1003:十日目(C)
青年と虎が隣り合い、洞窟の中を猛スピードで駆け抜けていく。走ってくる途中にいくつか分かれ道があったが、全てスピードを落とさずに直進してきた。
「見ろ、あそこから光が差し込んでいるぞ」
準貴が正面を指差している。確かに洞窟の先が白く明らんでいた。
「出口――、か?」
その光から受ける印象は、開放でなく拘束――虫が飛び入る誘い火。溢れる光の中に、準貴と虎が速度を落としながら踏み込んだ。
六人は足を止めている。眩しくて何も見えなくなったが、手をかざしているうちに目が慣れてきた。
「綺麗……」
美月が放心した様子で言葉を漏らした。他の生徒たちも唖然として、その部屋を眺め回している。
そこは、洞窟の中とは思えないほど立派な神殿だった。床には純白の大理石が敷き詰められ、壁には名前は分からないが、有名だと思われる神々の絵が刻まれている。入り口から奥に向かって左右に、手の込んだ彫刻がなされているコリント式の柱がシンメトリーに並んでいる。夢の中の世界というのは、まさにこのような場所のことを言うのだろう。
「ここまで辿り着いてくれて嬉しいよ。残りの三人は早くも脱落したのかな?」
神殿の中に声が響いた。六人が首を振り、声の音源を探す。
一番先に彼の姿を捉えたのは俺だった。
「加瀬……」
最奥の壁に据えられた純白の椅子に、聖が両手を組んで前傾に座っている。眼鏡の細いレンズの上から鋭い目を覗かせていた。
「お前と山並が管理者なのか?」
抱いていた疑問をぶつける。美月と真央が驚いた顔をしてこちらを振り向いた。
「その通り。伊勢を狂わせたのも、中曽根を混乱させようとしたのもこの僕だ」
「それは――、翔太の復讐の為?」
「あぁ、そうだ。あいつの為に作られたゲームであいつの恨みを果たす。理に適っているじゃないか」
聖は椅子に腰掛けたまま、薄笑いを浮かべて返答した。
「俺達は既にゲームと管理人の正体を知った。もう争うPTは無い。もう敦のように世界を見失うやつも現れない。――終わりにしないか、加瀬。もうこれ以上憎しみは生まれない」
「終わりになるさ。今回の仮想世界への接続は特殊でね、僕達二人を除く全てのプレイヤーがゲームオーバーになった場合、BCIケーブルを通じて君達の脳に害を与えるようにプログラムされている」
「――ハッタリだ、市販されている機械でそんなことができる訳がない!」
準貴が声を張り上げた。
彼の言うとおり、市場に出回る製品には安全規格のようなものが定められているはずである。多少間違った使い方をしても害の出ないように作られている。
「知っての通り、BCIケーブルはコイルによる遠隔誘導型交流電位を用いて脳とパソコンを繋ぐ。つまり脳からの電気信号はコイルの起電力に置き換わり、コンピュータからの信号はコイルからニューロンに対して局所的に信号を与えて行うということだ。メーカーはこの信号についてDBS(脳深部刺激)の基準である30μC/cm2/フェーズを用いて設計を行っていて、パルス幅を通常のパソコンのCPUのクロック数に合わせている。しかし強制的にクロックアップを行い定格以上で動作させれば、脳の神経細胞を破壊するのに十分な電荷密度の刺激を送ることができるんだよ」
DBS? パルス幅? 何のこっちゃ分からないが、最後の一文のみでもインパクトは十分だった。脳の神経細胞を破壊する――。
真央が不安そうに自身の腕を掴んでいる。他の生徒達も素振りこそ見せないようにしているものの、内心たじろいでいるようだった。
「ゲームオーバーになったら、と言ったよな?」
単に俺達のことが憎いなら、立ち話なんかしていないでクロップアップとやらを行えばいい。こんなまどろこしいことをしている目的を尋ねる。
「そう、僕達もあくまでゲーム上での復讐を行おうと考えている。ゲームオーバーは君達の敗北。君達の勝利――、つまりログアウトの条件は、加瀬聖と山並七海、そしてコイツの撃破だ」
聖が親指で後ろの壁を指差す。すると、今まで何も無かった空間から白銀の体が浮かび上がった。
紅く灯った両目。顎から生える二本の触肢。まるで人間のようなフォルムをもち、白い金属光沢を放つ外骨格。今まで相手にしてきた灰燼とは明らかに違う、知的な雰囲気を感じた。
「君達にも紹介しよう。エ・テメン・アン・キだ」
エ・テメン・アン・キと呼ばれた白銀の化け物が、上体を揺らしながらゆっくりと歩いて向かってくる。
「あぁ、そうだ。なんなら六人全員お前が殺しても構わない」
聖が独り言のように呟くと、化け物が両腕を垂らしたまま前傾になり駆け出した。一番近かったからか、一番弱そうに見えたのか、俺を狙っているようだ。
「くそっ、始開――」
足元を氷で固めて動きを止めようとする。しかし何故か水蒸気を凝結させることができない。
間合いに入り、化け物が白銀の爪を振りかざしていた。理由を考える時間も、頭を切り替える時間も残っていなかった。
五本の鋭い線条が走る。その時、何かに横から突き飛ばされ、地面の上を転がった。
「くっ――」
攻撃にしては、あまり体に痛みを感じなかった。素早く起き上がって振り向く。
エ・テメン・アン・キが動きを止めていた。対峙しているのは準貴。斬撃を受ける前に、体当たりして突き飛ばしてくれたらしい。
「何ぼけっとしてるんだ、戦う気がないなら下がってろ!」
ギシギシと歪んだ音を立てながら白銀の爪が掲げられる。準貴も右足を引き軸足を踏みしめて、いつでも蹴り込めるように構える。
「待った、準貴! そいつ何か変なんだ!」
薙ぎ払われる爪。紙一重のところで準貴が言葉に反応し、後方に跳んだ。普段なら強脚の脚力で瞬時に部屋の端まで後退できたはずである。しかし距離を稼げずに爪の先が迷彩服の胸部をかすっている。
「なっ、強脚が使えない?!」
「……あぁ、予想通りの反応で嬉しいよ」
聖が戸惑う俺達の姿を見て嘲笑している。
「エ・テメン・アン・キの周囲には還元領域と呼ばれるフィールドが展開されている。その中では、僕の能力を除いたすべての能力と性質が無効化されるんだ」
「性質――、絶対防御も当てにならないってことかよ……」
準貴が白銀の化け物を睨みつけて舌を鳴らした。
「僕は親切だからね、もう一度繰り返そう。――君達がログアウトできる条件は、加瀬聖と山並七海、そしてエ・テメン・アン・キの撃破だ」
エ・テメン・アン・キがぶら下げていた左腕を上げ、両腕で爪を構えた。性質は異常、容姿は異様。攻撃手段を持たない俺達は、じりじりと後退することしかできなかった。
「このままここに灰燼もどきがいると、聖に圧倒的に有利な戦場になっちまうな」
準貴の言うとおり、この場で能力が使えるのは聖だけである。どのくらいの範囲かは分からないが、還元領域から離れた場所での戦いに持ち込めない限り勝ち目はない。
「だからよ、こいつは俺が貰っていくぜ」
準貴が一歩前に踏み出し構えた。
「何言ってるんだ、能力が使えないのにどうやってそんな化け物と――」
「折角、勝利条件を提示してくれてるんだ。あんまりのんびりやってると考えを改めてくるかもしれないし、あいつの思惑に乗ってやるのが得策だろ」
さらに間合いを詰める準貴に向かって、エ・テメン・アン・キが大振りに爪を振り始めた。軌道が定まった単調な斬撃だが、正確で速い。準貴はなんとかかわしているが、反撃のチャンスを得られない。
「さくら、涼子!」
戸惑いうろたえていた二人に向かって準貴が叫んだ。
「な、何すればいい?」
さくらが裏返った声で応じる。
「祐太を頼む。こっちは俺一人でも何とかなりそうだからよ」
部屋の入り口まで後退していく彼は、とても何とかなるようには見えなかった。
「説得力が無いけど……。準貴がそう言うからには、本当に何とかするんだよね?」
「所詮は灰燼もどき。能力が封じられたくらいが丁度いい戦力差だぜ」
「分かった。任せておいて、この頼りないリーダーはあたし達が守っておくから」
さくらが返事をすると、準貴は笑顔で頷き、踵を返して走って部屋を出て行った。エ・テメン・アン・キがぎこちない走り方で後を追う。
「準貴君……」
真央が心配そうに洞窟の奥を見つめている。その様子を眺めていた美月がため息をついた。
「斉藤、あの包茎眼鏡は三人でいけるわね?!」
「ほうけ――、あぁ……」
どうやら美月にとって、包茎はむかつく男の形容詞らしい。そんなことを街中で叫んだら、日本人男性の十人に七人がギョッとして振り返ってくる。
「私達も行くわよ。あなたにそんな顔をさせた阿呆をとっちめるわ」
美月は親指で準貴の走っていった方向を指差している。真央が正気に戻って頷いた。
「準貴を頼む!」
走り去る二人の背中に声をかけた。
森の中にぽっかりとできた窪み、ドリーネの中では既にユグドラシルの三人と七海が交戦していた。三人は龍之介を先頭に三角形のフォーメーションをとって構え、対して七海は最初にいた位置から一歩たりとも動いていない。
両手を開いて正面に向け、指を軽く曲げた。七海の上空に、十個の光の玉が現れ旋回を始める。
「フツノミタマと言ったかな、彼女は――」
光の玉が合わさり、一つの巨大な塊を形成した。莫大な起電力で大気が絶縁破壊を起こし、炸裂音と共に地面に向かって特大の雷撃が放たれる。小さな放電を纏った巨大な光の柱が地面との間の空間を穿ち、地表の水分を一瞬で蒸発させ爆発して砕く。
衝撃波で吹き飛ばされた土が目に入らないように手をかざした。
布都御魂。邪気を退ける建御雷神の霊剣とは、あの少女は謙虚な名前をつけたものだ。邪気どころか、元凶ごと抉り去りかねない威力をもっている。
「オイてめぇ。何が協力すれば勝てる、だ。……何もしないで終わっちまったじゃねぇか」
隼人が拳を下ろしながら口を開いた。
七海がいた一帯は地面が抉れ、土が露になっている。ドリーネには風がなく、土煙がなかなか晴れなかった。
「何故そんな残念そうな物言いをするんだ。それならそれで良いことじゃないか」
構えを解いた健太がため息をついている。
「いや、まだだ……」
俺は両手の平を正面に向けたまま、土煙の上がる方向を睨み続けていた。前方からは依然、一人分の微弱電流が感じられるのだ。
土煙が一瞬で掻き消え、その中から七海が姿を現した。怪我は一切なく、攻撃前と変わらず平然と直立している。
「自機数が無限というやつか、厄介だな――」
健太が舌打ちをして再び構えた。
「管理者の権限を使うまでもないわね。残念がらなくても、そう簡単に終わりはしないわ」
雷で砕かれ衝撃波で吹き飛ばされ、無残なことになっている地面の中、ジグソーパズルみたいに七海の足元だけは草が生えていた。
「攻守共に素晴らしい能力だな」
「ありがとう」
空間に対する絶対防御。それとも転移系の能力を使って、攻撃の瞬間だけ別の空間に存在していたのだろうか。いや、だとすると孝大の件が説明できない。幸い七海から攻撃をしてくる意志が感じられないので、ヒントを得ることにした。
「――フウジン」
まずは双子の妹、奈菜の風の能力。両手の平を合わせて、手の中の少量の空気に速度ベクトルを与えて撃ち出した。
空気の刃は七海の体に到達する前に、見えない壁にでも当たったかのように掻き消えた。
能力は湯水のようにある、怯むことなく攻撃を続ける。次は昨日いい戦いを見せてくれた、斉藤祐太の水の能力。手を回して横向きにし、蒸発で得た圧力で水の刃を撃ち出す。
「スイゲツ」
胴体を狙い横向きに飛んでいった刃は、七海に当たる部分だけ消滅して、背後の壁に二つの傷痕を残した。
合わせていた手を上下に勢いよく開く。軌跡に青い三日月が熾った。
「グレン――」
氷室涼子の火の能力。地面と垂直に放たれた炎の刃は、七海の前で掻き消えた。
ポケットから小さな鉄球を取り出し、指先で掴む。
「ブリューナク」
続いては、隼人と互角以上に戦った桜井智和の鉄の能力。腕を突き出すのと同時に伸ばし急加速させる。あのランスより威力は下がるだろうが、殺傷力は十分だろう。
七海の左胸に向けて伸長する槍先が、中程に達したところで粉々に炸裂した。小さな熱い鉄の破片が、雨のように辺りに飛び散る。
「マッドカーニバル」
長谷川蓮の使っていた植物の能力。
七海の足元に残っていた植物を急速に成長させ、体を拘束させようとした。しかし茎を伸ばした瞬間に植物が消え、能力に応じなくなった。
次は何の能力を使おうか思案していると、砂の塊が横を通り過ぎていった。
「なんなんだ、あの滅茶苦茶な能力は――?!」
放ったのは健太。苛立たしげに歯を噛み締めている。
七海に向けて飛んでいったつぶては落ちることも当たることもなく、全て彼女の前で消滅した。
「それで終わり? まだいくつか取り込んだ能力が残っているでしょう?」
挑発しているのか、七海が嘲笑して首を振る。
「美味しいものは最後に残しておく趣味でね」
頭の中で、残っている能力を確認する。まず生体変化系の七個だが、弾除けとしても利用できるこれは不用意に使うべきではないだろう。四肢や臓器を交換する、美琴のアズラエルも同様だ。続いて世界の理を司るもの(アヴェスター)だが、実はさくらほど上手く使うことができない。だからこそ彼女をユグドラシルに誘ったのだが。――となると最有力なのは、最大級の命中率と威力を誇るあの能力だろう。
腕を前に突き出し、人差し指を立てて七海に向けた。
「なるほど。私の能力が何か分からなくても、電荷と質量を持たない光なら、今まで使った能力よりも有効な可能性は高いわね」
それでも七海は平然と俺の指先を見つめており、全く動こうとしない。
「キンシヘン――!」
指先から増幅した光の束を撃ち出す。通常であれば照射された瞬間に対象の体を射抜いているはず。
しかし俺の目には、ありえない光景が映っていた。レーザーが七海の前の見えない壁に防がれている。
「な……」
思わず声を漏らし、照射を止めて指を下ろした。
ある程度このゲームでは物理法則が守られていると理解している。しかしこれは、閉じた系の中のエネルギーの総量は変化しない、というエネルギー保存則に反するものではないか。世界の理を司るもの(アヴェスター)のように反射や屈折をさせるなら分かる。しかし彼女の場合、光のエネルギーが忽然と消滅している。
「さて、美味しいものはいつ来るんでしょう?」
元来意味を成さない幻想にして、片や全世界を破壊し得る武力。彼女の言っていた言葉は、案外誇張でないのかもしれない。
二つの走る足音が洞窟内に反響している。地面を蹴る音を立てているのは準貴。対してスパンの短い金属音を立てているのは、追尾するエ・テメン・アン・キ。準貴は能力こそ使用できないものの、陸上部の意地を見せつけ先行していた。
「これだけ走れば大丈夫か――?」
還元領域の範囲は、大きくても直径1キロメートル程と判断した。後ろを振り返り、ぎこちなく走ってくる白銀の化け物と対峙する。
エ・テメン・アン・キが足を止め、両手の爪を立てて構えた。
さくらには何とかすると答えたが、正直作戦も何もない。この状況で頼りになるのは、二人に馬鹿にされてやめた通信空手くらいだが、生憎武器を持った化け物に対抗するほどの段位は持っていない。あちらの戦いが終わるまでこの化け物を引き付けておき、皆でたこ殴りでもすれば勝てるだろうか。
「おっす、オラ中曽根準貴!」
「……」
とりあえず挨拶をしてみることにしたが、全く反応がない。聖が命令していたようだったので、一応会話くらいはできると思ったのだが。
「日本語分かるか? Can you speak Japanese?」
「……」
『英語は地球語』なんてCMがあったが、この化け物にも祐太にも通じていない。
「なぁ、エ・テメン・アン・キ『君』。……いや、『ちゃん』なのか? やべ、想像したらなんか萌えてきた」
銀色の外骨格に包まれた顔は、心なしか機嫌を悪くしたように見える。とその時、エ・テメン・アン・キの背後から二人の生徒が歩いて来た。
「ほら見なさい。あんな化け物に欲情するような輩なのよ、あの男は」
「準貴君――」
「真央、美月、どうしてここに?!」
二人は両親の励んでいる現場を見てしまったような、いたたまれない表情を浮かべている。
「危ないから戻れ、こいつは俺一人で何とかなる」
「危ないのはあんたよ、いろんな意味で……。心配して来た真央の気持ち、くんであげなさい」
確かに真央に何も声をかけずに出てきたのは配慮が足りなかったと思う。しかし能力が使用できないこの状況で、女の子を敵前に立たせるのはいかがなものだろう。どう納得させようか口上を考えていると、それを悟ったのか真央が口を開いた。
「準貴君、私も戦います! 止めても無駄ですから!」
「真央……」
拳を握り締めている彼女の顔は真剣そのものだった。
「分かった――、後方支援を頼む。危なくなったらすぐに逃げるんだぞ?」
「はい!」
エ・テメン・アン・キは新しく現れた二人が敵かどうか困惑しているようで、せわしなく首を振って視界におさめようとしていた。
この化け物は聖に操作されているのではなく、自立的に動いているようだ。搭載されたプログラムに従って行動を決定する、ロボットみたいなものなのだろうか。だとすれば、融通の利かないアルゴリズムを上手く突けば倒せるかもしれない。
「真央と美月は、化け物の周りに散ってくれるか?」
二人が俺の言葉に頷き移動した。エ・テメン・アン・キを中央にして三角形になるように立つ。
白銀の化け物は関節からギシギシ音を立てながら絶えず体の向きを変えて、三人の位置を確認しようとあくせくしている。
「散ったけど、これからどうすんのよ?」
「だるまさんが転んだ、だ。こいつが後ろを向いた瞬間に俺が叩く」
ため息をつく美月を余所に、徐々にエ・テメン・アン・キとの距離を詰め始めた。俺から視線が離れている間に歩を進めていく。
美月、俺、続いて紅い二つの目が真央に向けられた。
「おらぁっ!!」
その隙を狙って、化け物の側頭部を横から殴りつけた。人間でいう顎のあたりにクリーンヒットしている。しかし壁でも殴っているかのように力がそのまま自分の拳に返り、にぶい音を立てた。
「うっ――?!」
思わず声を漏らして屈んだ。拳に激痛が走っている。砕けた拳頭から血が垂れていた。
エ・テメン・アン・キは何事も無かったかのように美月の位置を確認し、続いて俺を見下ろしてくる。
視界の下方で何かが動いたと思った次の瞬間には、俺は腹部に衝撃を受けて宙を舞っていた。――白銀の右足。
洞窟の壁に激しく叩きつけられた。うつ伏せに地面に倒れこむ。
「準貴君!!」
白黒している意識の中で、真央の声が聞こえた。
まともに働いていそうな五感を総動員して現状の把握に努める。俺は倒れているのだろう、エ・テメン・アン・キが右の壁を歩いて向かってくる。
なんとか立ち上がろうと体を曲げていると、化け物と俺の間に真央が両手を広げて立ち塞がった。
「下がれ!」
「嫌です!」
必死に体を起こそうとするが、足が滑って上手くいかない。地面を這って彼女の元へ向かう。
白銀の化け物が真央の頭上に五本の爪を振り下ろす。
「真央――ッ!!」
瞬き程度の間、まさに瞬間。必死に地を掻いて手を伸ばす。
俺の指先は真央に、触れられなかった。
エ・テメン・アン・キは、横向きになって地面に倒れこんでいた。呆然として立っている真央には傷一つない。
「……お前の大切な人なんだろ、しっかりと護っておきやがれ」
化け物を見下ろして悠然と立つ、いかつい図体の少年。
「智和――?」
智和が頷き、俺の手を引っ張って立たせてくれた。
「あんた……、無事だったんだ……」
美月が泣きそうな顔をしている。
「笑ってくれ、美月。俺はその為に帰って来たんだからよ」
エ・テメン・アン・キが立ち上がる。ギシギシと音を立てる白銀の体に傷はない。
「で、なんなんだ、そいつは」
「――話せば長くなるんだが、名前はエ・テメン・アン・キちゃんだ」
智和は眉をしかめて首をかしげていた。
突如、ザーッというノイズ音が不規則に流れ始め、四人が辺りを見渡した。大人しくなったエ・テメン・アン・キの前に、80インチくらいの大きな画面が現れている。
サンドストームが止まり、表示されたのは二人の生徒だった。画面中央には薫の顔が大きく映り、端に大樹が立っている。
「えっと、繋がってる?」
「あ、あぁ……」
彼女達は昨日ゲームオーバーになっていたようで、今日は学校にも来ていなかった。ずいぶん二人とも疲れた顔をしているが、何かあったのだろうか。
「エ・テメン・アン・キはそこにいる?」
「お前らのすぐ後ろにな」
二人は慌てて部屋の後ろを振り向いたが、すぐに冷静になって何事も無かったかのように視線を戻した。
「よく聞いて、今からその化け物を倒す方法を教えるから」
薫はそう言って、寝不足で目の下が黒くなった顔で笑った。
分子の運動が衰えていくイメージ。右手の中に氷の大剣を凝結させ、柄を握り締めた。
どうやら準貴が上手く立ち回ってくれているようだ。さくらの顔からは不安が滲み出していた。
「へぇ、還元領域から外れて能力を使えるようになったのか」
聖は相変わらず最奥の椅子に腰掛けて、余裕の笑みを浮かべている。
「目論見が外れて残念だったね」
涼子が刀に火を灯しながら俺の横に立った。
「僕が目論見を外したとは、面白いことを言うね」
聖が軽く頭を振る。
「1%の勝機すらないゲームでも、プレイヤーに『やる気』を与えてやるのが製作者としての義務じゃないか」
「それはどうも。お陰でとても『殺る気』になったわ」
涼子が刀を薙いで、火の玉を聖に向けて放った。青い炎が炭化水素を呑み込み尾を散らして飛んでいく。
「不知火!!」
左手を刀から離して握り締めた。爆発限界内に濃度の抑えられたメタンに引火し、火の玉が形を崩し聖を包むように広がっていく。酸素を飲み込みながら猛スピードで空気中を伝播していく。
そこで炎は静かに掻き消えた。爆轟は聖に到達していない。聖は指一本動かしていない。
「そんな……」
涼子が刀を下ろしたまま唖然としている。
「折角三人もいるんだ、武田君との戦闘のように同時にかかって来たらどうだい?」
「それじゃ、お言葉に甘えようかな」
声のした方を振り向くと、さくらが両手を前に突き出して構えていた。
「祐太、涼子ちゃん、フォーメーション・ヘルオアヘヴン!」
「は? 何だそ――分かった!」
彼女のことだ、何か適当にやれということだろう。すぐに氷の盾を左手に凝結させて後方に構えた。
「え? え?」
涼子も眉をしかめながらも、火のついた刀を八相に構える。
「世界の理を司るもの(アヴェスター)――、生を契る正義と法の加護!!」
二人の体が地面から少し離れて浮かんだ。同時に俺は盾の後ろで水を蒸発させて飛び出し、涼子も滑るように駆け出した。
氷の剣先を凝結させ刀身を伸ばした。あとは峰を昇華させて推力を得ながら叩き下ろすのみ。柄を握りなおし、射程に入るのを待つ。
「水の相転移を行うことができる能力か。僕の気に入っている能力の内の一つだよ。――そんな君には、棘の牢獄を用意しよう」
「ブッ?!」
突如、視界が真っ暗になった。顔に衝撃が加わり、脳が揺れる。正面から何かにぶつかって、仰向けに倒れていた。
立ち上がって手探りで歩く。どうやら前後上下左右の六方向が金属の壁で囲まれているらしい。
「こんな壁――」
暗闇の中で氷の大剣を振り上げた。
「祐太、能力を使っちゃダメ!!」
壁の向こうから微かにさくらの声が聞こえ、剣を下ろした。
「ネタバレは止めて欲しいな」
続いて聖の声が聞こえてくる。
「その壁はアルカリ金属で出来ている。化学の授業で習ったことを覚えているかい?」
アルカリ金属といえば、確かナトリウムやカリウムといった、水と触れると発火しながら激しく反応する金属だ。つまり能力を使ってこの壁を壊そうとすれば、発生した水素によって爆発に巻き込まれてしまう。
真偽はともかく、学校に保管されている程度の量でプールに穴が空いたなんて話も聞く。こんな量のアルカリ金属の爆発に巻き込まれたらただでは済まないだろう。
鈍く光る金属の立方体を脇目に涼子が走る。
「空気中の元素を組み替えて炭化水素を形成する能力。……所詮単独では役に立たない、不完全な能力だね」
刀に灯っていた炎が、青から薄れてオレンジ色に変わっていく。
「え――」
炎が揺らぎ、弱まっていく。思わず驚きの声を漏らした。
「窒素で充填されたその空間では、燃焼は起こらない」
いくら可燃性物質と火源が存在していても、酸素がなければ燃焼は続かない。炭化水素を供給し続けているのにもかかわらず火が消えた。
異変を感じて足を止めた。この感じは、昨日綾音に使われたネクロフィリアに似ている。
「かはっ……?!」
息を吐いて息を吸う。心臓が動いているくらいに当たり前の、対をなす生理活動の一方が阻害されている。呼吸をする度に苦しくなっていく。喉を掻き毟りながらうつ伏せに倒れこんだ。
「祐太?! 涼子ちゃん?!」
金属の箱に閉じ込められた祐太に続いて、涼子まで倒れたきり動かなくなってしまった。取り乱して叫ぶ。
「空気の密度を変えることができる能力。君が一番厄介だよ」
聖は椅子に座ったまま一歩も動いていない。厄介と言いながら、倒しがいがあるとでも言いたげに唇の端を歪めていた。
無からアルカリ金属の壁を形成する。無から窒素を生成し大気に充填させる。反則的な彼の能力は一体何なのか?
「この――」
手の平を前に向け腕を突き出し、聖を睨みつけた。空気抵抗を高め、大気圧で圧し、椅子の上から動きを封じる。
手応えもあった。上手くいっている。あとは四肢と首を切り落とすだけ。
「なるほど、そうして動きを封じて止めを刺すというわけか。確かに指一本動かせないな」
聖がどんな能力を使うかなんて関係ない。ここで殺らなければ皆が殺られる。
「死を齎す十六の厄災――!」
まずは椅子に座った彼の体の部位の中で一番狙いやすい、右腕の肘を狙う。理をねじ伏せ生み出したのは大気の刃。ギロチンが降下する。
私の視線の先には、いつの間にか赤茶色の頭をした少女の姿があった。
「え――?」
疑問に思った時には既に遅い。ギロチンは振り切り、地面に当たって停止した。
足元に、何かが落ちて転がった。恐る恐る視線を落とす。
おいでおいででもしているかのように、白い手が手の平をこちらに向けている。私の左腕が転がっていた。
「うっ?!」
腕の付け根から血が噴き出す。右手の平で押さえて屈みこんだ。
「その能力は、空間関係の把握や、範囲や量の調整といった多自由度の動作を同時に行わなければならず、扱いがとても難しい。――鏡で自分の姿を見せられただけで、対象を自身の周囲に移してしまうほどにね」
三人がかりでも手も足も出ない。こんな神じみた能力を持った男を倒すなんて不可能だ。血塗れになり激痛に耐えながら、私はそう悟った。