0004:おまけ
今更ですが、IOException本編の後日談です。
二度目の沖縄旅行を終えてから、しばらく後のこと。アップステアーズの一件が現実味を失って思い返されるようになるほどに、何事も無く日々は過ぎていった。
とある休日、俺は準貴と二人でボーリングに来ていた。控え席に腰掛け、靴を履き替えながら話しかける。
「珍しいな、二人で遊びに行こうだなんて」
「お前と話をしたいと思ってたからな。遊びはついでだ」
準貴がレーンの前に立ち、ボールを胸の前に構えた。助走に入り、力強いフォームでボールを転がす。レーン中央に引き寄せられていったボールが、爽快な音を立ててピンを弾き飛ばした。
「お前ら最近、ぎこちないよな?」
準貴の頭上の画面で、ストライクの文字が踊っている。
「そうだな……」
靴紐を結び終え、立ち上がりながら返事をした。お前らと聞かれているのに、さくらの顔が浮かんでくるくらいに自覚している。
ボールを掴み、レーンの前に移動した。
「昨日、涼子と二人で出かけていたらしいな」
「女一人じゃ入りにくい店があるから、付き合ってくれって言われたから」
返事をして、投球フォームに移る。
訪れたのは、刀剣の専門店だった。目を輝かせた涼子を連れて店内を歩き回り、結局何も買わずに店を後にした。さくらに笑い話として伝えたが、苦笑いをされてスルーされてしまった。
手から離れたボールはコースから逸れていき、半分近くのピンが残ってしまった。
「先週は陽菜だったか?」
「好色家みたいに言うな。妹と陸も一緒だ。さくらにも声をかけたぞ」
気を取り直して、再びボールを構える。
「相手が知っているから、とかいう問題じゃないんだよ。……例えば、あれだ。さくらから、龍之介や健太と遊びに行ったと聞かされたら、どう思う?」
部活の面子だろうか、隣のレーンでは複数の男女が歓声を上げていた。その中の女の子の一人に、さくらの顔を重ねてみる。見知らぬ男達と嬉しそうにハイタッチをしている彼女の姿に、体が縮むような苦しさを感じた。
「やきもち? 心配……?」
「だろ? その上、涼子と陽菜はお前のことを好いてた。さくらが、お前の心配以上に不安に思うのは当然だろ」
転がした二球目は、一本も倒すことなくピンの横を通り過ぎていった。
準貴の言葉が頭から離れず集中できなかったせいか、ボーリングは散々なスコアになってしまった。
テレビの前に陣取る母親と挨拶を交わし、リビングを後にして自分の部屋に向かう。鞄を床に置こうとして、机の上に小さなダンボールが置かれていることに気付いた。靴箱くらいの大きさで、外装に社名は無い。差出人欄が空白になっているあたり、どこか既視感を覚える。
「母さん! 机の上の荷物って――」
部屋のドアを少しだけ開け、大きな声を出してリビングにいる母親に尋ねた。
「あんたが学校に行ってる間に届いたわよ。前にも言った気がするけれど、あんまり変なものは買わないように」
「え……、うん……」
とりあえず返事をしておいたが、通販を利用した覚えは無い。――しかし、なんとなく予想はついている。期待感よりも嫌な予感の方が上回っているが、指はパソコンのスイッチに伸び、電源を入れていた。
ダンボールを開き、新聞紙を取り除いて開封する。出てきたのは、やはりというべきかDVDのケースだった。ジャケットは前回と異なり、某CMに出てくるような、草原の中に立つ大きな木が写っている。タイトルには、ソフトな色使いで『ときめきモントリオール』と表記されていた。
接続の完了したことを示す電子音が鳴った。ゆっくり目を開ける。
パソコンや机はもちろん、つい先程まで感じていた椅子の感触も消え失せ、俺の体は真っ暗な空間に浮かんでいた。
『08・サイトウユウタのログインが完了しました。ようこそ、ときめきモントリオールへ』
久しぶりに、システムの声で名前を呼ばれた。やはり、聖や七海が関わっているようだ。
アップステアーズの二の舞にならないように、静かに説明に耳を傾けた。
『ときめきモントリオールはグループのコミュニケーションの活性化を狙った、学級SNSです。アップステアーズのシステムを引き継いでおりますので、ゲーム時に保有していた能力を使用することが可能です。本作では痛覚にリミッターが設けられていますので、安心してご利用ください。また、戦闘不能と判断された場合、ゲームから除外されることはありませんが、強制的にスタート地点に戻されることになります』
アップステアーズを土台に、コミュニケーションツールにしてしまったようだ。あの数日間の興奮が呼び起こされ、期待が高まる。
『開始記念として、特殊イベントをご用意しました。フィールド中央に配置された樹の下で言葉を交わされた二名には素敵な展開が? 一組様限定ですので、奮って挑戦してください』
説明が終わったようで、周囲の闇が波紋を起こしたように歪んでいく。再び目を閉じて、流れに身を任せた。
「おいおいクラス委員長、これはどういうことだ?」
フィールドに転送されて早々、大きな声が聞こえてきた。振り向くと、眉間をピクピクさせた智和が聖に詰め寄っていた。
「俺は、『美月といい感じの雰囲気になるゲーム』を作ってくれってお願いしたよな?」
「僕もそう記憶している。しかし折角だから、クラスのみんなにも楽しんでもらおうと思ってね。全員にディスクを送って招待したんだ」
「そういうサービス精神は、ありがた迷惑ッ?!」
智和が背後にいた人影に気付き、声を裏返らせた。
「――桜井君?」
彼に話しかけたのは、美月だった。他のクラスメイトの手前、おしとやかを装っているが、背中から殺気らしきものが立ち昇っている気がする。
「ちょっと顔貸――ついて来てください」
美月は手を取ると見せかけ中指を捻りあげ、恍惚の表情を浮かべた智和を森の奥へと連れて行ってしまった。
改めて周囲を見渡してみる。おそらくスタート地点である、この辺りは小高い丘になっている。周りは見渡す限り、木々の茂った緩い起伏に囲まれている。ただし一方には、一際高い山があった。山頂に大木があるあたり、あそこがフィールドの中央だろうか。
智和を見送ったり考えをめぐらせている間にも、スタート地点には続々とクラスメイトが集まってきていた。
「聞いたか、隼人。これは力を試す良い機会だと思わないか?」
龍之介が不敵に笑い、隼人に話しかける。この二人は俺がログインするよりも先にいて、遠巻きに智和と聖の会話を聞いていた。
「機会はともかく、野郎同士で『いい感じの雰囲気』作っても仕方がないだろうが。ここはアベックどもに譲ってやるのが筋だろ」
「参加するからには頂点を目指す。棄権なんて以ての外だ」
「こんなに性質の悪い負けず嫌いとは知らなかった……」
隼人がたじたじになりながら呟いた。
「残念だが、一番は俺達がもらった」
突然の勝利宣言に、龍之介と隼人が会話を止めて耳を傾ける。歩いてきたのは、準貴と真央だった。
「かけっこ勝負で、この最速コンビに敵う相手なんているわけないだろ」
準貴がこちらを見て、したり顔をしている。数ある能力の中でも『速さ』に特化した、強脚と白虎。確かに一番乗りの最有力候補だろう。
「――恋仲になってからの行動に関しては、最遅コンビだけどね」
声の元はさくらだった。今しがたログインしたようで、辺りを見回している。
目が合うと、頬を緩めて歩き寄ってきた。
「やっぱりいた。パソコンを立ち上げるのに時間がかかって出遅れちゃったよ」
「あんまり98を苛めてやるなよ。あと、俺のこともな」
準貴はそう零すと、俺とさくらの肩を叩いて歩いていってしまった。背中を押された気がした。
「まだみんな、駄弁っているだけだから大丈夫。ところで、今から特殊イベントとかいうのをやるみたいなんだけど、俺達も参加してみないか?」
「面白そう。やるやる」
『いい感じの雰囲気』はともかく、現状を打破するきっかけにでもなればいいと思った。
既に大半のクラスメイト達が丘に集まってきていた。ひたすら喋っている生徒や、イベントやらにむけて作戦を立てる生徒、既に戦闘を行っている生徒、各人が思い思いに久しぶりの仮想世界を楽しんでいる。
聖の周囲に集まってきた生徒達の姿を眺めて、七海が頷いた。
「参加者は揃ったみたいね。聖君、合図を」
「あぁ。……ヨーイ」
聖が手を上げた。準貴がスターティングスタートの構えをとる。彼の隣に白い虎が現れる。龍之介が、隼人が、生徒達が体を前に傾ける。
横ではさくらが、同じように走り出そうと構えていた。さりげなく彼女の手を取る。
「――ドン!」
生徒達が一斉に、山の方に向かって飛び出していった。
地面を砕いて走り去る一人と一匹。いつの間にか彼らの周囲は光が薄れ、木々が消えている。
先頭に立ち、フィールドの中央を目指していたはずの準貴と真央は、上下左右を岩壁に囲まれた道を走っていた。
「ここはどこだ?」
準貴が足を止め、ようやく異変に気付く。併走していた虎も止まり、人間の姿に戻った。
「アップステアーズの十日目に転送された洞窟かな。こうして走っていると、エ・テメン・アン・キとの追いかけっこを思い出すよね」
「もうあんな危ないことはしないでくれよ。――って、なんで俺達は洞窟にいるんだ?」
「なんでだろうね。準貴君の方向音痴ぶりには感心させられます」
ため息をつきながら首を振る真央は、どこか満足そうだった。
木々の間を閃光が走り、薄暗い森の中が照らされた。爆音と共に、抉れた土が吹き飛び、木々が薙ぎ倒される。
直接の影響は無かったが、爆発は近い。足を止めざるを得なかった。かざしていた手を下ろすと、前方に二人の長身の生徒が立っているのが見えた。
「初っ端から、あんたらかよ……」
二人のうちの一方、隼人のシルエットが歪み広がっていく。艶やかな黒い羽に覆われた、鷲の翼と上半身。汚れのない黄金色の毛で覆われた、ライオンの胴体と下半身。王家の象徴とされる伝承上の生物、グリフォン。
「不本意ながら、俺が相手をしてやる」
化け物は嘴を開いてそう言葉を発すると、後ろ足で地面を蹴って飛びかかってきた。掴みかかってきた趾を避け、さくらと繋いでいた手を離す。なんとか後方に下がりながら一撃目を避けるが、グリフォンはもう一方の足の鉤爪を振って攻撃を仕掛けてきた。
「うっ――」
とっさに手の平を前に突き出す。大気中の水蒸気を凝縮、前方で凝固させ、氷の盾を作り出す。氷の壁面が鉤爪に抉られ、衝撃が伝わってきた。能力を使うのは久しぶりだが、あっさりと成功した。
「ふん! さすが最後まで残ったプレイヤーなだけある。それなら、俺も気兼ねなく戦らせてもらうぜ!」
グリフォンが飛び上がり、四つの足で攻撃を仕掛けてきた。一撃一撃がとてつもなく重い。氷の盾を補修しながら後退するしかなかった。
祐太はグリフォン相手に防戦を強いられ、徐々に森の奥深くへと追いやられていた。
「祐太!」
さくらが彼の元へ向かおうとするが、その間に龍之介が立ち塞がる。
「常盤さくら。アップステアーズでは後れをとったが――」
龍之介の背中が盛り上がり、黒い翼が開く。八本の黒い毛むくじゃらの脚が横腹を突き破る。血肉をぶち撒いて、勾玉形の毒針を持った黒紫に怪しく光る尾が突き出る。次々に獣の体が姿を現していく。鷲と竜の頭が咆哮をあげ、グロテスクな変身は終わった。
「今日こそは倒させてもらう」
さくらは目の前の光景に気付いていないかのように、目を伏せて自分の手の平を見つめていた。
「調子が悪いようだが、容赦はしない。トリック・ス――」
「アンラマンユ」
龍之介が言い終える前に、鱗の生えた前脚が胴体から離れ、地面に転がった。
「アンラマンユ」
蜘蛛の脚が四方に吹き飛び、虎とライオンの脚がずれ落ちる。
「な、何ッ! この俺が、噛ませ犬要員だと――?!」
「アンラマンユ」
鷲の頭が、竜の頭が空を舞い、龍之介の姿が薄れてスタート地点へと転送されていった。
「挑んでくるのは構わないけど、空気は読もうよ(空気の密度を変える能力だけに)」
さくらは森の奥を見つめてため息をついた。
「――さくらさん?」
さくらが声のした方を振り向いた。立っていたのは、パイナップルみたいな髪型をした長身の少女だった。
「さくら〜? さくらさーん」
声を張り上げて名前を呼びながら森の中を歩き回る。隼人からはなんとか逃げ出してきたが、戦っているうちに、さくらとはぐれてしまった。
足音が聞こえ、慌てて振り向いた。
「さくら――じゃなくて、お前か」
「奈菜ちゃ――じゃなくて、あんたか」
木々の間からこちらに向かって歩いてきたのは陽菜だった。
「お前も、はぐれたのか?」
「一緒にしないで頂戴。あたしは、段ボールスライダーしてたら道に迷っただけよ」
「そ、そうか。確かに、俺もそれとは一括りにされたくないな」
返事をしながら、そろそろと後ろに下がって逃げ出す準備をする。しかし厄介にも、陽菜が人差し指を立ててこちらに向けてきた。
「ここで会ったのも何かの縁、アップステアーズのリベンジを申し込むわ!」
「嫌だと言っても、どうせ聞く耳持たないんだろ。返り討ちにして、スタート地点に帰してやるよ」
陽菜の能力は既に把握している。指先に現れる十個の光の玉を融合し超高電圧・電流の雷撃を放つ『布都御魂』が厄介だが、龍之介との戦闘で対策を編み出した。今更負ける気はしない。
すると陽菜は何を思ったのか、ぺたんと地面に腰を下ろして脚を開いた。
「誰かが言ってたらしいけど、足にも指はあるのだよ」
言い終えると同時に、宙に二十の光球が現れ浮かんだ。
「なっ?!」
さすがに十の雷撃を避ける自信は無いし、それらが融合して放たれる、布都御魂より強力であろう攻撃にも耐えられる気はしない。……しかし、だ。
「あはは、口をぽかんと開けて、馬鹿みたいな顔。そんなに恐ろしい? 大人しく負けを認めるなら、見逃してあげてもいいよ」
「嫁入り前の娘がそんな、はしたない格好して……」
戦いに熱中するのはいいが、自身の犯している女としての過ちに気付かないのはどうかと思う。諭して背中を向けた。
「え?」
「――M字開脚と聞いて駆けつけました」
「え? え?」
どこからともなく陸が現れる。混乱に乗じて逃げ出すことに成功した。
「さくら〜? さくらさーん」
再び声を張り上げて名前を呼びながら森の中を歩き回る。ふと草が踏まれた音が聞こえ、横を振り向いた。
「さくら――じゃなくて、今度はお前か」
「悪かったね、彼女じゃなくてさ。さくらちゃんなら、さっき――」
木々の間からこちらに向かって歩いてきたのは涼子だった。足を止めるのと同時に、途中で言葉を切る。
「さっき、どうした?」
近寄りながら尋ねるが、涼子は答える代わりに、腰に差された日本刀の柄に手をかけた。黒い漆塗りの鞘から、清浄な直刃の刀が素早く抜かれる。思わず身構えた。
「その顔を見ていたら、少し意地悪したくなった。私に勝てたら教えてあげるよ」
彼女の指先から火が昇り、刀身を炎が覆う。
アップステアーズでは心強い仲間だったが、刃を向けられれば身もすくむ強敵である。二日目の教会での戦闘から思い返されることは、能力の相性がアドバンテージにならないということだ。
「タンマ! 戦いなら後でいくらでもしてやるから、今教えてくれ」
涼子を敵に回して勝てる気がしない。声を張り上げた。
「タイムオーバー。そうそう、私が勝ったときは、さくらちゃんの代わりに樹のところまで連れていってもらうから。――煉獄!」
言い終えるが早いか、涼子は刀を正面に突き出してきた。剣先から放たれた渦巻く炎は、距離を経るにつれて空気を巻き込み、さらに火力を高めていく。揺らめく青い光が熱気と共に押し寄せてきた。
覚悟を決める。両手の平を合わせ、火の渦に向ける。
「水月!」
手の隙間から水流を撃ち出し、横に薙ぎ払った。炎の渦が上下に裂け、回転が止まり失速を始める。
そこで、異変に気がついた。炎が放散するにつれて紅に染まっていく。光が急速に広がり、大気を呑み込んだ。
涼子が刀を鞘に収め、口を開く。
「紅蓮桜花――」
「本当に容赦ないなぁ?!」
空が、不形に揺らめく紅の炎に包まれた。桜の花びらが舞い散るように、周囲を覆う炎で視界を奪い、死角から居合いを放つ涼子の得意技。
目と耳に集中して、涼子の位置を探る。と、鯉口が切られ、炎を映し紅に染まった刀身が覗いた。
攻撃が放たれる一瞬に反応して、氷の壁を凝結させる。そして彼女がこの技を用いた本当の目的を悟り、舌打ちした。大気からの水の集まりが悪く、厚く作ることができない。
「――・散華」
鞘から光のように飛び出した刀身に、氷の壁は容易く砕かれた。稼いだわずかな時間で、何とか体を側方にずらす。一瞬遅れて、刃が脇腹を薙いでいった。
地面を前に蹴り、涼子から距離をとる。
上着の中が生暖かい液体で湿っていく。痛覚にかけられたリミッターにより痛みが緩和されているせいで分かりずらいが、傷はかなり深いようだ。
火の桜は目をくらますだけでなく、空気を乾燥させるために出していた。まんまと彼女の策に引っかかってしまった。
「終わりッ!」
涼子はこちらに向かって駆け出しながら、柄に左手を添え、返した刀を薙いできた。氷を生成できるだけの水蒸気は大気中に残っていない。
今度は妨げられずに、刀身が大きな弧を描く。横腹を捉えた刃が、金属音を立てて静止した。
「え?」
目の前の光景を見たまま受け止めることができないのだろう、涼子が声を漏らした。
絶好のチャンス。手首を蹴り上げ、日本刀を落とさせた。
水があるのは空気中だけではない。人間の60パーセントは水からできている。先程は、流れた血液と体組織を固めて、脇腹を覆う鎧を作った。
手の平を地面に向ける。
「霜晨――」
転がっていた刀が氷に包まれる。足元から地面が凍り広がっていく。土から水分を吸出し、表面を凍らせた。これで空気中からは無理でも、地表から水の補給ができる。
「まだやるのか?」
肩をすくめて見せる。涼子も目を瞑り、真似をして肩をすくめた。
「あーあ、結構本気でやったのにな。やめたやめた、さくらちゃんなら――」
森を抜けると、視界が開けた。山頂は緑の絨毯のように草で覆われている。中央には太い幹が突き立ち、天井を形作るように広く葉を茂らせていた。
「遅いよ」
正面から声が届く。さくらは樹の下で、幹に寄りかかっていた。
『私が勝ったときは、さくらちゃんの代わりに樹のところまで連れていってもらう』だなんて言って、涼子は結局どちらに転んでも、さくらの居場所を教えてくれるつもりだったようだ。
「来てくれないんじゃないかと思ってた」
寂しそうに言葉をこぼした彼女の姿を見て、ボーリング場で準貴としていた会話を思い出した。
「遅れてごめん。涼子や陽菜と戦ってきた」
「そうなんだ……」
距離感を保つことで、彼女に自分の気持ちが伝わっていると思っていた。しかし俺達の場合は元から近い場所にいただけに、言葉や行動で示すことが大切なんだと思う。
「でも、俺はここに来るよ。お前のことが好きだから」
「なっ?! へっ?」
「――その樹の下で言葉を交わせばよかったんだっけ?」
首筋がムズムズするのを感じながら、動転しているさくらの元へ歩き寄る。すると、どこからともなく慌しい足音が聞こえてきた。
「待て待て――ッ!」
荒々しい声と共に、森の中から鎧が飛び出してきた。何人の生徒達と戦ってきたのか、傷つき泥にまみれ、ひどい様相をしている。距離を空けて、その後ろには美月の姿もあった。
「悪いが、そこに立つのは俺達だ。勝負だ、斉藤」
智和がランスを脇に構え、冑の下から鋭い視線を向けてきた。彼らの仲を応援したいのは山々だが、こちらにも約束があり、引くことはできない。空気中から水蒸気を掻き集め、戦闘の準備をする。
「……譲ってあげよ」
向かい合って構えようとした矢先、さくらが口を開いた。
「いいのか?」
「私達は、今のままでも十分幸せだったから。おすそ分け」
さくらの頭をくしゃくしゃ撫でながら、共に樹から離れる。代わりに、緊張した面持ちの智和と美月が樹の下に立った。それと同時に、徐々に空が暗くなり始めた。
スタート地点では聖、七海、巧や薫が、宙に浮いた画面に表示されている中継映像を眺めていた。
「何が始まるんだ?」
巧が、満足そうに画面を眺めている聖に向かって尋ねた。
「夜の暗さまで光度が下がった後、樹の周囲を無数の蛍に見立てたオブジェクトが飛び交う予定になっている」
「蛍ってまた、クラス委員長に似合わないなぁ」
「最終段階は、別に夜景でも花火でも構わない。戦闘による心拍数の上昇が吊り橋効果をもたらし、覚醒する前に雰囲気を作って結び付けてしまおうという、人間の心理機能を利用したシステムだ」
聖は答え終えると、口端を歪めて笑いながら眼鏡を直した。
「うわ、怖っ」
既に辺りは暗くなった。夜空には、作り物とは思えない色とりどりの星々が浮かんでいる。俺とさくらは少し離れた場所から、樹の下に立つ二人を見守っていた。
智和が美月の元へ一歩歩み寄った。
「お前に、改めて聞いて欲しいことがある」
どちらが発したか、唾を呑む音が聞こえてくる。
「ずっとお前のことが――」
智和の頭上に、ボタッと音を立てて何かが落ちた。言葉を切り、無言でそれをつまんで目の前に持っていく。
長細いシルエットをした、黒色の芋虫。側面から複数の突起が飛び出している。――蛍の幼虫だった。
「ヒッ?!」
情けない声を上げて、智和が倒れた。
再び場所変わって、スタート地点。唖然としている生徒達をよそに、薫は大きな笑い声を上げていた。
「たっ、橘〜〜ッ!」
聖が素っ頓狂な声を上げて走り出す。走って逃げる薫を、聖が追いかけていく。生徒達はその光景を、苦笑いを浮かべて見守っていた。
さくらと顔を見合わせ、苦笑いを浮かべる。
智和が倒れた際、美月が胸を撫で下ろしていたのを見逃さなかった。