0603:六日目(C)
廃墟街から場所変わって、ここは廃工場。壁材は剥げ落ち、赤茶色に錆びた鉄骨だけが形を残している。
大樹が足場を整え、両拳を腰の横に構えた。同時に前に突き出し、大きな衝撃波を撃ち出してくる。下部分が地面に沈んでコンクリートを抉っているが、威力は全く衰えていない。
腕を引き、全身にバネをためる。スタンディングスタート。衝撃波と対向して駆け出した。砕き散っている礫から範囲を見極め、紙一重のところですれ違う。
「くっ」
すぐさま拳を顔の前で構え、防御の体勢をとる大樹。
彼の前で踏み切り、前宙して跳び越え背後に回る。間髪いれずに上段後ろ回し蹴りを放つが、立てた前腕で防がれた。
下ろした足で踏み切り、斜めに跳び上がる。鉄柱、天井の鉄骨を蹴り、勢いをつけて真下に飛び蹴りを放つ。眼下で大樹が前方に身を投げる。地面を抉り砕いて着地した。
「なるほど、打撃の威力はほぼ互角。ならば手数で勝る俺を速度で翻弄し、リーチを活かした攻撃で仕留めようという魂胆か」
大樹が体を起こしながら言葉を連ねる。言い終えると、直立姿勢から拳を突き上げ、衝撃波を撃ち出してきた。
回し蹴りで薙いで打ち消す最中、視界に拳を振りかぶって迫る大樹の姿が映った。轟音をたてて振られる連打を、左右に体を捌いてかわし後退する。
彼が背中を見せたと思った次の瞬間、エの字型の断面が眼前に映った。
咄嗟に地面を蹴って、横に跳ぶ。その何かが顔のすぐ近くを通過していった。
コンクリの破片を撒き散らして地面に突き刺さったのは、鉄骨。大樹はまるでジャベリックか槍投げみたいに、3m以上ある金属柱を投擲してきたのだ。
「だが速力に物言わせて空間を利用している以上、構造物が無くなったら攻撃力は激減だな」
大樹が冷ややかに笑いながら言う。
頬から垂れた血が足元に水玉模様を描いた。
「おいおい、そりゃあファールだろ……」
「そうか。それなら、もう一投」
地面に立っている鉄柱を、根元のコンクリートを引きちぎって抜き、軽々と手の上にのせて大きく後ろに振りかぶる。さらには空いた手で三本目を掴んでいる。
一発一発蹴り落としている余裕はなさそうだ。二本目が大樹の手から離れた瞬間に駆け出した。
廃工場の中を柱を縫って走る。容赦なく直線を描いて向かってくる鉄骨が、進行方向の前に後ろに、次々に突き刺さっていく。
なんとか攻勢を取り戻そうとするが、振り回される大きな鉄骨に阻まれて大樹に近づくことができない。隙を窺いつつ彼の周囲を回り続ける。
足を止めた。様々な姿勢で地面から突き出している赤茶色の金属柱、その間を大樹が歩いてくる。
彼がその中の一本に手を伸ばしている間に反撃に移る。一歩を踏み込み、斜めに跳び上がった。彼は咄嗟に腕を交差させて頭部を覆っている。しかし俺が向かっているのは、彼の近くで斜めになって地面に突き刺さっている鉄骨。
大樹がこちらを振り向く前に、鉄骨を蹴って方向転換し、死角から鋭い跳び蹴りをかます。
「――スピットファイア!!」
ガードを間に合わせない。脇腹につま先を突き刺し、大樹の体をズルズルと押し下げた。しかし彼は怯みはしたものの、倒れなかった。
足先を掴まれ、上空に放り投げられた。腰を捻ってバランスをとり、落とされた猫のように上手く着地する。
「なかなか勝負がつかないな」
大樹が体に付いた土を叩い落としながら言った。
「そうだな」
「――そこで提案があるんだが」
「なんだ?」
「明日、200mで決着をつけないか?」
陸上が大好きな大樹のことだが、意外な提案だった。
「望むところだ。場所は校庭のトラックか? 何時開始だ?」
「アップの時間が必要だろうからな――。十時からでどうだ」
「分かった」
「ただ勝負をするだけではつまらないな。勝った方は一つ命令ができることにしよう。……そう、例えば『部活を辞めろ』とかな――」
「……上等だ」
例えではなく、大樹は勝ったら間違いなくその命令を口にするだろう。陸上を最後まで続けたい。決してこの勝負に負けるわけにはいかない。
「勝負を決する場は決まったが、このまま帰るのも癪だ。強制ログアウトまでに片腕もらっていくぞ」
「片腕だけとは小さく出たな。俺は両脚もらってく」
「言ってろ。――ッ」
絶え間ない強打の応酬が始まる。一撃は、いずれもが必殺の威力を持っている。かろうじて均衡を保たせているのが絶対防御であり、無防備な部分を狙った攻防が続く。
「うぉぉ!」
普段あまり感情を見せない大樹が大声を上げる。顎に向けて、右の拳を捻りながら打ち出してきた。
あんなのをくらったら、脳震盪どころではなく、首から上が脳髄ごと吹き飛ばされてしまう。
軸足を中心に足を捌き、手の甲側に回り込んでかわした。前に出ている左脚に対してローキックを狙う。
当たれば速度低下どころではなく、関節が逆側にへし折れて身動きがとれなくなるだろう。
大樹は屈んで左前腕で弾き、起き上がる力を利用して俺の横腹に蹴りを入れてきた。肋骨が軋んで激痛が走る。
上体に集中している分、足への注意が散漫になっているようだ。一撃必殺の拳を受けるよりは百倍マシだが。
地面に降ろされる前に大樹の足を左腕で抱え込み、膝蓋の少し上にある血海にチョップを入れた。大樹が痛みで体をよじる。
「この……」
風を切って迫る裏拳をスウェーして避ける。鼻先の空間が抉られていった。
大樹が右の拳を大きく振りかぶる。俺も軸足を思い切り踏み込んだ。
拳が勢いよく振り下ろされる。脚が重々しく弧を描く。
矛と盾――いや、二つの矛が互いの存在を打ち消そうと衝突する――。
目を開く。
好きなアニメキャラクターの壁紙が映った、パソコンのディスプレイが目に入る。周りを見渡すと、フィギュアやポスターで囲まれたよく見慣れた場所だった。
「俺の部屋……?」
今の今までアップステアーズで大樹と戦っていたはず。ゲームオーバーになって排除されたのだろうか。
パソコンの画面にテレビ電話の着信が表示された。通話をクリックする。タスクバー上の時計には、00:13と表示されていた。
「大丈夫だったか?」
画面の右上に上体が映るや否や、祐太が話しかけてきた。左下には涼子の顔も映っている。
「分からない。何が起きた? 俺負けたのか?」
どうして祐太達までこちらに戻ってきているのだろうか。
「薫が言うには、管理者がなんとかしてくれたらしい。強制ログアウトが何とかって聞こえなかったか?」
「悪い、熱中してて聞こえなかったみたいだ」
よかった。ゲームオーバーになったわけではないらしい。
「こっちも大丈夫だったわ。薫さんには逃げられたけど」
声を出したのは涼子。カメラの位置が分かっていないらしく、顔が近い。これはこれで萌えるので放置しておくが、機械操作に疎いのだろうか。
「そうか。俺は決着はつかなかったが、明日また勝負することを約束してきた」
「明日? ゲームはないはずだけど……」
「学校で200mの――」
言いかけて、重大なミスに気が付いた。ビッグバンから生み出されたテニスボールの隕石が、恐竜を滅亡させるぐらいの衝撃を受けた。
「あぁあぁぁぁぁ?!」
「「五月蝿い!」」
今が深夜であるということも忘れ、思わず叫んでいた。何も考えられず頭は真っ白、無我の境地のごとく心既に空である。
「明日デートあったのに、勝負する約束をしちまった!」
「あ……」
「あらら」
目頭を押さえたり、口を開けて二人が呆れている。
これは不味いことになった。部活とプライドを捨てて大樹との勝負を休むか。遊園地に行くのを凄く楽しみにしていた真央を裏切るか。――そんなもの選べるはずがない。
「俺、どうしたらいいと思う?」
二人に意見を聞いてみる。
「俺が真央ちゃんと遊園地に行く」
「絶対却下」
「俺が大樹と走る」
「……却下。陸上を無礼るな!」
「今一瞬迷っただろ」
祐太にはこういう時こそ頭をフル回転させて欲しい。
無理を言って、今から大樹と勝負してもらうのはどうだろうか? しかし終電は既に終わっている。無理を言って今から真央と遊園地に――開いていないだろう。
「一つ思いついたけど――」
涼子の重い口が開く。混沌としていた脳みそに、一筋の光が差し込む。
さくらは無気力にパソコンの前に座っていた。タスクバーには、祐太からのテレビ電話の着信履歴が残っている。
なぜこんなことになってしまったのだろう。着信履歴を閉じた。
夢の為にはお金が必要だった。
えりかはバスケットボールのスポーツ推薦を受けたが、私にそのような才能は無かった。だから母に迷惑をかけないように一生懸命勉強して、一生懸命稼がなければならなかった。
妹達の世話をして、母の手伝いをしながらいろんなバイトをしていた。危ないこともした。嫌なこともした。法に触れることもした。そうしてようやく高校生活を送れるだけのお金が稼げたのだ。
高校にさえ入れば何とかなると思っていた。周りが望まないでも進学していくように、努力した私は行きたい大学に入ることができると思っていた。
そんな時に来たのが、あのハガキである。私の今までの五年間と苦労と努力は、水の泡のように消え失せた。
絶望の中にいた私にとって、祐太と準貴だけが光だった。あの二人と馬鹿なことをやって遊んでいる時が一番楽しかったのだ。
公園の池で鯉の掴み取りをしていたら警察のおじさんに怒られた。打ち上げ花火を撃ち合って遊んでみんな火傷した。ももの写生大会の絵を四人で描いたら入賞して焦った。
毎日が楽しかった。せめて残りの高校生活を二人と一緒に楽しく過ごそうと思っていた。もう夢のことなんて忘れようと思っていた。
しかし侵食が始まるきっかけとなったのは、あの差出人不明の宅配便。
3000万円という金額に耳を疑った。それだけあれば大学に行くことができる。また夢を目指すことが出来る。
祐太達と合流した日、教会に向かう途中で五人の生徒と会った。
『ユグドラシルに入れ。お前が加われば、このPTが勝つことは絶対的となる』
交戦した後、武田龍之介はそう言った。
『それは光の能力だと言ったな? お前の能力はそんなものではない、世界の理を司るものだ。俺はそれを上手く扱う術を知っている。他のPTに入ったところで、それを活かすことができずに脱落するだろう』
このゲームで勝つということは、賞金を手に入れることができるということ。この選択が、この先の人生の分かれ道だと思った。
二人と楽しく高校生活を送り、後はかつてのように職場を転々としながら働き続けるか。二人と離れることと引き換えに、夢に向かって歩みを進めるか。
後者の選択肢の方が魅力的に見えた。けれど選ぶことは出来なかった。それだけ二人との関係が大切だった。祐太と一緒にいたかった。
『PTは複数掛けもつことが出来る。今はその二人と共にいればいい』
恐ろしい男だと思ったが、この男ならこのゲームに勝てるとも思った。彼は美緒に代わってニダヴェリルを率いることで、二人に最後まで干渉しないと約束してくれた。
もう迷うことは無かった。二人は優しい、最後にはきっと許してくれる。今まで通りの関係に戻ることができる。どちらも手に入れることができる。
計画は上手くいった。
PTに入る許可を求めると、祐太は間を置かずにOKを出してくれた。祐太と準貴、それに涼子を加えた三人で仲良くやっていけた。
歯車が狂い始めていたのに気付いたのは、一緒にいると裏切っていることがばれると思い、なにかと理由をつけて離れるようになってからである。出席自由だった朝夕のユグドラシルの集会は、自分に言い聞かせる理由としては最適だった。
実はばれているのではないかと常々不安になるようになった。三人に後ろめたくて、どうしたらいいのか分からなくなった。
そんな時に得たのが、祐太と涼子と食事に行く機会だった。彼らは何も変わっておらず、その中はとても居心地のいい場所だった。もう少しで片がつくのだから、頑張ろうと思わされた。絶対に両方手に入れようと決意した。
美緒が私達の前に現れた時、私が積んできた全てが壊れた。
三人とも優しい言葉をかけてくれてとても嬉しかったが、後ろめたさで顔を合わせられなかった。
私は三人の優しさに甘えていたのだ。あの楽しかった日々にはもう戻れない。そう考えたら、もう夢も、賞金も、三人との関係もどうでもよくなった。
『……牛丼大好き』
高校受験前にようやく気付けたこの気持ち。高校に入ってからも二年間ずっと温めてきたこの気持ち。気付いた時には気持ちを抑えきれなくなって、祐太に告白していた。もっとも鈍感な彼は、それがあったことすら気付いていないかもしれないが。
もしも受け入れてもらえたならば、全てを投げ捨てて彼の元に向かおうと思っていた。
けれどその返答は、私を失望させた。
『……明日、吉田屋行こうか?』
その言葉を聞いて、ようやく踏ん切りがついた。
私はユグドラシルで賞金を手に入れる。夢を掴んでみせる。三人との楽しかった記憶は胸の奥に仕舞い込もう。
暗い夜道を一人で歩いているのは、リュックサックを背負った陸。目的地はピンクの暖簾のついた自動販売機である。
「おぉ、あの女優さんの新作出てたんだ……」
思いがけない収穫に、思わず小躍りする。
普段は通販や店頭で購入しているが、稀に掘り出し物があるため、月一回の商品チェックは欠かせない。
辺りに誰もいないのを確認してボタンを押す。なぜ人目を気にするのか。それは商品とともにスリルも購入しているからだ。
DVDを取り出し、丁寧に袋に包みリュックサックに仕舞いこんで帰路を急いだ。
満月を過ぎて少し痩せてきた月を見上げる。黒い空に、白くなった息が吸い込まれていった。
ついこの間まで夏だったのに、あっという間にめっきり冷え込むようになった。ウインドブレイカーのファスナーを首元まで上げ、ポケットに両手を入れる。
「こんばんわ、ちょっと時間をもらっていいかな」
正面から警官が自転車を押しながら歩いてくる。パトロールだろうか。
「別に構いませんけど……」
「こんな時間まで何をしてた?」
「塾が終わって家に帰るところです」
確かAVでそんなシチュエーションがあった。この際だから使わせてもらおう。
「そうか、若いうちからご苦労だな。住所と名前を教えてくれるか?」
胸に付いた無線で何やら通信を始めている。ドキドキしながらも、正直に住所と名前を言った。
「確認できたよ、協力ありがとう。最近この辺りで通り魔事件があったからな。気をつけて帰れよ」
「はぁ……」
通り魔事件か。それで急にパトロールをし始めたに違いない。とんだとばっちりを受けた。
警官に見送られて帰路に戻った。
母校であるたたら南中の前の道路に差しかかった時、街灯の下に誰かが立っているのを見た。黒いTシャツに黒いチノパンという真っ黒々な格好で、光が当たっていなければ気付かなかったかもしれない。深く野球帽を被っていて、顔は確認できなかった。
この寒さの中、軽装で壁を一心不乱に見つめているので不振に思ったが、前を向いて通り過ぎた。
ジャリ、とアスファルトを踏みしめる音がした。
不意に。痛みをどこから感じているかも分からないほど急に、激痛が走った。とっさに左手を右腕に被せていた。
混乱しながらも、後ろを振り向く。野球帽の人物が道路の真ん中に立ち、こちらに体を向けている。
街灯の下に照らされているのは、手の先に突き出した刃。滴る血。
――それは誰の血か?
腕を押さえていた左手の平を返す。真っ黒いものがべったりとこびりついていた。
「う、うわ?!」
腰を抜かして仰向けに倒れこむ。必死に体をよじって相手から距離を取ろうとする。
どういう訳か、この野球帽は俺の命を狙っている。
動転し意識を失いかけながらも、感覚が無くなった腕でリュックサックをしっかり胸に抱いた。一人のコレクターとして、たとえ命散る結末になろうとも、パッケージに写る彼女に刃を突き立てさせはしない。
火炎のように波打つ刃が、俺の顔に向けられた。
「こっちです!!」
女性の叫び声が聞こえた。続いて幾重にも重なった走る足音が近づいてくる。
野球帽が踵を返して走り出した。
「待てッ!!」
声を張り上げたのは、先程の警官。ライトの灯ったママチャリを立ちこぎしてそれを追っていく。その後から近所のお父さん方が、ぜえぜえ言いながら走ってついていく。
胸の中のリュックサックを見た。無事である。俺はパッケージの彼女と共に信念を守り抜いたのだ。苦痛で歪んでいた顔がほころんだ。
徐々に意識が薄くなり、気を失った。