1101:十一日目
けたたましく電子音が鳴っている。掛け布団を蹴飛ばして起き上がり、机の上の目覚まし時計を止めた。
ここ数日まともな睡眠をとれていなかったが、アップステアーズも終わり、これからはゆっくりと眠れるだろう。
翔太を勇気付ける為に作られたゲームは、聖と七海によって恐怖を生み出し復讐を果たす場へと変えられた。生徒達はまんまと互いに戦わさせられ、互いを憎み、互いを傷付けた。しかし友人との絆が深まったり、異性との仲が進展することもあった。
思い返せば、充実した時間を得られた場所だった。すべての出来事が懐かしく、ゲームが終わったことを寂しいとすら思う。
リビングに入り、眠い目をこすりながら椅子を引いた。机の上には既に朝食のおかずが並べられていた。既に父親は仕事に向かったようで、母親が一人味噌汁をすすっている。
「おはよう」
「まったく、そんな眠そうな顔をして……。しゃきっとしなさい」
「おはよ、祐太」
無気力な声で挨拶をしたところ、母親の声に続いてよく聞きなれた声が返ってきた。
「――さくら?!」
思わずしゃきっと目が覚めた。さくらが制服にエプロンをつけて台所に立っている。
「待っててね、今温めてるから」
「何を? 何で? どうなってるんだ?」
「味噌汁を。ガスコンロで。沸騰しかかってる?」
「いやいや、そうじゃなくて……」
「今日の朝食はさくらちゃんが作ってくれたのよ」
母親が聞きたかったことを答えてくれた。
「さくらが……?」
「何か今、失礼な顔したよねぇ〜」
さくらがガスを止め、ご飯茶碗と汁椀をお盆に載せて持ってくる。
「俺は忘れないぞ。あのジャリジャリ音の鳴ったハンバーグを」
「あの時は慣れてなかったから、卵の殻が入っちゃったの。カルシウム摂れて良かったんじゃない?」
「俺はカタツムリかよ。――いただきます」
味噌汁を慎重に口にした。グルメ家ではないし、料理のさしすせそによる味の違いすら分からないが、寝起きで冷えていた体が温まった。
「――美味しい」
「やったね!」
さくらが小さくガッツポーズをして喜んでいる。
「こんな朝早くから来ていて大丈夫なのか? ももちゃんの登校の準備とか忙しいだろ」
「済ませてきたから大丈夫だよ。あたしもこれから朝食だしね」
玄関のチャイムが鳴った。先に食べ終えていた母親が応対に向かった。
「今日は翔太君、学校に来れるのかな……?」
「海の上で何を経験してきたのか知らないけど、ゲームで見た感じ全然違う面構えになっていたし、きっと来れるさ」
「そうだね、うん!」
まだ彼が帰ってきたことを知らない生徒達は、きっと口を開けて驚くだろう。
「よっ、迎えに来てやったぞ」
「おはよう。お邪魔だったみたいだね――」
ストリングカーテンの向こうからまた聞き慣れた声が聞こえてきた。母親に続いてリビングに入ってきたのは、準貴と涼子だった。
「お前らまで示し合わせたように……。何でここに?」
「今日はそういう気分なんだよ。つれないこと言わないで、一緒につれてけよぉー」
翔太のこともゲームが終わったこともあり、俺も同じ気持ちだった。準貴の言葉に頷いた。
エスペランサー南を後にし、四人で南たたら駅に向かう。道中、急にさくらが足を止めた。
「どうした?」
「宿題、机の上に置いてきちゃった。ゴメン、ちょっと取ってくるから先行ってて」
言うが早いか、さくらは踵を返して走り出した。
「俺も行く」
彼女の後を追おうと走り出したが、こちらに向けられた手の平を見て足を止めた。
「大丈夫。先行って、翔太君が学校に来ても皆が混乱しないように説明しておいてよ」
「――分かった。無理して急がなくてもいいからな?」
駅に向かって歩きながら、さくらの後姿を見送った。この選択を後悔することになるとは、この時俺は知る由も無かった。
さくらが一人で商店街を走っている。まだこの時間は両脇に並んだ店々も開いておらず、道は暗く閑散としていた。
宿題を忘れるとは抜けていた。祐太に朝飯を作ってあげようと、一晩中心躍らせていたらこの様だ。しかし彼の美味しいという一言が聞けたのだから、安い犠牲だと思う。
「――なぁ、あいつあの時の女じゃね?」
コンビニの前を通りかかった時、チャラチャラした声が聞こえて横を振り向いた。
「マジだ。結局あのボンボンに金貰えなかったんだよな」
「俺、女にバッグ買ってやるって言ってたのに、ドタキャンされてマジむかついてるんですけどぉ……」
駐車場でたむろしている五人の柄の悪い男達は、以前美緒と一緒にいた連中だと気付いた。
「お前、番号聞いてただろ? 後払いでもよくね?」
「あぁ、そうだな。それじゃあ――」
気色の悪い笑みを浮かべて、一斉にこちらを振り向いてくる。
「輪姦すか」
男達が重い腰を上げて歩いてくる。
『きっとあなたは女に産まれてきた事を後悔するでしょう』。あの晩の美緒の言葉を思い出し、背筋が凍った。つい先程まで息を切らせていた体に鞭うち、地面を蹴って走り出す。
「待てよ、コラァ!!」
後ろからバタバタと走る音が近づいてくる。助けを求めようとしたが、商店街の店はどこも開いておらず、人通りも無かった。
帰宅部の体は既に限界だ、足も肺も悲鳴を上げている。
「止まれって――言ってんだろ!」
男の苛立たしげな声。それと同時に、前に進めなくなってしまった。
恐る恐る振り返ると、私の腕は指輪のたくさん付けられたごつい手に掴まれていた。
「助け――ン?!」
叫ぼうとしたが、口を押さえられた。腕を引っ張られる先は、路地裏。周りと隔絶されたあんな空間に引っ張り込まれたら、偶然人が通りかかることも期待できない。必死に抵抗するが、まったく力が敵わず引きずり込まれてしまった。ゴミのポリバケツと畳まれたダンボールが並んでいるのが目に付いた。
「それじゃ、せいぜい楽しませてくれよ〜」
男達の手がブラウスに、スカートに伸びる。私は涙を流して、心の中で必死に祐太達に助けを求めていた。
電車は面沢高校前駅に向かっている。三人はさくらと別れた後、手形村の生徒達と車内で合流してお喋りをしていた。
俺はふと顔を上げて窓外を見た。
「どうした?」
準貴が心配そうに顔を覗き込んできた。
「いや、何でもない。けど――」
「けど?」
「――さくらの声が聞こえた気がした」
何事も無ければ、宿題を持って駅に向かっている頃だろうか。しかし何故か虫の知らせというか、妙な胸騒ぎがした。
「ニュータイプか?」
「いいじゃない、以心伝心ってね」
その後も準貴と涼子がからかってきたが、彼女のことが気になり頭に入ってこなかった。
挨拶をしながら教室に入っていった。ホームルームまでまだまだ時間がある。予想通り教室の中はガラガラだった。
「「「おはよう」」」
三人分の声が返ってくる。
いつものように聖と七海が既に席についていた。よく見ると、男が彼らと向かい合って黒板の前に立っている。背が高く、よく日に焼けた顔の青年は、最近見た記憶はあるものの誰だか分からなかった。
「えっと、初めまして……?」
首を傾げると、三人が笑い始めた。
「ほら見ろ、お前が変わりすぎなんだ」
「そうかな。少し背が伸びたくらいだと思うんだけど……」
聖に指を指され、男が恥ずかしそうに頭を掻いている。あの動作はどこかで見覚えがある。
「――まさか翔太か?!」
「うん。こっちでは久しぶりだね、斉藤君」
誰だか分からなかったのも無理はない。翔太は隼人にも匹敵しそうなくらいがっちりした体つきをしていた。日陰で育ったようにひょろひょろしていた以前の彼とはまるで別人だった。
「眼鏡はどうしたんだ? コンタクト?」
「ううん。ゲームもネットも無いところで星ばっかり見ていたら、視力が戻ってたんだ」
彼の両目の前に指で丸を作ってかざしてみると、確かに翔太に似ていた。
「家にも帰ったんだろ、親は何て言ってた?」
巧が近くの椅子に座って話しかける。
「家に入った途端に、ママに警察を呼ばれそうになったからビックリしたよ」
こんなに日に焼けて筋肉隆々の男が勝手に家に上がってきたら、誰でも驚いて通報すると思う。
「でも、すぐに僕だって分かってくれて嬉しかった。部屋もそのまま残してくれていたしね」
「翔太のお母さん、警察が捜索を打ち切っても、あの子はまだ生きているって言い張って葬式をしなかったんだよな」
「そうだったんだ……」
今の彼は姿形だけではなく、物怖じもせずはきはきと話している。昨日色々なことを学んだと言っていたが、本当にいい経験をしてきたようだ。
その後、登校してくるクラスメイトの驚く姿を楽しんでいるうちにホームルームの時間になったが、さくらは依然登校してこなかった。俺は担任が教室を出るのと同時に席を立った。
「祐太?」
隣の席で準貴が怪訝そうな顔をしている。
「さくらの様子を見てくる」
「おいおい。心配なのは分かるけどよ、一時間目始まるぞ――」
「悪い、適当に言っておいてくれ」
宿題を取りにいくのに一体どれだけかかっているのか。悪い予感がする、マンションまで様子を見に行こう。
引き戸に手をかけたところ、力を込める前にするすると勝手に開いた。
「さくら……」
廊下にいたのはさくらだった。ようやく緊張が解け、肩の力が抜ける。
しかし彼女は無言で目を潤ませ、両手を広げて飛びついてきた。
「どうした?」
「ごめん……、安心したら急に込み上げて来ちゃった」
頭をそっと撫でると、腰に回されていた手がきつく締まった。
何があったのか不思議に思いながら、ゆっくり顔を上げる。視線の先では、おかっぱで眼鏡の少年が気まずそうに立っていた。
「――敦?!」
教室にいるクラスメイト達の目が一斉に後ろのドアに向いた。
getConnection( 3, 伊勢敦)
僕はアップステアーズ八日目に剣道女に倒され、その世界から退場することになった。
現実世界から退場した場合、本当の死を迎えることになる。死を覚悟し目を開けた先には、BCIケーブルの繋がれたパソコンのディスプレイがあった。そこは地獄などではなく、マンガ喫茶のボックス席。そう、彼女と交戦していたのは仮想世界だったのだ。
安心したのも束の間、とんでもないことに気が付いてしまった。僕は現実世界で三人のクラスメイトを傷つけていたのだ。
彼らは怒っていることだろう。警察が必死に犯人を探していることだろう。もう学校に行くことも、家に帰ることもできない。野宿をして身を隠すことにした。
「それじゃ、せいぜい楽しませてくれよ〜」
その日はたたら南の商店街の路地裏で、ダンボールに囲まれ暖を取っていた。生ごみの詰められたポリバケツの向こうから聞こえてきた男の声で目を覚ました。
そっと顔を半分覗かせると、チャラチャラした五人の男達が少女を囲んでいるのが見えた。
「と、常盤――さん?」
赤茶色の頭に短いポニーテールを結った彼女は、クラスメイトの常盤さくらだった。声を漏らしたことで男達が存在に気付いてこちらを振り向く。
「なんだテメェは。痛い思いしたくないなら失せろ!」
声を発した男の手は、さくらのブラウスにかかっていた。彼女は口を押さえられ、涙を浮かべたすがるような目をこちらに向けている。
だいたいの状況は分かったと思う。
「そ、その――」
「さっさと失せろって言ってんだよ!!」
喋ろうとするが、どもってしまい声が出てこない。男が苛立たしげにポリバケツを蹴飛ばして叫んだ。
周囲にクラスメイトや住民の姿は無い。この場で彼女を救い出せるのは、自分しかいないように思われた。
しかし僕は彼女の友人を傷つけた。この男達がしていることと何が違うだろうか。僕に手を出す資格があるのだろうか。
男達は失せろと言っている。簡単にここから立ち去ることが出来るだろう。
「その子を……」
それだけ死ぬのが怖いと言うのに、なんで他人もそれを怖いと思っているのだと気付かない? ――不思議と脳裏に、剣道女が発した言葉と悲哀の表情が浮かんでいた。
そうだ、僕は知っている。誰にも助けてもらえないということは、とても苦しいことだ。まさに彼女が今その状況にある。彼女はきっととても苦しんでいる。
「はっ、離せよ!!」
恨まれていたっていい、今は彼女を救うと決めた。
「ブッ、あはははは?! こいつ馬ッ鹿じゃねぇのか?!」
「お坊ちゃんがヒーロー気取りかよ。家にこもってアニメでも見てろ!」
敵は五人。反社会的なゴツい格好が強そうに見せている。しかし足の使い方を見れば、摺り足もステップも出来ていない。指輪はつけているわ、拳頭は尖っているわで、実際に人を殴った経験も無さそうだ。――大したことは無い。気を落ち着け、息を整える。
「もういい、財布置いて消えろ」
茶髪でロン毛の男が近づいてくる。伸ばされた手を懐に踏み込んでかわし、掌底で顎を下から打ち抜いた。
男達は思わずさくらから手を離し、唖然として一部始終を見ていた。倒れた痩躯が泡を吹いて痙攣している。
「「野郎――!!」」
四人の男達が目を血走らせて飛びかかってくる。僕は右足を引いて腰を落とし、拳を構えた。
商店街の路地裏から呻き声が漏れる。五人の男達が頭や腹を押さえて倒れていた。
構えていた拳を下ろし、彼らに背中を向ける。
「伊勢君……」
腰を抜かして座り込んでいたさくらが口を開いた。彼女は眉を寄せて恐れているようだった。
友人を傷つけた人間が喧嘩をしていたのだ、無理もない。早々に立ち去ることにした。
「待って!」
路地裏を出ようとしたところ、後ろから声をかけられた。
「ありがとう。今こうして無事でいられるのは伊勢君のお陰だよ」
「偶然側にいただけだから。――中曽根君のこと、本当にごめん。彼に伝えてもらえると嬉しい」
「いいけど……、これからどうするつもりなの? 家にも帰っていないって聞いたけど」
家を出て学校を休んでから、もう一週間近く経っただろうか。既に財布の中身も底をつこうとしていた。
「分からない。もう君達に迷惑をかけないように、どこか遠くにでも行こうかと思ってる」
「迷惑、か……。ごめん、やっぱり準貴に伝えることはできないよ」
「え?」
なぜ急に意見を変えて、拒否したのだろう。また怒らせるようなことを言ってしまったのだろうか。彼女の顔色を窺おうと振り向いた。
「学校に行こう、伊勢君。それはやっぱり自分で伝えるべきことなんだと思う」
さくらがこちらに手を差し出していた。想定していたあらゆる顔と違う、優しい表情をしていた。
End
「ごめんなさい」
敦が松葉杖をついている準貴の前に立ち、頭を下げた。準貴はその様子をぽかんとして眺めていたが、鼻から息を吐いた。
「気にするな。頭を上げてくれよ」
「え? 僕を許して――くれるの……?」
「アップステアーズのことは自分で撒いた種みたいなもんだからな。お前も被害者なんだ、そんなにビクビクしないでくれ。――それにさくらのこと、本当にありがとう」
「そうそう。AVが無事だったし、そんなに気にしてないぞ」
陸がすっかり良くなった腕を振り回している。
「だけどさ、これからはあんなことにならないように、もっと社交的になろうな」
蓮が敦の肩に手を置いた。
「うん。ありがとう――」
「ねぇ、その夜の犯人のことだけどさ……」
さくらが言い辛そうに三人に話しかけると、準貴はその意味を理解したのかウィンクを返した。
「確か、俺を襲った犯人は中肉中背のおっさんだったな」
「え――」
敦が怪訝そうな顔をする。
「あ、あぁ。俺はピアスをつけた茶髪の男だった気がする」
蓮が続いた。
「なら俺は、グラマラスでボンキュッボンな若い女の子だったぜ」
「「それは無い」」
二人が手を振って陸の情報――むしろ妄想を否定した。
「そういうことだ、明日からはまた学校に来れるのか?」
準貴が敦の席を指差している。
「そういうことって、三人を傷つけたのは――」
「――ピアスをつけていて金髪でグラマラスでボンキュッボンなおっさんだろ」
一部始終を見ていたクラスメイト達が笑って頷く。
「また……、学校に来てもいいの?」
「あぁ。俺達もお前に居場所と感じてもらえるように頑張るからな」
泣き出した敦の背中を、クラスメイト達が励ますように優しく叩いた。
「山浦さん、ちょっと屋上まで来てもらっていい?」
「……えぇ」
今日のところは家に帰っていった敦を見送った後、さくらが美緒に声をかけた。
「さくら――」
「ごめん祐太、また後でね」
祐太に返事をして教室を出た。
アップステアーズから脱落して大人しくしていると思っていたが、まさかあんな卑劣なことをしてくる人間だとは思わなかった。
今すぐにも怒りをぶちまけたい気持ちを押さえ、階段を上がっていく。あちらも用件が分かっているようで大人しくついてきた。
屋上の一角、ここ貯水槽の裏側ならどれだけ喚き散らしても他のクラスに迷惑はかからないだろう。
第一声を叫ぼうと、息を大きく吸い込んだ。
「――ごめんなさい」
が、それより先に美緒が頭を下げた。この二年間彼女が謝っているところを一度も見たことが無く、それだけに行き所を無くした言葉を呑み込んでしまった。
「謝って許してもらえることだとは思っていません。ですが釈明だけ聞いてくださいませんか?」
「……うん」
「あなたがニダヴェリルのリーダーになった時、とても悔しかった。だからせめて脅えた顔を見てやろうと思って、あの男達に声をかけました。でも実際にあなたを襲わせる気はありませんでした、これだけは信じて欲しいのです。……もちろん監督不行だった私に大いに責任があります、これから一生かかってでも償っていくつもりです」
「それじゃあ今日のあれは、山浦さんがけしかけたんじゃないんだ……」
「えぇ、誓って。ですが彼らとの契約が引き金になったのも事実です。けしかけたのと同罪でしょう」
頭に上っていた血が下がり怒りが収まってきた。
確かに彼女の言うように、意味合いとしては彼女がけしかけたことは事実なのかもしれない。しかし彼女に悔しい思いをさせ、その地位をくだらないものと一蹴していた自分にも責任はある。
「……もう、いいよ。一生償うとか、そんなのいいから」
「ですが――!」
彼女を嫌いな理由。それは彼女が私のことを嫌っていると思っていたからではなかったか。
「山浦さんって、黒魔術が好きなんだって? 前に準貴から聞いた」
「え、えぇ……」
「具体的にはどんなのが好きなの?」
「――どれも好きですが、最近お気に入りなのは大奥義書でしょうか」
「赤龍……、地獄の首相ルキフグ・ロフォカルの使役かぁ」
「えぇ。さすがに山羊の喉を切ってまで試す勇気はありませんが。……ご存知なのですか?」
「あたしもその手のことは三度の飯の次くらいに大好きだからね」
ようやく見えた彼女を好きな理由――。同じ趣味、好きな人に一途になれる性格。
照れ隠しに鼻を掻きながら、自分の思いを口にする。
「……ねぇ、あたし達は今まで散々いがみ合ってきたけどさ、もうちょっとお互いのこと知ってみない?」
「そうですね。……実を言うと、ゲームであなたが友人について自慢をしている時、少し羨ましかったのです。ゲームオーバーになってからようやくあなたの言っていた言葉の意味を理解できた気がしました」
美緒も照れくさそうに下を向いている。
「きっと、それは簡単に手に入ると思うよ。お互いをよく見ることができている今なら、あたし達はきっと仲良くなれるから」
どちらからともなく手を差し出し、ぎこちなく握手を交わした。
授業が終わると、生徒達は一斉に教室の隅に集まった。円の中心には翔太と聖、七海の姿がある。
聖は二人と視線を交わして確認をとってから口を開いた。
「実は今日の朝、アップステアーズを売る予定になっていた会社に電話をしたんだ」
掲示板に書かれていた、ゲームのプログラムとログを3000万円で買い取ると言っていた会社のことだろう。しかし内容が著しく変わった今、とても賞金をもらえるとは思えない。
「やはり3000万円を用意することはできないと言っていた。その約束だけでも守れればと思ったのだが、本当にすまない」
聖が頭を下げる。一瞬さくらの顔色が沈んだのが見えた。
「さくら……」
彼女の肩に手をかけた。
「しかし――、BCIケーブルを用いたオンラインゲームは非常に珍しく、十日間バグもなく動作したことに賞賛を頂いた。そのため特例としてプログラムを300万円で買い取ってもらえることになった」
300万円。当初の金額よりは一桁分少ないが、それでも彼女が大学に行く為には十分な金額だろう。
「休み時間に四神とユグドラシルのリーダーと話し合った結果、君達に渡すのが最も妥当だということになった。――受け取ってくれるか?」
そう言って、聖がエターナルリカーランスの面々を見回した。俺はぽかんとしてさくらと顔を見合わせた。
「美月と龍之介が――?」
確かゲームが終了した時、四神もユグドラシルも残っていたはずだ。それなのに何故エターナルリカーランスが賞金をもらうことになっているのだろう。
「えぇ、私達は四日目にあなた達に負けていますから。それに――」
「それに、さくらの応援をしてやりたいのは俺達も一緒だからな」
美月と龍之介がさくらの頭に次々に手を乗せた。
「美月ちゃん……、龍之介君……」
「良かったな、さくら。これでまた夢を追えるぞ」
興奮気味に話しかけたが、さくらは沈んだ顔をしていた。彼女は胸の前で手をきつく握っていたが、決心したように大きく頷いた。
「ありがとう。二人の――、ううん、みんなの気持ちはとっても嬉しいよ。――でも、そのお金はきっと、もっと望ましい使い方があると思うんだ……」
クラスメイト達を見回しながらそう口にしたさくらは、爽やかに笑っていた。