事中だけに)美味いことを言えと……」
「牛乳……?!」
牛乳を口に含んださくらが、目を見開いて驚愕した表情をした。
「今日はお友達が来るっていうから奮発しちゃった」
母が答える。
「いつもは牛乳飲まないのか?」
「飲むけど、何でもない。気にしないで」
さくらが手を大きく振りながら慌ててまくし立てる。なんとか誤魔化そうとしているのが余計に気になった。
「いつもは低脂肪乳だから」
素知らぬ顔で、ももがバラす。
「恥ずかしいから言うなー!」
「いたっ!」
ももがさくらに小突かれるのを見ながら、牛乳と低脂肪乳は違うものなのかと自問していた。
ももが唇を突き出して、ひじきの煮物をえりかの方に押しやる。
「コラ、ちゃんと食べないと大きくなれないよ?」
たしなめるさくら。こういうところを見ると、しっかりお姉さんをしているんだなぁ、と感心させられる。その姉らしいところを、少しでもだらけている学校生活に回して欲しい。
「やだー、ひじきキライー。コバエの幼虫みたいなんだもん」
その瞬間、食卓の空気が凍った。皆の箸が宙で止まっている。そういえば、さくら曰く彼女は空気ブレイカーだったか。
「く、食わず嫌いは良くないぞ。さくらのお母さんの料理めちゃくちゃ美味いのに……」
動揺しながらも、ひじきの煮物を食べながら力説してみる。
「あらあら、褒めてもおかわりくらいしか出ないわよ」
「かえでさん、今日もめっちゃ綺麗っす!」
今日既に何度か見た光景。再び差し出されるご飯茶碗。
「はいはい、さくらはもう三杯も食べているんだから、それくらいにしておきなさいね」
茶碗一杯によそわれたご飯がさくらに返される。
「えりかは学校で上手くやってるか?」
ももに気を使って静かにしていた準貴だったが、とうとう耐え切れなくなって、意思疎通のできない父親みたいなことを言い始めた。
「はい」
「女バスだったっけ? あんまり学校の中で会わないよな」
「一年とは棟が違うからね」
さくらが返事をする。朝一緒に通わないかと誘ったが、邪魔をしては悪いからと断られたらしい。
「もも小学生になったんだよ」
「ほんとに大きくなったなぁ」
俺は微笑んで返事をしながら、小学生のさくらが赤ん坊のももを抱えていた光景を思い出していた。その赤ん坊が今や小学生になったのだ、感慨深くもなる。
「大きくなったのは体だけで、おつむの方はねぇ……」
さくらがため息をつきながら放った言葉に、ももがムッとした表情をしている。
「祐太兄ちゃん。悪いこと言わないから、そいつは辞めときな。苦労するから……」
ポンポンと肩を軽く二回叩かれた。どういう意味かと不思議に思っている横で、二人がいがみ合っている。
こうして賑やかな食卓はすぐにお開きとなった。