0101:一日目(A)
季節は初秋。衣替えを前に、白黒思い思いに制服を着た生徒達が席に着いている。前では教師がモールス信号のような不規則な音を発して、外国の言葉を書きなぐっている。ぶっちゃけ意味を理解していないが、周りと同じように机に開いたノートに黙々とその内容を写す。
ここは祐太、準貴、さくらの通う学校、面沢高校の二年二組。
面沢町にある、ここいらで唯一の県立高校には私立に行かないほとんどの学生が集まってくる。そのお陰で卒業後は一流の大学進学を志願する生徒から、町工場で働く予定の生徒まで様々な人間がいるわけだ。
面沢の面とは顔のことであり、ここ一帯にある『でいだらぼっち』伝説の、巨人が転んだ時につけた顔の跡にできた盆地からきている。その時に手をついてできた手形池があるのが、ここから北西に位置する手形村。転んだ原因となった傾斜面が、北東に位置する踏鞴坂市。交通のターミナルであり、ここに住む人間にとって中心的な場所である。
「まぁまぁ、そんなに落ち込まないでよ。――作戦は上々。ただ、英語ができなかった。致命的にできなかった」
黒板に描かれた暗号の解読を試みていると、なにを勘違いしたのか、後ろの席であるさくらが話しかけてきた。
頭を動かすたびに、赤茶色の頭の後ろで結われた短いポニーテールが揺れる。彼女は寒がりである為、一足先に白のブラウスの上にプルオーバーのスクールセーターを着ている。
「高校生にもなってゲームレベルの英単語も分からない奴なんて希少だぞ? もっと自信を持て」
左の席からは準貴が話しかけてきた。この二人は幼馴染であるが、何故か昔から席が近いことが多い。
準貴は机と椅子の間から長い上半身を狭そうに出している。綺麗にアイロンのかけられたワイシャツの裾をズボンに入れて、いかにも優等生風に着こなす。
「お前らなぁ、励ましてくれてるのか? 貶してるのか?」
椅子に座ったまま後ろを振り向いて、二人を交互に睨んだ。
「あれは、不本意ながら『ブリーズ』と『ブレイズ』を言い間違えてだな……」
「どっちにしろ、水属性ではないだろ」
冷静につっこみをいれてくる準貴。
ブリーズ、水じゃあないのか? てっきり『凍る』という意味だったと記憶していたのだが。
突然さくらと準貴が教科書と辞書を開いて、適当にシャーペンを動かし始めた。不思議に思いながらも、そのまま話し続ける。
「だいたい、国外に出る予定なんて無いんだから、英語なんてできなくても……」
「今の時代、論文や会議など国内でも英語は必要だ。そのような甘いことを言っていては時代に置いていかれるぞ」
返事は違う人間から返ってきた。慌てて振り返ると、そこには腕を組み不機嫌そうな表情をした担任が立っていた。このスーツの似合うおじさん先生は、不幸にもクラス担任だけに飽き足らず英語を教えて下さっている。
幼馴染を見放した二人は知らん振りで辞書をめくっていた。
「げ……」
思わず小さな叫び声をあげてたじろぐ。しかし担任は腕を下ろし、踵を返して黒板の前に戻っていった。
「あれ? てっきり当てられると思ったんだけど……」
「お前を当てると授業が進まないしな」
担任の代わりに、ひたすら辞書をめくっていた準貴が答えた。裏切り者に向かって消しゴムのカスを飛ばしてやる。
「――中間テストを返す。名前を呼ばれたら前に取りに来るように」
教室内がざわつく。先程まで教科書を進めていたというのに、なんという身の返しか。
「石川」
石川と呼ばれた好青年が長身を緩やかに伸ばしながら立ち、教壇に置かれたテストを取りに向かう。
「出雲、伊勢、大塚――」
次々と生徒達の苗字が呼ばれ、テストが返されていく。
「――斉藤、」
他の生徒と同じように立ち上がり、担任のもとに向かった。しかし俺の答案だけは教壇に置かれずに手渡される。
答案の点数を見て、その意味を理解した。
「榊、桜井――」
続いて呼ばれる生徒達。
「――中曽根、常盤――」
「また赤点か?」
テストを受け取り、席に戻ってきたさくらと準貴が俺の答案を覗いてくる。それを必死にブロックして隠し通した。
「赤点なら胸張って見せられる」
「それも問題だと思うけど……」
さくらがため息をつきながら自分の席に戻っていく。
「谷口――はサボりか……。斉藤と桜井は英語研究室に来い。他はプリントを配るので、それをしているように」
テストが皆に配られたようで、再テストのお呼びがかかる。言うまでもないが、斉藤とは俺のことだ。いつものことなので特に感想も感慨もない。
「加瀬、授業が終わったら全員分集めて持ってきてくれ」
「はい、分かりました」
加瀬と呼ばれた、眼鏡をかけ学生服のホックを留めたいかにも真面目そうな生徒が返事をした。
「祐太はいつものこととして、桜井君珍しいね」
さくらが回してやったプリントを受け取りながら、俺と準貴に話しかけてくる。彼女は体育以外は成績が良い。
「いつもなら隼人と祐太と双子・姉だからな」
そう返事をする準貴も、学年平均より上を維持している。俺だって英語以外はそこそことれているつもりだ。英語以外は。
「はい、そこー。あたしと斉藤を同じレベルにしないで下さいー」
前の席に座っていた、その双子・姉が振り返り、勝ち誇った顔で言った。
肩ほどまで伸びた髪を横で結っているが、それを降ろすとほとんど妹と見分けがつかない。見た目は、ではあるが。口を開けばすぐにどちらか分かる。
「目クソ鼻クソを笑うってな」
無言でいるつもりだったが、彼女だけには馬鹿にされたくなかったので口を開く。
「ふっふっふ、これを見てもそんなことが言えますかなー?」
双子・姉――松井陽菜が自慢げに開いた答案を三人で覗き込んだ。その極端に○の少ない答案には、右上に18の数字が書かれている。
思わず準貴が言葉をもらす。
「自信満々なとこ悪いんだが、赤点だろ?」
それは正論。英語のテストは60点未満は追試になっている。
「陽菜のクセに2桁だと――?!」
「……祐太1桁なの?!」
つっこみ所を間違え自爆した俺。本気で心配するさくら。そして騒ぎの元にも、教室に戻ってきた担任から召集がかかる。
「すまん、松井姉も研究室に来るように」
「ええぇぇぇぇ……?!」
「当たり前だろ、18点とか……」
興味ないといった様子で、準貴がプリントに名前を書きながら意見を述べる。
「奈菜ちゃーん……」
「行ってらっしゃい、姉さん」
震えた手を伸ばす姉に、にこやかに手を振って答える妹。普段ずっと一緒にいる仲の良い双子だが、こればかりはどうしようもない。
妹の松井奈菜。こちらは髪を結っておらず、目元にホクロがある。また、性格で判断するならおしとやかな方だ。幼馴染三人組のように中学からの知り合いであると、それら以外にもなんとなく見分ける術を得る。
「行こうぜ、目クソ」
「触るな、鼻クソ」
陽菜とどつきあいをしながら、担任を追って教室を出ていく。それに同じく追試となった桜井智和も続いた。
二年の教室が並ぶ二階の南側通路に英語研究室はある。中にはプリントやら問題集やら赤本やらでめちゃくちゃになった六卓の机が中央に配置されている。
「では、例の通り追試を行う。二人は慣れているから説明は不要だな? そこに問題を置いておいたから勝手に始めろ」
指差された先では、プリントやらを横に寄せて空けられた狭いスペースにテストが二枚配置されていた。
「……」
追試に『慣れている』と言われるのも複雑な気持ちである。二人とも無言で椅子にかける。まぁ、勝手に引き出しの中からシャーペンと消しゴムを取り出すあたり、『慣れている』のだが。
担任は続いて、自分の向かい側の椅子を指差した。智和が足を開き、背もたれに寄りかかって浅く座る。
彫りの深い顔つきと太い眉毛が自我の強さを強調している青年。筋肉質な体に伸ばされた学生服が悲鳴を上げている気がする。
「桜井、問題の説明文をちゃんと読んだか? お前の場合、和訳するところを英訳してあったり、もったいないミスが多かった。問題文をしっかり読んでいれば70点は取れていたはずだぞ?」
担任が指導を試みようとする。しかし智和は無言のまま俯いていた顔を上げ、彼を三白眼で睨んだ。担任にも教師なりの意地があるのか、目を合わせていようとするが、すぐに逸らしてしまった。
気持ちはよく分かる。彼は今こそ大人しくしているが、中学の時には同じクラスメイトの谷口と共に『北の谷口』『南の桜井』とかいう、はたから聞けばこっ恥ずかしい名前をつけられていた連中である。
智和がつまらなそうに口を開いた。
「注意書きだの解説だのに目を通しているような奴は小物ですよ。男ならヤってる過程で会得するもんでしょう」
「……まぁ、これからはさらっとでも目を通すように。桜井は教室に戻っていいぞ」
担任の指示を受け、智和は不機嫌なオーラを漂わせたまま英語研究室を出て行った。
「「ひいきー♪ ひいきー♪」」
陽菜と共に息を合わせて訴えかける。彼女とは普段はいがみ合っているが、こういう馬鹿をするときに気が合うところは好きだ。
「お前らは二人分の点数合わせても掛けても合格点に満たないからな。もっと焦って勉強しろ」
五時間目の終わりのチャイムが鳴る。物理の教師がマイチョークをケースにしまい、教室を出ていった。
「ハブ、ハド、ハド、メイク、メイド、メイド……」
声に出してテストを見直す。追々々々々試でも合格点を取れず、明日追々々々々々試を行うことになった。追々々々試で抜けていった陽菜が恨めしい。
「メイドさん?」
準貴が帰る準備をしながらも反応する。
「すっかり魂抜かれてるねぇ……。気持ち入れ替える為にどっか食べ行こっか。牛丼? ワクド?」
準備を終えたさくらが俺と準貴の間に立つ。
「その選択からしておかしいよな。女の子はスウィーツだろ」
「ほっとけー、別腹にお金を使う余裕はウチにはありません」
二人のやり取りを見ていたら、放課後までテスト勉強に費やそうとしていたのが馬鹿馬鹿しくなった。テストを鞄に入れ、大きく背伸びをしながら立ち上がる。
「そうだな、嫌なことなんて忘れてパーッと……」
「折角覚えたんだから忘れんなよ、英語」
「お前、今日陸上部は?」
「テスト期間中。明日から再開だ」
準貴は陸上部に所属している。今年は北部大会で200m七位という結果を残し、県大会で走った。ちなみに俺とさくらは帰宅部である。
「そっか。――そうだ、もう一人誘ってもいいかな?」
教室を見渡して、ある生徒の姿を探しながら尋ねる。
「別にいいけど、……誰?」
さくらが視線の先を追おうとしている。
一番前の席に座っていた、眼帯を右に付けた少女が席を立った。それを追うように、彼女の二個後ろの席にいた、髪を後ろで縛りパイナップルみたいな頭をした少女も席を立つ。
「あっ、氷室! ちょっといいかな?」
後者が教室を出る前に声をかける。氷室と呼ばれたパイナップル頭の少女が振り返った。
よれたブラウスの裾をチェック柄のスカートから出して着ている。だらしない格好なのだろうが、質素で長身の彼女にはそれがよく似合っている。
氷室涼子は俺の顔と後ろにいる二人を確認して首をかしげた。
「この後、お茶でも一緒にどうかなーと思って」
ナンパにでも誘うような文句だが、別段照れたりすることもなく言えた。それを聞いて涼子と、何故かさくらも驚いた顔をしている。
「……折角だけど、ごめん。先約があるから」
涼子は再び三人を交互に見てから、教室を出ようと歩き始めた。
「そっか、残念。――じゃあな。また明日」
「じゃ」
軽く教室側の手で会釈して歩き去っていった。
「見事にフラグ折れたな」
準貴が彼女がいなくなったのを見計らって口を開く。
「フラグ?」
一応尋ねるが、天井を見上げている準貴に説明する気は無いようだ。
「……なんで、氷室さん?」
さくらが両手を胸元にあてて、真剣な顔で尋ねてくる。
「こういうとき友人は黙ってスルーするもんだぜ?」
別段言い辛いことでもないので答えようとしたが、準貴にそれを止められた。
「ムー」
彼女はいつもの顔に戻り、頬を膨らましている。
「別に深い意味はないよ。時間とらせて悪かったな、行こう」
「悪いと思うならコレで示して、コレで」
さくらが¥のマークを指で作って強調している。
「真央、また明日」
「うん……」
準貴は、帰る準備をしていた大人しそうな少女に話しかけていた。こちらに戻ってきた彼に向かって小さな声で話す。
「俺達のことなら気にしなくていいから、たまにはデート行ってこいよ」
「いや……」
「上手くいってないのか?」
「俺の話はいいんだよ、何食べてくんだ?」
準貴の恋仲のことは気になるが、本人がいいと言っているのだからこれ以上聞き様がない。教室を出た彼に俺達も続いた。
面沢町の北東、踏鞴坂市は大まかに五つに分かれる。たたら中央はローカル線のターミナルで、ビル街がある踏鞴坂の一等地である。あとはたたら東、たたら西、たたら南、たたら北が名前の通りに位置する。面沢町唯一の駅、面沢高校前から北に向かうと、順に南たたら駅、中央たたら駅、北たたら駅であり、東たたら駅と西たたら駅、踏鞴坂の西に位置する手形駅に向かうには中央たたら駅で乗り換える必要がある。
三人組は南たたら駅前の牛丼屋に寄り道をしていた。ここから十分ほど歩いたところに俺達が住んでいるマンションがあるため、ちょくちょくこの牛丼屋にはお世話になっている。
カウンター席に座り、先ほどのことをネタに俺と準貴は定食、さくらは豚丼をがっついていた。
「お前の恋路、応援してやろうか?」
「だーかーらー、そんなんじゃなくて……」
「冗談だ」
多分準貴は恋愛感情で動いていないことを分かっているが、それでもからかわずにはいられないらしい。対して先ほどから会話も少なく、黙々と食べているさくらが箸を止めて呟いた。
「あたしと祐太と準貴だけで十分だよ。今までもそうだったし、これからもさ……」
彼女の視線が丼に移る。箸を止めたわけではなく、もう空になっただけのようだ。所在無く氷水をすすり始める。
先程話す機会を失ってしまった、自分の思いを語ることにした。
「あいつ、転校してきてからずっと一人でいるだろ」
あいつとは氷室涼子のこと。六月に、踏鞴坂よりかなり北に位置する紅宮という所から突然転校してきた。当初は珍しい転入生にクラスも華やいでいたが、眼帯の少女、美琴にしか反応を示さない転入生はやがて誰にも相手をされなくなった。
「そっか。すっかり忘れてたけど、お前も転校してきたんだったな」
俺が都心からここに引っ越して来たのは七歳の時のことである。
「こっちに来て、友達も作れないで孤独で寂しい思いをしていたけど、準貴とさくらと知り合えて本当に助かった。今も世話になりっぱなしだな……」
同じマンションにいた準貴とさくらと出会ってから、俺達はずっと一緒に過ごしてきた。
「だからあいつを放っておけない、と」
準貴も定食を食べ終わり、体をこちらに向けてくる。
「自分のことも課題だらけなのに、他人に世話焼きすぎだよ……」
さくらがそう言って、けんちん汁をすする。おいおい、何気なく飲んでいるが、それは俺の定食のセットだろう。
「……そこがいいんだけどね」
そっと呟かれた言葉は、小さくてよく聞き取れなかった。
「氷室、いつも榊にくっついてるよな」
榊とは眼帯の少女、榊美琴のことである。理由は誰にも話さないが、二年になって早々に眼帯をつけ始めた。
「くっついてるだけで、榊さんには煙たがれてるみたいだけどね……」
「ユリの花びらを背景にする人?」
準貴が尋ねてくるが、彼女のことをあまり知らないのだから答えようがない。
「さぁ……?」
「祐太、豚丼大盛り」
さくらが汁椀を定食のお盆にもどしながら要求してくる。
「……さっき食ってただろ?」
「情報提供料」
「年頃の女の子が二杯目の豚丼大盛りって……」
「あたしは骨と皮の塊より肉の塊を選ぶから」
「分かったよ、豚丼大盛り!」
まぁ、さくらが育ち盛りなのは今に始まったことではない。その摂取量の割りに痩せて見えるのは、並大抵の努力ではない苦労の上に成り立っているらしい。今以上機嫌を悪くされるのも都合が悪いので、あまり余計なことは口に出さないでおくが。
店員が店の奥で元気よく注文を繰り返した。
「氷室さん、高校剣道ではその道で知らない人がいないくらい有名だったらしいよ」
「聞いた聞いた。関東大会の個人戦で3本の指に入ってたってな」
準貴がつまらなそうに肯定する。
「だった……?」
「転校してくる時に辞めちゃったんだって」
「もったいねぇよな。俺なんて県大会出場して赤飯炊いてたのによ」
彼は県大会には出たものの、予選落ちという結果に終わってしまった。
「なんで辞めちゃったんだ?」
思わず身を乗り出してさくらに尋ねる。向き合っていた二人の顔が接近する。
「さぁ? あの通りニヒルを決め込んでるからねぇ」
さくらが頬を染めながらそっぽを向いて答える。その視線の先で、お盆にのった丼が運ばれてくるのを見つけ、目を輝かせていた。豚丼大盛りがさくらの前に置かれる。
「いただきます」
食べ始めたさくらには、もう何を聞いても無駄だろう。
「で、まだ世話焼くつもりか?」
準貴が真剣な顔になって尋ねてくる。
「あぁ……。お前らにも、手伝ってもらえると助かる」
「そりゃ、当然手伝うけど……。迷惑そうならすぐに手を引くことだな」
「助言感謝するよ」
放課後のやり取りを思い出す。涼子は本当に用事があったのだろうか。やんわりと断られた気がする。
前途多難。準貴の協力を得られたとはいえ、彼女が素直に手伝わせてくれるとは思えなかった。