1004:十日目(D)
四人の生徒達が洞窟の中を走っている。先頭に準貴と真央、間に美月、そして最後尾に智和と続く。
智和の射撃のお陰もあり、エ・テメン・アン・キとある程度の距離を開けることができた。今は緩やかな曲がり道を走っているので、壁で隠れて化け物の姿は見えない。
正面には、寝癖の少女と隅に立つ少年が映った小さな画面が表示されており、走るスピードに合わせて移動している。
「本当にアレを倒せるんだよな?」
先程の言葉が信じられず、薫に念を押した。
「うん、あの子は私の子みたいなもんだから」
自信満々で肯定した薫の後ろで、大樹がうろたえていた。スクリーンショットを撮れないのが残念だ。
「鳶が鷹を産むとは言うけど、ねぇ――」
美月がじとっと画面を見つめて口を開いた。
「あんた達なら、還元領域さえ外せれば余裕で倒せるでしょ?」
「そんなことができるのか?」
追われて蹴られて分かったのは、エ・テメン・アン・キ自身の戦闘能力は灰燼より多少高い程度であるということだ。確かに、能力さえ使えれば倒せないことはない。
「うん。昨日から大樹と徹夜して作ってたこのプログラムを使えばね」
どうやら二人は今日、学校を休んでプログラムを作っていたらしい。大樹も彼女を手伝えるほどの腕を持っていたとは知らなかった。
「そういうもんがあるなら、さっさと使えよ」
智和がじとっと画面を見つめて口を開いた。口に出すと怒られそうだが、美月と智和は結構似ていると思う。
「コレはある条件が満たされた時にセキュリティの薄い場所でしか使えなくてさ。ここからじゃ、ファイアーウォールをパスできないんだ」
「――ある条件、ですか?」
真央が尋ねた。先程から俺が手を引いているが、彼女は呼吸を荒くしてだいぶきつそうだ。
「還元領域を止めるには、外部からレジストリ――その発生装置みたいなものを改ざんする必要があるんだけど、セキュリティがさせてくれない。だからバックオリフィス――えっと、爆弾みたいなものを内部に設置してセキュリティを停止させるの」
「セキュリティの薄い場所に爆弾を仕掛ければいい訳だな?」
「そういうこと。座標はココだから」
長細い道が入り組んでいる洞窟と思しき地図が画面に表示された。その中に赤い三角形が四箇所表示されている。
「四つ印があるんだが」
「その四箇所に爆弾を仕掛ければ、囲まれたエリア全域で還元領域を無効化できるから。――格好良く言えば、還元領域ジャマーとか還元領域キラーって感じかな」
二十年前くらいのネーミングセンスが逆に俺の闘志に火を着けた。
「準貴、聞こえるか? 俺だ」
大樹の声が画面から聞こえてきた。
「あぁ、ばっちりな」
「今も管理者側の二人とクラスメイト達が交戦している。正直かなり不利な状況のようだ」
「そうか――」
聖の部屋に残してきた三人は大丈夫だろうか? PTが解散していないからには、まだ少なくとも祐太は無事だとは思うが。
「だが、お前らならきっとあの化け物を倒せる。さっさと潰して他の奴らの援護に行って来い」
眩しい光が地面から発せられ、思わず足を止め目を閉じた。その間に、いつの間にか四つの円柱が置かれていた。化け物と同じ白銀色の筒で、上部に小さな赤色の円が見える。
「これが爆弾……」
「それを指定の場所に置いて上のスイッチを押せば、後は自動でセットされる。タイミングは関係ないから、位置に着いたらすぐに設置してくれ」
「なるべくは、この画面を使って指示を出すけど、通信の調子が悪いから自分の判断でよろしく」
薫の言葉に四人が頷き、金属製の円柱を一人一つずつ手に取った。
後ろからギシギシと金属の擦れる音が聞こえてくる。どうやらエ・テメン・アン・キが距離を詰めてきているらしい。
「中曽根と美月は一番遠い二つを頼む。出雲は近いところを。俺もアレを引きつけながら近い場所を引き受ける」
智和が銃の残弾数を確認しながら指示を出した。俺もそれがベストだと思う、黙って頷いた。
「あんたは私にダイエットでもさせたい訳?」
美月が不満そうに腕を組む。
「え、いや、すまん。じゃあ俺が一番遠いところを……」
「冗談よ。せいぜい気をつけなさいよね」
腕を解き、しどろもどろになった智和の肩を叩いてから走っていった。
「――おう、任せてくれ!」
智和が銃を構えて、姿を現した白銀の化け物と向き合う。振り向き様、嬉しそうな横顔が見えた。
「一人で大丈夫か? 何ならこれも俺が――」
爆弾を大事そうに胸に抱えている真央に話しかける。
「いえ、こんな時くらい役に立たせてください。準貴君、気をつけて」
「分かった。真央もな」
真央が走っていったのを見届けて、俺も走り出した。ストライドを広くとりスピードに乗って、前を走っていた美月に追いついた。
さっさと設置して真央の元に向かうとしよう。
最後まで残っていた準貴も爆弾の設置に向かった。これでここにいるのは、自分と白銀の化け物だけになったというわけだ。
エ・テメン・アン・キが銃に警戒しながら距離を詰めてくる。接射でも傷を付けることしかできなかったというのに、何故警戒する必要があるのか。
銃を後ろに放り投げた。安っぽい金属音が鳴る。
三人を先に行かせることができた今、弾が無い以上、あれを持ち歩いていても仕方がない。
「あー。不器用だね、あんたも」
表示されたままになっていた画面から薫の声がした。
「失敗の心配ならいらないぞ。こいつを引きつけるのも、爆弾の設置も上手くやるさ」
「そういうところを彼女に見せてあげればイチコロだと思うんだけどなぁ……」
「なら、教えてやってくれ」
「嫌だね。面倒だから、生き残って自分で言いなよ」
言いたいだけ言って画面が消える。ため息をついてからエ・テメン・アン・キと睨み合った。
「来いよ、南の桜井が相手をしてやる」
頭上から白銀の爪が振り下ろされてくる。冷静に上腕を横から殴って払い、軌道をずらした。
拳に衝撃が直接伝わってくる。こんな金属の物体に肉弾戦を持ち込もうとするのが無理というものか。爆弾の設置を優先させることにしよう。
薙ぎ払われた爪を屈んで避け、そのまま軸足を中心にして一回転しながらエ・テメン・アン・キの片足を蹴り払う。化け物がけたたましい金属音を立てて仰向けに倒れた。
美月と別れ、一人で洞窟内を走っていた準貴だったが、何かを思い立ちふと足を止めた。
左を見ると、石灰岩から形成されたトンネルが続いている。右を見ると、これまた石灰岩から形成されたトンネルが続いている。視線を戻すと、前にも石灰岩から形成されたトンネルが続いている。
「しくじった……」
アップステアーズの二日目で、彼が教会を探す為に島中を走り回っていたのは記憶に新しい。この男、極度の方向音痴である。
「すまん大樹、道を教えてくれ」
端末を開いて助けを求めようとしたが、何やら通信の状態が悪く繋がらない。再び前後左右に続いている道を見た。
そういえば、自分が走って来たのはどの道だったか。
後ろの道から足音が聞こえてきた。美月が様子を見に来てくれたのかもしれない。良かった、彼女に尋ねるとしよう。
爽やかに振り返ると、そこには黒い外骨格を纏った化け物が立っていた。
美月が洞窟の中を走っている。既に爆弾の設置は終わり、今は智和のところに戻る途中である。他の生徒達はまだ完了していないようで、能力は使えない。
「本当に、馬鹿――」
ため息とともに呟いた。
三人と別れる際、智和のホルスターに入っていた銃がホールドオープン状態になっていたのを見てしまった。残弾数を確認していた当人ももちろん気付いているはず。それでいてあんな風に堂々とされては、口出しして水を差すのも気が引けた。
「美月!」
岐路に差し掛かったとき、道の向こうから準貴が走ってくるのが見えた。手に白銀の円柱を持っている。
「まだ設置してないの?」
準貴は何やら必死なようで、走りながら大きく頷いている。そこで彼の後ろから何かがついて来ているのに気付いた。
「ちょっと、一体誰をつれて来たのよ?」
真央は智和に近い側の爆弾を設置しに行っており、ここにいるはずがない。目を凝らすと黒光りする外骨格と太い腕が見えた。
「灰燼――?!」
能力が使えない今、通常の灰燼でさえ倒すことは不可能だろう。呆然としてこちらに走ってくる一人と一体を見つめていると、何か小さい丸いものが横を通り過ぎていった。
すぐに準貴に、私が来た道に向かって手を引っ張られる。
「すまん、道案内頼めるか?」
「ちょっと――」
背後から爆音が聞こえ、熱風が伝わってきた。反論しようとするのを止めて、二人で必死に走り、灰燼との距離を開ける。
「ちょ、ちょっと! 道案内ってどういうことよ?!」
「俺、方向音痴だったんだ――」
準貴が頬を掻きながら言った。
無性に殴りたくなった。というか、殴った。
「この包茎野郎――、そこは気合でカバーして、さっさと真央のところに行ってあげるのが彼氏としての務めでしょう?!」
「気合で道が分かれば苦労しないぞ?!」
「それじゃあ希望通り道を教えてあげるわ。あんたの設置する場所なら、――あっちよ!」
私は人差し指を、追ってきた黒い化け物の方に向けた。
智和は円柱の形をした爆弾のボタンが緑色に灯ったのを確認して立ち上がった。
こんなちんけなもので、本当に還元領域を無効化できるのだろうか。懐の鉄を伸ばそうとしたが、能力はまだ使えなかった。自分が一番最後だと思っていたが、設置が遅れている生徒がいるようだ。
「これで心置きなく戦える。待たせたな」
後を追ってきたエ・テメン・アン・キと対峙した。爆弾に気付いているかどうか知らないが、近づかせたくない。こちらから攻める。
ステップを踏み、化け物との間合いを調整する。牽制のため左のジャブを鼻先に出した。化け物は全く怯まず、避ける行動をとろうとすらしない。
振り下ろしてきた爪を横に跳んで避け、顎を狙って右のストレートを放つ。しかし拳が肘で叩き落とされた。
苦痛で口を結んだ。つい先刻までは刃物に振り回されている子供のような立ち振る舞いだったくせに、急速かつ着実に戦闘を学習している。
技術だけでも勝っていたからこそ、この化け物を押さえられていた訳で、その差が縮まれば当然戦いにならない。通算三発目の右のストレートは、綺麗に真横に回り込まれて避けられた。
頑強な肘と膝が、俺の伸びきっていた腕を上下から挟んで叩き潰す。
「ぐわぁぁ?!」
鈍い音と衝撃が伝わる。砕けた骨が皮膚を貫き血を撒き散らした。エ・テメン・アン・キの鏡面のような綺麗な顔に、赤い斑点ができる。
化け物は上げた膝を降ろしながら逆足で跳び蹴りを放ってきた。腹部に受けて飛ばされ、洞窟の地面に赤い印を残しながら勢いよく転がった。
右腕をぶら下げて立ち上がった。激痛だけを逆上らせてくるだけで、指一本命令に従いやしない。冷や汗を浮かべ、奥歯を噛み締めた。
白銀の化け物は壁際に設置された円柱に見向きもせず、ギシギシ音を立てこちらに歩いてきた。
爆弾の設置は済んでいる。俺がやられても、あの三人が何とかしてくれるだろう。構えようとしていた拳を下ろし肩の力を抜いた。
エ・テメン・アン・キが抱擁でもしているかのように背中に手を回した。腕を開き、左右の爪で同時に裏拳を放ってくる。
目を閉じ、ゲームーバーの宣告を待った。
「避けな、早漏!」
思い入れのある声に、体が勝手に反応した。屈んだ頭の上を風が通り過ぎていく。エ・テメン・アン・キの爪が後頭部の髪の毛をかすめとっていったようだ。
「スピットファイア!!」
目を開けると、散々俺達を苦しめた白銀の体が跳び蹴りを受けて宙を舞っていた。
エ・テメン・アン・キが首や手足をあらぬ方向に曲げて、激しく地面の上を転がる。
「……美月?! 準貴?!」
「すまん、俺のせいで設置が遅れた」
「それじゃあ――」
「あぁ。見ての通り、還元領域は解除されたぞ」
見ての通りと言うが、洞窟の内部は変わったように見えない。しかし化け物の体を吹き飛ばしたあの蹴りは、紛れもなく彼の能力によるものだろう。
エ・テメン・アン・キが軋む音を立てながら立ち上がろうとする。しかしその体は、猛スピードで走ってきた白い巨体によって再び壁に叩きつけられた。
「みんな無事だったんですね!」
白い虎が真央の姿になり、こちらに向かって来た。
「真央! 無事だったんだな、よかった!」
「もう、危ないことしちゃだめって言ってたでしょう?」
羨ましいことに、美月と準貴に抱擁を受けている。
「準貴、悪いがこの腕じゃああいつに泡を吹かせられそうにない。俺の代わりにぶっ飛ばしてきてくれないか?」
「おう。泡が出るかは知らないが、できるだけ頑張ってみるぜ」
準貴は拳を鳴らしながらエ・テメン・アン・キの方に向かって行った。
彼になら任せても大丈夫だろう。壁に寄りかかりながら腰を下ろした。
「早漏、あんた無茶しすぎよ……」
美月が真央を傍らにつれてやって来た。
「その、早漏というのは何なんだ?」
「諦めるのが早すぎる、だから早漏。あんたにぴったりじゃない?」
彼女らしいあだ名に思わず吹き出してしまった。腕の傷が痛む。
「でも見直したわ、智和」
「いや、俺は惚れた女も一人で護り切れないヘタレの桜井だ」
目を閉じ、奥歯を噛み締めた。あんな格好付けて啖呵を切っておきながら、このような無様な姿を見せてしまっては、もう彼女に合わせる顔がない。
「きっと、さ――」
頬に冷たいものが触れ、目を開いた。美月の上半身がこちらに傾いており、彼女の手の平が当てられていた。
「その女の子は、あんたが無事でいてくれて嬉しいんだと思う。だから、そんなに自分を責めないでよ……」
美月はこう言ってくれるが、やっぱり俺はヘタレの桜井だと思う。優しく微笑みかけてくれている美月に対して、頭を傾け感謝の意を示すことしかできなかった。
「さっきは散々いじめてくれてありがとうよ」
準貴が還元領域という鎧を失ったエ・テメン・アン・キの前に立つ。
逃げている時はとんでもない化け物に見えたものだ。依然として高い攻撃力と防御力、俊敏性を持っているが、今は不思議とちっぽけに見える。
エ・テメン・アン・キの周囲でステップを踏み、背後に回りこむ。旋回しながら突き出していた化け物の爪が空を切った。
「お陰で変な属性が身につくところだったぜ」
今まで能力が使えなかった鬱憤を晴らすべく、思い切り軸足を踏ん張って右の回し蹴りを脇腹にかます。エ・テメン・アン・キは身体を軋ませながらも何とか踏ん張って耐えていた。
「お返しに調教してやるから、体をギシギシ言わせて喚きやがれッ!!」
腰を返し、今度は左足で逆の脇腹に回し蹴りを打ち込む。化け物が踏ん張りきれず宙に浮いた。すかさず脚を振り切り、洞窟の壁にぶち当てる。
跳び膝蹴りでさらに追い撃ちをかけようとしたが、膝を白銀の手で掴まれ、空中で動きを止められた。
「くっ?!」
絶好の隙を見せてしまった。苦し紛れに拳を構えて身を守ろうとする。しかし爪による反撃は無い。疑問に思いながら、腕を蹴り払い手を外して着地した。
エ・テメン・アン・キが痙攣のように体を震わせ始めた。目の光は消え、剥がれる勢いで鎧がぐらついている。一体今度は何が始まるというのか。
『エラー発生、エラー発生。還元領域からヌルポインタが返されました。最適化の過程を終了、戦闘プログラムは例外処理に入ります』
化け物から姿に似合わない音声案内の声が流れてくる。脳内で勝手に擬人化されるそれの姿を必死に掻き消そうとした。
『ハンドラ39652を現在の対処として最適と判断。これより超軽量動力形態に移行します』
白銀の鎧が剥がれ、ガシャリと重々しい音を立てて地面に落ちる。
化け物の内部は、驚くほど貧相だった。漆黒の肉体は棒のように細く、生命活動に必要と思われる最低限の機能、――いや、戦闘に必要な機能しか備えられていない。それだけに、落ちることなく頭と手足に残った鎧が異様に大きく見えた。
「おいおい、スッポンポンになるのは愛知版だけにしとけよ……」
細い体が生々しくこちらに向き、再び紅い二つの目を灯した。
強烈な風と光が木々の間を吹き抜け揺らす。爆心地であるドリーネでは三人の生徒が呆然として削れた地面を見つめていた。
「――Beware the Jabberwock, my son」
七海は中指と親指を合わせて腕を前に突き出し、ルイスキャロルの詩を詠っている。今まで守りに徹していた彼女の初撃、それは小さなビッグバンとでも形容できる、光を伴った爆発だった。
「The jaws that bite, the claws that catch」
「それが、ジャバウォックの顎と鉤爪という訳か」
「……トリックスター。秩序に崩壊をもたらすものと、そう呼んでいるわ」
詩に則った俺の質問に気を良くしたのか、七海が上機嫌で返事をした。
「あれは美緒の使っていたレーザーの能力と同じ系統のものか――?」
正気に戻った健太が聞いてくる。
「確かに可視光を放つところは似ている。だが範囲も威力も桁違いだ」
「馬鹿野郎共、ぼけっと突っ立ってるんじゃねぇ!」
いつの間にか姿を変えていたグリフォンに襟をついばまれて引っ張られた。直後、今まで立っていた地面が閃光を放って弾けた。
「射線が見えねぇんだ、止まったら死ぬぞ!!」
グリフォンが俺達を背中に移動させて座らせ、嘴を開いた。戦闘になれば隼人はとても頼りになる。俺も負けていられない。
「龍之介、あの残像を見せるヤツを――」
「あぁ、既に張っておいた」
動きを止めて、息を潜める。
世界の理を司るもの(アヴェスター)で七海の目に屈折させた像を送り込んだ。彼女の目からは俺達が違う位置にいるように見えているはずだ。
指の鳴る音がドリーネ内に響き、思ったとおり離れたところで地面が砕けた。
「あなたにしては、お粗末ね――」
七海はそう言って、見えていないはずのこちらに向かって腕を突き出してきた。
「てめぇ、見えてるじゃねぇか?!」
グリフォンが慌てて走り出す。
「恐らく、影だ。先程の爆発は当てることを狙ったのではなく、光源の向きを変えることでこちらの位置を探るものだったのだろう」
「御名答。またご褒美をあげましょう」
七海が指を鳴らした。
閃光に呑み込まれる。今度の爆発は近い。衝撃波を受け、俺達はばらばらに吹き飛ばされた。
地面の上を転がりながら、頭の中で引っ掛かっていた何かのことを考えていた。ギリシャ語で鏡を意味する能力名に、鏡の国のアリス。意味するところは、対称の世界。
『元来意味を成さない幻想にして、片や全世界を破壊し得る武力』。意味の無い幻想、つまり現実には存在しない架空の空間。質量の消滅により、光の速度の二乗に比例する莫大なエネルギーを生み出す、破壊の権現。あれなら世界を壊すという表現もあながち嘘ではない。
「反物質――」
俺が起き上がりながらその名を呟くと、七海が嬉しそうに微笑んだ。
「そう、カトプトロンは反世界と粒子をやり取りする能力。倒される前に気付いてくれて嬉しいわ」
「オイ、何だそのハンブシツケっていうのは」
すぐ側に吹き飛ばされていたグリフォンが、小さな声で尋ねてくる。
「反物質。素粒子と逆の性質を持った反粒子から形成される物質だ。素粒子から構成される物質と衝突することで対消滅を起こし、桁外れなエネルギーを放出する」
「……まぁいい。勝てそうなのか?」
「今所持している能力では難しいだろうな……」
いかなる攻撃を繰り出したとしても、この世界の物質は反物質と反応して消滅してしまう。レーザー、すなわち光子は対消滅を起こさないはずだが、粒子である故に反世界とやらに送られて防がれてしまう。つまり対抗できる能力を持っていない。行き詰まりを感じて唇を噛んだ。
「今持っている能力、だろ」
「隼人――?」
歯を見せて笑う彼は、こんな状況でも何かを企んでいるようだった。
――お前が協力してくれれば勝てる気がする。
発した自分が一番驚いた言葉だったが、どうやら的を得ていたようだ。
――死んでも勝たせる、そう約束した。
そうとも、あの約束を破るつもりはない。頭としての責務を果たさせてもらおう。
隼人に向かって頷き、冷静になった顔を七海に向けた。
ここは、神殿のように壁に彫刻がなされた部屋。金属の立方体。横たわっている涼子。うずくまって腕を押さえているさくら。椅子に腰掛けた聖。動く者はいない。
「水月――ッ!!」
金属の立方体が火を噴いて砕け散った。聖が煙の上がる一帯に視線を向けた。
「そのまま大人しくしていれば、痛みを感じることも死ぬことも遠回しにできたのにね……」
「そうか? 俺は箱の中にいたときの方が、よっぽど苦しく感じていたけどな」
目で辺りの様子を確認することはできなかったが、耳がさくらの呻き声を捉えていた。怒りと何もできないもどかしさで、体の中が火をくべたように熱かった。
いまだに体中が熱く、焼けるように痛い。今度は本当に焼けていて、腕に水膨れができている。それでも内側が痛いよりはましだ。
「さくら――」
さくらは腕のない左肩を押さえてうずくまっている。足元に手の平を上に向けて転がっている彼女の腕があった。
「涼子――」
涼子は丸まるように倒れている。声に反応するように、微かに彼女の頭が動いた。喉に痛々しい十本の引っ掻き傷が残っていた。
二人とも辛うじて息はあるようだが、とても戦える状態ではない。
聖とさくらの間には、役目を終えたはずの鏡が未だに設置されていた。
アルカリ金属の壁。空間に対する窒素の充填。精巧な全身鏡。さらには灰燼やエ・テメン・アン・キも聖が創り出したものだろう。彼の能力はまるで、神による創造のようだ。
「お前の能力は、物を――いや、分子や原子を作り出すことか……?」
「ふふ、いい線までいっているけど惜しいね」
聖が天井を見上げたので、つられて顔を上げた。
「オムファロス。――僕の能力は、仮想世界中の任意の位置に任意の原子を配置することさ」
神殿の天井では無数の星が瞬いていた。流れ星のように、光が一斉に落ちてくる。
――違う。あれはこの部屋の天井全体に敷き詰められた、数百、数千の刃。切先を地面に向けて自由落下してくる。
剣の雨の範囲は、さくらと涼子にまで及んでいる。無我夢中で水蒸気をかき集め、爛れた手の平を二人に向けた。
「白蓮華――!」
間一髪のところで三人をそれぞれ包んで氷の花弁が凝結する。砕けながらも全ての刃を受け止めきった。
「よし……」
眩暈がして倒れかけたが、足を踏ん張って耐えた。散花させていないとはいえ、大技三回分の氷を使ったことで体が悲鳴を上げている。
「このまま何もしなくても、勝手に死んでしまいそうな顔をしているよ? 今のは能力の紹介のつもりだったんだけどな」
「眼鏡の度数合ってるか? 元々こんな顔だったぞ……」
「そうか。それなら今度はコレを使ってみよう」
聖がとうとう椅子から立ち上がり、こちらに向かって歩いてきた。いつの間にか右手に、筒が円状に幾つも配置された、黒光りする巨大な物体が握られている。
「ガトリング砲――、そんなものまで?」
「構造は結構複雑だけど、エ・テメン・アン・キに比べれば玩具のようなものだよ」
聖がガトリング砲を両手で抱えて正面に構えた。筒が回転しながら、絶え間ない銃声を轟かせて火を噴き、地面にチャリンチャリンと音を立てながら金色の空薬莢を積もらせていく。
俺は両手の平を前に突き出して氷の壁を作り、削られた部分を直ちに修復することで、怒涛の勢いで浴びせられる銃弾に辛うじて耐えていた。
「く……そ……」
聖の撃つ弾はそれこそ無限である。何らかの行動を起こさなければ、あっという間に体力の限界が来て蜂の巣になってしまう。しかし銃弾を受けきるだけで精一杯なのだ、攻撃に回すだけの能力の余裕はない。
「ここまで、か」
前に向けていた手を下ろす。
「ごめん、さくら、涼子――」
最後に二人に謝ろうとして振り向いた。
さくらの左手が転がり、血がしみ込んでいる地面。そこに彼女の姿は無かった。
「……何でも謝れば済むと思っているんだから、男っていうヤツは」
かすれた声がする。涼子がさくらに肩を貸して立っていた。
「無事だったのか――?!」
「無事かはともかく、この通りまだ足が付いてるよ」
「今のあたし達にはこれくらいしかできないけど――」
辛そうな顔をしたさくらが、腕の無い左肩をこちらに向けている。あまり変わった気はしないが、あの体で生を契る正義と法の加護を使ってくれているのだろう。
俺はまだ能力も使えるし、体だって動く。聖の管理者という肩書きにびびっていたようだ。こんなところで諦めるわけにはいかない。
「十分だ、ありがとう。あとは任せとけよ」
正面でガトリングを撃ち続けている聖を睨んだ。
「これだけ徹底的にやっても、まだ立ち向かってくる気力が残っているとはね。橘さんの言葉も案外当たっていたのかもしれないな」
彼も眼鏡のレンズの上から睨み返してくる。
右手を氷の壁から離し、氷の大剣を凝結させて握った。辛うじて拮抗していた攻守のバランスが崩れ、あっという間に壁が砕けて薄くなっていく。
その時、空から降り注ぐ紅の炎が俺と聖の間を覆った。行動の意図を汲み、崩れていく氷の壁を駆け上がる。左手を大剣の柄にそえた。
「――紅蓮桜花」
涼子の声が後押しする。彼女も辛うじて立っているような体で、こんなに燃え盛る炎を生み出してくれている。
頂上を蹴って宙を舞う。両腕を高く振り上げる。大剣の切っ先が、辺りの水蒸気を取り込み伸長していく。
炎の切れ目に聖と視線が交わった。彼がガトリングの銃口をこちらに向けてくる。
「加瀬――!」
空中にいる俺に避ける術はない。乱れ飛ぶ銃弾が体を削っていく。痛覚が麻痺しているお陰で、間合いをはかることに集中できる。それでいい、最後に腕さえ残っていれば彼を斬れる。腕があるはずの場所に力を込めた。
「終わりだ――ッ!!」
峰を昇華させ推力を加えて、氷の巨大剣を地面と垂直に振り下ろす。
黒光りする筒が、未使用のライフル弾が、砕けたガトリング砲の部品が地面の上を転がる。氷の刃は大理石の地面に突き立っている。剣先から砕けて静かに消えた。
視線を上げる。目の前には正中線に沿って分断されて尚、管理者としての威厳を示すように立ち続ける聖の姿がある。
「ごめん、加瀬。これが終わったら、みんなで本音をぶつけて話し合おう。本当に腹を割るなんていう、こんな暴力的な形じゃなくてさ……」
目の閉じた左右の顔に視線を移して呟いた。
「「祐太!!」」
さくらと涼子がこちらに近づいてくる。
「ありがとう、二人のお陰だ」
微妙な距離をおいて二人が足を止めた。顔を引きらせており、俺の方を見ようとしない。
「どうした、顔になんか付いてるか?」
「顔というか、付いてるというか、体中から色んなものが飛び出しているから……」
涼子が返事をした。
どういうわけか体が軽くなった気がしていたのは、そのせいだったのか。自分で見ると意識を失いそうなので、視線は下ろさないことにした。
「二人共、怪我は大丈夫か?」
「あたしは腕が無い『だけ』だよ。……だけ、って可笑しいよね」
「私もところどころ麻痺している『だけ』よ」
痛みを堪えて三人で笑い合う。あぁ、今また体が軽くなった。
さくらが急に笑いを止め、目を見開いた。
「そんな……」
「どうした?」
俺の体を見て驚いているのかと思ったが、違うようだ。彼女の視線の先を追う。
「いや……、もう嫌だよ……」
「さくら! おい?!」
明らかにさくらの様子がおかしい。視線の先には聖の遺体があった。
特に変わった点は見当たらない。視線を往復させて気付いた。左右の片顔が共に目を開いている。
「……僕は、管理者、この世界の神だ。なのに、なのに――、なんでこんな姿にされているんだぁぁ?!」
真っ二つになっている声帯が震えだし、怒号が上がった。落ちていた臓物や血液が体の断面に吸い込まれていく。時間でも巻き戻しているかのように、断裂が埋まり傷となり、傷が塞がっていく。
唖然としている俺達三人の目の前で、聖の体は元の姿に戻った。