0601:六日目(A)
彼と初めて出会ったのは、小学2年生の時。今でも細かいところまで思い出せる。
getConnection( 17, 常盤さくら)
私は母親に連れられマンションの階段を下っていた。
今日はスーパーで、タイムセールの初陣を果たす予定である。戦場に赴く母の背中を幾度となく固唾を呑んで見守ってきたが、とうとう彼女の許可が下りた。
一階の廊下にはダンボールが積み上げられていた。
「あのう、すみません。ここのマンションの住人の方でしょうか?」
ダンボールの側にいた三十代くらいの女性が声をかけてくる。
「そうですが、どうかなさいましたか?」
母が応対した。
「今日ここに引っ越してきたのですが、大家さんの部屋を教えていただけないでしょうか?」
「でしたら、そこの101号室ですよ。お一人ですか?」
一人分にしては多すぎるダンボールの山を見上げる。
「ありがとうございます。主人と……、ほら、出てきなさい」
女性はダンボールに――いや、ダンボールの山の中でうずくまっていた少年に声をかけた。
「……こんにちは」
ぽっちゃりしている茶髪の少年が立ち上がり、挨拶してくる。
「はい、こんにちは」
「こんにちは……」
母が背中を優しく叩いて促すので、私も挨拶を返した。
「君は小学生かな?」
「うん、二年生」
母の質問に、爽やかな笑顔を浮かべて答える。
「あたしと同じ……」
思わず声を出してしまった。私達と同じ学校に通うことになるのだろうか。
「そうなんだ。オレ斉藤祐太、よろしくな」
「常盤さくら。よろしく」
「……さくらって、あの春に咲くピンク色の桜?」
祐太が両手を目一杯に広げて、大きな木らしきものをジェスチャーしている。
「うん!」
上機嫌で頷く。家族と同じく花から付けられた自慢の名前だ。
「祐太、お母さん大家さんのところに行ってくるから、ここで大人しくしてるのよ?」
「分かった」
祐太の母親は会釈して、101号室があるマンションの入り口の方に向かっていった。
「お母さん一人で買い物行ってくるから、祐太君とお喋りしてなさい」
母がさらりと言って、私を残して去ろうとする。
目の前では、少年が照れ臭そうに苦笑いしている。なんだこの空気は。――無理。気恥ずかしい。私には耐えられそうにない。
「待って、あたしも行く!」
祐太に背を向け、彼女の後を走って追いかけた。
「もう、この子ったら……。祐太君、一人で大丈夫?」
「大丈夫、オレ強いもん」
言葉とは裏腹に、微かに憂いを帯びた目を見せられた気がした。
買い物から帰ってきたとき、廊下にはダンボールの山も祐太の姿も無かった。
たたら南小学校は私と準貴、妹のえりかが通う、田舎らしい緩い感じの学校である。
「聞いたか、さくら。転校生が来るらしいぜ」
お手洗いから戻ってきた準貴が、とても興奮した様子で言った。
「ふーん、嬉しそうだね。鼻の下伸びてるよ」
「フヒヒ。職員室を見に行ったやつの話によると、とびっきり可愛い女の子だったらしいんだ」
「へー」
「食パンくわえて町走ろうかな〜」
準貴はさらに鼻の下を伸ばして、妄想に入り浸っている。
転校生、か。昨日のぽっちゃりした少年も、うちの学校に転校してきたのだろうか。別れ際に見た寂しげな表情を思い出して、胸の奥がチクリと痛んだ。
「おはよう! はい、みんな席についてー」
若い女性の担任が、元気よく教室に入ってくる。あちこちで騒いでいた生徒達が急いで自分の席に戻った。
「もうみんな知ってると思うけど、転校生を紹介します。――祐太君、入ってきてー」
わさわさと動く両手指で前のドアが指される。その動きは三十路前、独身の行動としてどうかと思うが、ちょっとキモかわいい。
引き戸を開けて、可愛い女の子――ではなく、昨日の少年が入ってきた。
「女の……子……か?」
隣の席では準貴が顔を傾け目を細めて、なんとかして女の子に見えるように頑張っている。
生徒達は事前情報と違うことに戸惑い沈黙していたが、すぐに気を取り直して大騒ぎを始めた。
「どこから来たのー?」
「好きな食べ物は?」
「はいはい、質問は後でね。祐太君、自己紹介してもらってもいいかな?」
担任が声を張り上げ、嵐のように次々寄せられる質問を止める。
「うん。斉藤祐太です。東京の中野区というところから、お父さんの仕事の関係で引っ越してきました。好きな食べ物はマグロです。鉄火巻きとか大好きです」
祐太は緊張した様子も無く、きびきびと自己紹介している。
「都会だー!」
「すげー!」
生徒達の大半はしょうもないことに、都会に幻想を抱いてしまっている。教室が沸いた。
その後の休み時間、彼は生徒達に質問責めにされ、もみくちゃにされていた。
「あの子、うちのマンションに引っ越してきたんだよ」
机に突っ伏している準貴に話しかける。
「……そうなのか。よく知ってんな」
「昨日見たから」
私達はクラスメイトに囲まれている祐太の姿を、離れた席から冷めた気持ちで眺めていた。微笑んで質問に答えている人気者を見て、少し妬けた。
祐太が引っ越してきてから一週間が経った。
私はあれから一度も彼と喋っていない。別に嫌いだったわけではない。ただ機会が無かっただけ。
「お腹減ったぁ〜」
夕焼けでオレンジ色に染まっている廊下を歩く。授業中にお喋りしていたせいで、放課後準貴と共に居残り掃除をさせられていた。
家ではもう、夕飯の準備が始まってしまっただろうか? 料理は苦手だが、母の手伝いをするのは好きだ。
さよならの号令からだいぶ時間が経っており、誰もいないはずの教室に入った。蛍光灯は消えていて、教室の中もオレンジ色に染まっている。
ふと視界に、一人端っこの席に座っている祐太の姿を捉えた。
クラスの中には既にグループができてしまっていて、途中から入ることは困難である。いつも休み時間に話しかけている生徒達は、今日も彼を一人教室に残し、各々の友人と一緒に帰ってしまっていた。――興味の的にだけして放る。無責任なものだ。
彼は無表情で机に頬杖をついていた。
またあの目だ。光を感じさせず、憂いを帯びているように見える目。子供ながらに、あの気丈な振る舞いはフリで、本当は必死に孤独に耐えているのだと気付いた。
「斉藤君……」
気付けば彼の机の前まで足を運び、声をかけていた。
「さくらちゃん……」
窓の外を眺めていた祐太が、夕焼け色と影で強調された驚いた顔を向けてきた。あれから会話した記憶はないのだが、私の名前を覚えてくれていた。
「こいつは準貴」
ビシッと準貴を親指で指す。彼もいつの間にか机の横に立っていた。
「中曽根準貴だ。よろしくな、祐太」
さすが準貴。私の考えていたことを分かってくれたようだ。
「え? よろしく……」
祐太はまだ理解できていないようだ。都会人のくせに、挨拶の時はあんなにはきはきしていたくせに、とてもどんくさい奴。
「帰ろ。あたし達が友達じゃ不満?」
いじわるに彼の顔色を伺いつつ尋ねる。
「そんなことない!」
祐太が席から立ち上がり、顔を崩して笑った。そういう自然な表情もできるんじゃないか。
「お前、何のアニメが好き?」
準貴が肩を組んで尋ねている。
「こら、いきなり趣味全開の話しないでよ。――あたしいくらが好きなんだ。寿司行こうよ、寿司。もちろん男二人のおごりで」
「お前こそ趣味全開じゃねぇか」
「ありがとう――」
祐太が目に涙を浮かべて呟く。ようやく心のもやもやが取れた気がした。
――あれから私達三人はいつも一緒だった。
End
準貴は校庭のトラックを駆け回っていた。
今日は土曜で授業が無く、午前中は部活だ。アップステアーズは十時からだが、前半はログインできそうにない。
スパイクでゴールの白線を踏む。繰り返されるインターバルで、かなり息が荒くなっている。
減速しながら後ろを振り向くと、丁度大樹もゴールしたところだった。彼も午前中は部活に精を出すつもりらしい。
ジョグでトラックを周回していると、隣に大樹が走り寄ってきた。
「ハァ、――今日は十時からスタートだぞ」
珍しくあちらから話しかけてきたと思ったら、アップステアーズの話か。
「知ってる。ハァ、練習終わったらログインするつもりだ」
「ふん、お前のことだから――ハァ、サボるかと思ったんだがな」
「俺はいつも練習に出ているぞ?」
「……どうだかな」
言いたいだけ言って、俺を抜かしていく。相変わらず邪険にされているようだ。
「次、ラストだぞ!!」
既に次のインターバルの準備をしていたパートリーダーが大きな声を出した。大樹の後を追ってスタート地点に向かった。
「いきます。よーい、ドン」
俺と同じ学年であるマネージャーが手を打ち鳴らす。スタンディングスタートから地面を蹴って、一斉に加速していく生徒達。
インターバルの五本のうち、最後の200m。息は苦しいし、脚は上がらないが、今こそ気合を入れなければ。
最初の直線で大樹が横に並んできた。顎を上げており、かなり苦しそうに見えるが、それだけに彼の頑張り具合もよく分かる。
内側からスタートした分、大樹が先にコーナーに入る。俺は彼を捉えたまま、少し大きめに回っていく。
足が重い。止まりたい。苦しい。手を抜きたい。湧き上がる負の感情を断ち切ってラストパートをかける。
ピッチは同じだが、長いストライドの分俺がだんだんと追い上げる。あと30m、20m、10m、もう視界にはゴールの白線しか映らない。
胸を突き出し、テープのないゴールに一番手で飛び込んだ。
よくクラスメイトに、何故走るのかと聞かれる。走るのが好きなのかと聞かれる。
その場はイエスと答えるが、ぶっちゃけ俺にもよく分からない。続けているからには好きだから続けているんだろう。
苦しい。痛い。疲れる。タイムが伸びない。押し潰されそうになって、辞めたくなることは度々ある。しかしそれを乗り越えたときにやってくる達成感。赤茶色のフィールドで走る、大会の爽快感。嫌だったこと全てを吹き飛ばしてくれる。
当たり前すぎる答えだと思うが、いい事も悪い事もそういうのを全部ひっくるめて好きなんじゃないだろうか。『生きるのは楽しいか?』、その問いによく似ている。
腰に手をあて、歩きながら息を整える。斜め後ろから、悔しそうな顔をした大樹が続いてきた。
「今の走り方、上手く力が抜けてて良かったな」
エールを送ったつもりで話しかける。
「ふん……」
しかし大樹は不機嫌そうにベンチに向かっていった。
非常にやり辛い。同じ部活で同じクラスの彼とは上手くやりたいのだが。
アップステアーズの仮想世界内、西部の廃墟群。ほとんどは壁だけしか残っていないが、その中でもなんとか原型を留めていた建物の中で、男女が瓦礫に腰掛けていた。
背中合わせに座っているのは、祐太と涼子。二人の間に言葉は無かった。
ログインしてすぐに、音声案内でさくらがPTを抜けたことを宣告された。
昨晩は二人に彼女のことを任されていたのに、慰めることも励ますこともできなかった。そして彼女は今朝早くに、俺を避けるようにして家に帰ってしまった。うっすら予想はしていた。
涼子はこちらを睨んだものの、何も言ってこなかった。そして無言のまま、こうして十分近く座っている。
「さくらさん、戻ってくるかな……?」
涼子がとうとう口を開いた。
「戻ってきてもらわないとな。涼子もさくらと仲良くなってくれたみたいじゃないか」
「友達以上、恋人未満っていう感じ」
軽口を叩いているが、空元気だろう。
「ねぇ、これは私見なんだけどさ――。さくらさんって、きっと斉藤のことを……」
涼子は途中で言葉を止め、堅く口を結んだ。
胸の奥が重くなる。どうやら涼子は勘付いていたようだ。彼女より長く一緒にいたはずなのに、知らないでいた自分が情けない。
もっと早く気付けていれば、事態も変わっていただろうか。
「――なんでもないわ。ちょっと剣振ってくる」
涼子が立ち上がった。
「前から思ってたんだけど、剣道の振り方じゃないよな?」
「まだ剣道をする気にはなれないから、型をするわけにはいかないわ」
彼女なりの自戒があるのだろう。
自身のこともまだ解決していないだろうに、さくらを気にかけてくれている。ここ数日で、ようやく彼女の本当の性格が見えてきた気がする。
「ちょっと相手してもらってもいいか?」
「手加減をするつもりはないから、それでも構わなければ。――首取っても文句言わないでね」
廃墟の部屋を後にした。
俺の選択がどう事態を転がすか、まだ分からない。賽は投げてしまった。こちらから出向くことになるその時まで、今はさくらを信じよう。
「おーい、仲間割れか?」
遠くから準貴の声がする。振り向くと、先程いた建物の窓枠から上体を出しているのが見えた。
もし仲間割れが起こっていたなら、俺はとっくにゲームオーバーになっている。それくらい涼子の身ごなしと能力のセンスは凄まじかった。
「準貴、さくらが――」
「あぁ、ログインした時に聞いた」
彼は平然としているように見える。
「そんな顔すんな、さくらはきっと戻ってくるからさ。――特訓か? 俺も混ぜてくれ」
「首取っても文句言わないでね」
涼子がテンプレートのように返答する。
「そういえば特訓するのって初めてだったっけ。もっと早いうちにやっておいた方が良かったかな」
氷の大剣を水に戻しながら言った。
「為にはなるね。能力の使い方のアイディアとかも考えてもらっていたし」
能力を十分に使いこなすには、どうしても物理や化学などの知識が必要になる。特訓をしながら、お互いの能力についての意見交換をしていた。
「そうか、なら俺も頼む」
言うが早いか、準貴が俺の後ろに回りこんで上段回し蹴りを放ってくる。氷の壁を凝結させて防いだ。
「そういえば、今日部活に行ったときに聞いたんだが……」
準貴が足を降ろし、真剣な顔をして口を開く。氷を昇華させて向き合った。
「蓮が昨日の夜、怪我をして入院したらしい」
「長谷川蓮が?」
涼子が真っ先に驚いた声を上げた。つい昨日戦っていたのだから無理もない。
「なんでまた」
「深夜に外を出歩いていたら、背中を切りつけられたとか」
「物騒だな……。大丈夫なのか?」
この辺りで傷害事件が起きたなんて聞いたのは初めてのことだ。
「怪我自体は浅いらしくて、すぐに退院できるようなことは言ってた」
「ゲームのことは関係あるの?」
涼子が自分の片腕を掴んで尋ねる。
「そこまでは分からないな」
「そう……」
俯いて呟く。暗くなった雰囲気を見るに見かねたのか、準貴が手を叩いた。
「この話終わり! 休みが明けたら、見舞いにでも行ってやれ!」
「分かった」
「こうなったら、今日はとことん戦るぞ」
「賛成――」
涼子が青い炎を纏った剣を構えた。俺も氷の大剣を凝結させて握る。
この時だけは、頭の中を空っぽにして廃墟群の中を走り回った。
もうすぐ土曜日のアップステアーズの終了時刻、二十一時になる。
三人は建物の中で休んでいた。祐太と準貴は向き合って瓦礫に腰掛け、涼子は斜めを向いて壁に寄りかかっている。
「氷室はすごいな……、息も上がってないし」
息も絶え絶えに言った。
「所詮ゲームだからね。現実なら、もうちょっと疲れるよ」
それでも『ちょっと』なのか。
「明日、何か予定あるか?」
準貴が俺と涼子を交互に見て尋ねてくる。
明日はアップステアーズが休みなので一日中時間が空いているが、別段どこかに行く予定はない。
「いや、特にないけど?」
「私も別に……」
「そうか、俺はデート行って来るからさ」
準貴の顔が緩む。順調そうでなによりだ。俺も顔が緩む。
「楽しんでらっしゃい」
涼子がひらひらと手を振った。
「さくらも誘って、三人でどこか行って来いよ」
「さくらは無理だと思うけどな……。分かった」
「そろそろ九時だね」
涼子が、手元に浮かぶ半透明の画面を見て言った。プレイヤーはいつでも、この端末を呼び出すことができる。
「あと十秒か。じゃあ準貴はまた来週」
「あぁ、惚気の土産話用意しとく」
「それは勘弁だな」
デジタル時計が『21:00:00』を表示した。
そして『21:00:01』――、決してここで見ることのないはずの時刻が刻まれる。
「な、なぁ……、九時過ぎたぞ」
真っ先に口を開いた。
「バグかな?」
涼子と準貴が端末をいじっている。
「自分でログアウトしろってことか」
準貴がログアウトと書かれたボタンを押す。しかし仮想世界はうんともすんとも言わない。
「なんで……?」
俺も同じようにログアウトを押してみたが駄目だった。
「――なんでか? プログラムを書き換えたからだよ」
壁の向こうから鼻にかかった声が聞こえ、俺達は急いで建物の外に飛び出した。
空を見上げて異常に気付いた。辺りの空間が前後左右、四面の半透明の黒い壁で覆われている。
黒の断崖の前、荒れた道路の上に男女が立っていた。
「薫……、大樹……」
準貴が二人の姿を確認してポツリと言った。
「どういうことだ、プログラムを書き換えたって――?」
先程の声の主である薫に尋ねる。
「そのまんまの意味なんだけどな。仮想世界って要はプログラムの集合体だから、ハックして書き換えれば世界を変えられるっていう」
薫が頭を掻いて話す。彼女は仮想世界でも寝癖をつけている。
「人の作品にあんまり手は加えたくなかったんだけど、大樹がどうしても邪魔のないところで準貴君と戦いたいって言うから」
それでログイン時間を変え、周囲を黒い壁で覆ったというのか。滅茶苦茶だ。
「じゃあ、二人は私がテキトーに相手しとくから」
薫が一歩分近づいてくる。
「ありがとう、恩に着る」
「滅多にない大樹のお願いだもん。それじゃ、斉藤君と……転校生の人、こっちにおいで」
滅多に学校に来ない彼女は涼子の名前を覚えていないらしい。
腰に掛けていた二丁のサブマシンガンの内の一丁を地面に向けて掃射してきた。
「くっ――!」
足元のアスファルトが砕けて跳ねる。俺と涼子はとっさに後方によけ、準貴は大樹の方に跳んだ。