0501:五日目(A)
かしましい朝の南たたら駅。ホームでは祐太と準貴が電車を待っていた。
マンションを出る前にさくらの家に寄ったが、また先に出たと言われた。寂しくも、こうして二人だけで登校するのにも慣れてきた気がする。
ところで、先程から準貴が落ち着かない様子で線路の向こう、電車が来る方向を眺めている。
駅に来る途中、彼が三両目に行っていいかと尋ねてきた。当然、了解の旨の返事をしたが、末尾である三両目に何があるのだろうかと疑問に思っていた。
ここに来て準貴のだらしない顔を見て、ようやく把握した。
「真央ちゃんと待ち合わせしてるのか?」
「あぁ」
正解。付き合っているのが嘘みたいに、たどたどしく接していて心配していたが、杞憂に終わってくれて良かった。頬が緩む。
「二人きりで行けばいいのに。俺のことは気にするなよ」
「真央が、友達も大切にするのが私達流の付き合い方だ、って言ってくれてるからな」
「へぇ、いい子じゃないか」
「手出したら、祐太でも承知しないぞ」
朝っぱらから随分な色ボケをかましてくれる。
「羨ましいなー」
「お前こそ、もっとよく周りを見れば二、三人は相手が見つかると思うんだが」
「そんな馬鹿な。告白されたことなんて一度もないぞ」
「だから鈍感って言われんだよ」
二、三人か。確かにそれに気づかないというのは鈍感かもしれない。自覚して余計に凹んだ。
「――来たな」
ブレーキの金属音を立てながら電車が到着する。皆は電車と呼ぶが、このディーゼルエンジンを積んだ車両にパンタグラフはついていない。エコに逆行するあたり、さすが田舎。バイオマスエネルギーとかいって廃油で動かそうなんて試みもしているようだが、まだまだ先の話になりそうだ。そんなことはどうでもいいんだ。準貴がイチャイチャする現場を押さえる為にも立ち直るんだ。
三両目の後ろのドア付近に、手形村の四人の姿があった。準貴を見つけ、真央が手を振っている。
「おはよう、真央」
「おはようございます、準貴君」
扉が開くや否や、二人があいさつを交わす。俺達が乗り込むと、すぐに電車がホームを出発した。
「かわいいな、その髪飾り」
「ありがとうございます。これお気に入りなんですよね」
横で準貴と真央が話している。とても居づらい雰囲気だったので、同じく退避している三人に合流することにした。
「おはよう」
「よう」
「おはよう」
巧と弘樹がニヤニヤしてカップルを眺めながらも、あいさつを返してくれた。
「朝っぱらからデカイ声出すんじゃないわよ……」
美月は飾らない方の顔でいた。ひょっとすると、一度オープンした人間に対してはこれで接するつもりなのだろうか。心のオアシスを失ったような喪失感を感じた。
「昨日何があったんだ?」
ニヤニヤ顔の二人に尋ねる。ログアウトの後、テレビ電話で尋ねたのだが、準貴ははぐらかして教えてくれなかった。
「何でもないさ、たいがいの恋人達がするイベントみたいなもんだ」
巧がどこか懐かしむように遠い目をして言う。
「へぇ。……巧って彼女いないよな?」
「ソオキイタ」
図星だったようで、片言言葉になっている。
「――柴犬で、名前はチョビっていうんです」
「へぇ、かわいい名前だな」
「ですよねー? 私が命名したんですが、カタクチイワシ科のあのアンチョビーから取りました」
「へ、へぇ、独創的な名前だな」
準貴と真央は、ニヤニヤして見守っている四人など目に入らないようで、面沢高校前に着くまで幸せそうに延々と話し続けていた。
「起立、礼」
いつものように聖がホームルームで挨拶の号令をかけて、続いて七海が出席を取る。担任は生徒に任せるだけ任せて自分の席でぐうたらしている。
「欠席は、伊勢君と谷口君と長谷川君と増田君の四名です」
「伊勢か、珍しいな。他はいつものことだが。――おい、誰か欠席の理由を聞いていないか?」
担任が教室を見回して尋ねているが、友達のいない彼のことだ、理由を知っている生徒はいないだろう。
「ん?」
何か違和感を感じたようで、首を傾げている。多分それはクラスメイト全員が不思議に思っているのと同様のことだろう。
「……橘の名前が足りなくないか?」
七海が伝えた苗字の中に、欠席の常連の名前が欠けている。
「ここにいまーっす」
クラスの丁度真ん中の席、俺の右の席で手が上がった。
「なんだ橘、病気か?」
「それ逆ですよ」
しわくちゃの制服を着て、寝癖をつけた少女が冷静にツッコミをいれる。
彼女は橘薫。パソコン通で、既に一端のプログラマーとして自宅で働いている。別に卒業できなくても構わないと言って、祭りや修学旅行など楽しそうな行事しか参加していない。実は準貴の悩みの種である佐藤大樹の彼女だったりする。
「そうか、真面目に学校に来る気になったんだな」
「それは地球が引っくり返っても無いです」
薫が即答する。担任はため息をついて教室を出て行った。入れ違うようにして、谷口以下二名が登校してくる。
「隼人さん、たたら北の後輩が隼人さんの力を借りたいと言ってますが」
隼人の弟分の一人、長谷川蓮が進言する。
「そうか。可愛い後輩のためだ、一肌脱いでやろうじゃないか」
谷口隼人は中学時代には智和と共にたたらの頭を務めていた不良で、未だにチンピラを気取っている。
「さすが兄貴は頼りになる!」
同じく弟分の増田孝大がヨイショしている。
「当たり前だ、仮想世界だろうが現実世界だろうが俺が最強だからな」
「――隼人、あんた今日ユグドラシルの集会があるでしょう?」
横から綾音が口を挟む。隼人に口を出せるのは、このクラスでも彼女を含むほんの一握りの生徒だけだ。
「あぁ、そうだったか。なら午前中に終わらせてくる。お前らついて来い」
「ハイ、隼人さん!」
「ハイ、兄貴!」
高卒で仕事につく予定だという彼らは、勉強をする気がさらさら無いらしい。授業を放棄して再び教室の外へと出ていった。
四時間目の英語の授業が終わった。担任がプリントを回収して教室を退出していった。
「終わった……」
両手を投げ出して机に伏せる。辞書を駆使して、なんとか半分埋めることが出来た。
「お疲れ様」
後ろからさくらが話しかけてくる。
「本当にお疲れしたよ。全部言語を統一してくれれば、こんなに苦労することもないのに……」
自分の不甲斐なさを、せめて外国語にぶつける。
「そんな逸話があったね、バベルの塔の。でも、そんなこと言っちゃダメだよ。どんな言葉でも、その国の歴史と文化が詰まっているんだから」
「ふーん。俺には歴史も文化も見えないけどな……」
辞書のページをめくるが、相変わらず眠くなる記号の羅列にしか見えない。
「祐太は目に映るものにしか興味なさそうだしねぇ……」
「そんなことないぞ。――えぇと、あれだ。愛とかいいなぁ、とか今朝思った」
準貴と真央の幸せそうな顔を見た時だ。さくらに意外そうな顔をされた。
「――例えば、『あなたを愛している』が、英語で『牛丼大好き』っていう発音だったとしよう」
目を閉じたさくらが偉そうに人差し指を立てて言った。
「変なの」
例えに彼女らしさが滲み出ている。
「もしも女の子が祐太に、愛しているって英語で言ってきたらどうなる?」
「牛丼大好き、と言われる」
頭の中で、顔のぼやけた女の子が俺に牛丼大好き、と言ってきた。台詞のせいか、赤茶色の頭の少女は、どことなくさくらに似ている気がする。
「それで?」
駅前の牛丼屋に入っていく二人の姿が浮かぶ。
「多分、牛丼屋に連れてくな……」
「そう、それよ! 言いたかったのは」
さくらが突然大きな声を出す。
「祐太が英語を知っていれば、二人は結ばれていたかもしれない。だけど祐太が英語を知らなかったばっかりに、二人は牛丼屋に行ってしまった……」
カウンター席で牛丼をがっつく二人の姿が浮かんだ。どこかで見たことのある図なのは気のせいだろうか。
「ヤバイな、それは。英語を勉強する気がおきた」
「それは良かった。間違ってもテストに牛丼大好きとか書かないようにね」
「――でもさ」
「ん?」
「二人の心が通じ合ってたら、多分それでも伝わると思う」
なんとなく思ったことを口にした。
「――そうだといいね」
さくらが俯いて苦々しく笑う。
「さぁ、昼飯食べに行くぞ!」
横から準貴が元気に話しかけてきた。あのクールだった彼をこんな風に変えるとは、愛というものは恐ろしいものだと思った。
――食べに、行く? いつものように教室で食べるのではないらしい。
「ごめん、あたし先客あったから……」
さくらが鞄を掴んで、慌しく教室を出て行った。
「お前は来るだろ?」
「来るって、どこに?」
準貴はどこかの機関の宇宙人っぽいマスコットキャラクターみたいに、親指を天井に向けた。
九月も終わった今の時期、曇り空の下の屋上は学生服だけでは寒いくらいだった。俺達は冷たい風から逃げるように、壁際の隅っこで円を作って座っている。
「うぉぉ、寒っ!」
美月が腕を組み肩をすくめて声を荒げる。
「――弘樹、あんたの上着貸しなさいよ」
「すまん、この下は色Tでな」
弘樹が学生服の襟をめくる。
「――巧ぃ」
「上半身裸になるぞ」
巧がYシャツの襟をめくる。見ているこちらが寒くなる格好だが、本人は平然としている。
「で、なんで屋上くんだりに来て、こんな大所帯で飯食べてるんだ?」
俺の右隣に座っている準貴に尋ねた。
「彼女と友達を優先した結果、こうなった」
「頭いいです、準貴君」
その隣に座っている真央が拍手をする。
「手形村の四人は分かる」
左側に座っている、サンドイッチを頬張った生徒を見た。
「なんか顔に付いてる?」
陽菜が口の中のものを呑み込み、悪びれずに尋ねてくる。
「俺の頭の上に、ハテナマークが付いてる」
「すみません、姉さんがついて行くと言って聞かないので……」
彼女の隣に座り、同じくサンドイッチのタッパーを前に置いている奈菜が言う。がさつな姉に、具をパンで挟むなどという器用なことが出来る筈がない。妹の作ったものだろう。
「別にいいじゃない、人数多い方が華やかだし。あんまり細かいこと気にしてるとすぐにハゲるよ」
声を発したのは、長年そこにいたかのような雰囲気を醸し出して奈菜の隣に座っている涼子。こんなに人付き合いのいい奴だったとは知らなかった。
「ひょっとして、もうやばかったりしてー」
「うわ、やめろ、お前!」
陽菜がサンドイッチでベタベタになった手で頭を触ろうとしてくる。
「大した髪型してないんだから、大人しく触らせなよ」
「そういう問題じゃない。手が、手がなぁー!」
「……仲いいわよね、あんた達。付き合っちゃえば?」
弁当をついばみながら見守っていた美月が、五月蝿いとでも言いたげに口を開いた。
「なっ?!」
「はぁ?!」
素っとん狂な声を同時に上げて、急いで距離をあける。
「なんでこんな馬鹿と付き合わなくちゃ……!」
「それはこっちの台詞だ。これはスキンシップみたいなもので――」
「はぁ? 暴力よ、ドメスティックバイオレンスよ、DVDよ!」
陽菜と言い争う。美月は慌てふためく俺達を冷ややかに眺めていたが、いつぞやのように口角を上げた。マズイ、燃料を投下してしまったようだ。
「氷室さんともいい感じだったじゃない? もしかして、もう付き合ってたりするの?」
焼きそばパンをくわえていた涼子の肩がピクリと反応した。何故か巧も身を乗り出している。
「いや、付き合ってないぞ。――なぁ、氷室?」
早々に終結させるべく、ゆっくりと咀嚼している彼女に同意を求める。しかし今度は涼子の口角が上がった。――参った。敵は仲間内にもいたということか。
涼子は言葉を発せず、パンを次々口に詰め込んでいる。
「ほら、彼女は否定しないじゃない」
美月が心底楽しげに笑っている。小悪魔というよりも、もはや魔王の貫禄。
「本当なの、斉藤?」
横から陽菜が身を乗り出してくる。慌ててベトベトの手をかわした。
「頼む、氷室。何か言ってくれ」
「――今は付き合ってないわ」
口に入っていたものを呑み込んでから、ようやく彼女が言葉を発した。
「ほら、みろ!」
勝ち誇って叫ぶ。――何か、余計な一言が付け加えられていた気がする。いや、何か言ってくれたのは嬉しいのだが、わざわざそんな見えやすいところに餌を吊るさなくても……。
「今は?」
案の定喰い付いた美月が、目を輝かせて身を乗り出す。気づけば準貴も真央も会話を止めており、この場の全員が聞いているようだった。
「それってどういう意味だ?」
巧が尋ねてきたが、むしろ俺が聞きたい。
「トリップ中に告白されたらオーケー出すかも……」
涼子は言い終えるが早いか、再びパンを詰め込み始めた。
「おぉー」
生徒達の中から驚嘆の声が上がる。
トリップ中とは、薬の使用でハイになっている時ということだろうか。彼女らしくはあるが、よく分からない表現をしてくれる。
「そもそも告白なんてしないから!」
「えぇー」
生徒達の中から、今度は不満の声が上がる。どうやら場の空気を悪くしてしまったようだ。
涼子は満足げに二つ目の焼きそばパンを食べていた。
「じゃあ誰? ひょっとして、あんたロリコンとか人妻好きとか特殊な人間じゃ……」
美月から汚いものを見るような目が向けられる。俺は準貴が僅かに反応したのを見逃さなかった。
「違うから!」
必死に否定する。美月はそれ以上追求せず熟考し始めた。周りを見回すが、他の生徒達も何やら考え込んでいるようだった。
「こいつ、さくらちゃんじゃないのか?」
口を挟んだ弘樹が発したのは、俺にとって予想外の人物名だった。
「……さくら?」
「呆けた顔してるじゃない。これはシロねぇー」
「うぅむ、そうか。自信があったんだが……」
生徒達が昼飯を再開する。
「そうなってくれれば、お似合いのカップルになると思うんだけどな」
準貴まで何を言い出すのか。
言われてみれば、さくらに対してそういった感情を抱いたことはまったく無かったと思う。盲点のように選択肢から外れていたのだ。
俺は昼休みが終わるまで、弁当を食べながら考えにふけることとなった。
放課後になるやいなや、さくらが慌しく帰る準備を始めた。その様子を見ていた準貴が、机に両手をついて話しかける。
「なぁ、今日祐太か俺の家行かないか?」
先日の家を回るツアーの続きだろう。聞かれているのはさくらだが、参加の意思だけ伝えておく。
「あぁ、行くよ」
「あたしは――、ごめん、用事があるから……」
さくらが俯いて答えた。しかし言葉と裏腹にすぐに去ろうとはしない。
「最近付き合い悪いぞ」
準貴も今回は大人しく退かず、しつこく話しかけていた。さくらは俯いたまま、膝の上で固く手を握り締めている。
「何悩んでるんだか知らないけどな、俺達はいつでもお前の味方だぜ?」
「そうだぞ、何か美味いもんおごってやるから元気出せ」
「二人とも……」
ようやくさくらが反応した。
「俺もよろしくな」
ちゃっかり便乗しようとする準貴。
「お前は真央ちゃんにクッキーでも作ってもらえ」
「それいいな」
「……お寿司食べたい」
顔を上げたさくらは、いつもの明るい彼女に戻っていた。
「回る方でいいんだよな?」
「舎利に魚が載ってれば勘弁してあげるよ」
さくらと準貴が自分の手の届かないところに行ってしまう。あの予感はただの思い過ごしだったようだ。二人から分からないように、ほっと胸を撫で下ろした。
「氷室さんも呼ぼう?」
意外にもさくらの口から涼子の名前が出る。
「――そうだな」
「斉藤の驕り? だったらご一緒させてもらうわ」
彼女の姿を探そうとする前に声が聞こえた。いつの間にか俺のすぐ後ろに立っている。
「美琴はどうした?」
「先に帰ったわ。あんた達と絡むように言ってからね」
昨日のファーストフード店での会話が思い出される。
「どっちの家にする?」
準貴が俺達に尋ねてきた。
「準貴の部屋は――なぁ……」
「準貴の部屋は――ねぇ……」
俺とさくらが言いよどんだ。
「俺の部屋は、なんだよ?」
「……レディが入れるような空間じゃないんだよね。なんていうか、押入れからラルヴァが出て来そうで」
以前見た時は、アニメやらゲームやらの女性キャラクターのポスターやフィギュアが所狭しと並んでいた。入った瞬間、あのさくらが唖然として持っていたアイスを落としたほどだ。
「そうか、レディにはきついのか……」
準貴がひどく凹んでいる。おそらく真央を部屋に呼ぶことが躊躇われたのだろう。
「祐太の家久しぶりだなー」
上機嫌で勝手に話を進めるさくら。
「うち来ても何もないぞ。さくらのお母さんほど、うちの料理美味しくないし」
「往生際が悪いよ」
「ちゃんと机の奥に隠してきた? ゴミ箱の中身片した?」
涼子が意地悪そうに尋ねてくる。
「鎌かけても何もかからないからな。――分かったよ、つまらなくても文句言うなよ」
「はーい」
「あぁ」
「分かった」
三人がバラバラに返事をする。
「じゃあ、部活行くから後でな。予定が変わったら電話くれ」
準貴が鞄を掴んで言った。
「え、回転寿司来ないのか?」
「この二人の面倒を見るのは大変だと思うが――」
綺麗な歯を見せ、不適な笑みを浮かべる。
「――がんばれ祐太……、おまえがナンバー1だ!!」
回転寿司はたたら中央のデパート内の一角にある。休みになれば家族連れで混みあうが、平日でまだ飯時には早いこの時間帯、人はあまりいなかった。三人はさくらを中心にしてカウンター席で座っていた。
セルフサービスのお茶にお湯を入れて二人に回してやる。
「祐太、上流ズルイ」
さくらが茶碗を受け取りながら、皿の流れてくる方向を指差す。
「言ってくれれば残しておくから」
「うん」
返事をしながら、丁度流れてきたウニとカニの皿に両腕を伸ばしている。予想はしていたが、全皿百円で助かった。
俺はマグロの握りに醤油をかけながら、昼飯の時の話を思い出していた。もしもさくらが恋人だったら、どんなふうに過ごしているのだろう。
次々に皿を溜め込んでいくさくら。――きっと今と何も変わらないだろうな。そんなことを思って苦笑いした。準貴のようにデレデレするのもいいが、そういう恋愛も悪くないのかもしれない。
涼子の机を覗くが、お茶しか載っておらず、まだ一皿もなかった。
「氷室も遠慮しないで食べろよ」
「ありがとう。――といっても、もともと小食だから」
偶然目の前に回ってきた、かっぱ巻きに手を伸ばしている。
「だよねぇ、氷室さんこんなにスマートだしねぇ……」
さくらが自分の胴回りと見比べている。
「さくらさんこそ、それだけ食べて太らないというのは凄いと思うわ」
涼子はさくらの胴回りと積み上げられた皿を見比べている。それは彼女の本音なのだろうが、禁止ワードが所々に混ざっている。
「は、はは――、食べて太らない人間なんて! 人間なんて!」
腐りつつも、寿司を取る速さは変わらない。
「ほらさくら、お前の好きないくらが回ってきたぞ」
「ほっへ!」
口一杯に舎利を詰めて、恐らくは「取って」と言った。
「――斉藤って、さくらさんのことならなんでも分かるのね」
「そうやってまた、人聞きの悪い事を……」
「そういう関係って羨ましいわ。あっちの高校でも親友と呼べるような友達はいなかったから……」
涼子が俯く。彼女は美琴のことを親友と思っていないのだろうか?
「美琴と仲いいじゃないか」
「そんなこと言ったら美琴が嫌がるわ」
以前のやり取りを見る限り、彼女もあまり自分の感情を涼子に見せていないのだろう。
「祐太、祐太の好きな鉄火巻き取っておいたよ。褒めて褒めて」
いつの間にか机に鉄火巻きの皿が置かれていた。四個入りのはずが三個になっているが。
「偉いぞ。支払いは俺の金だけどな」
「……ねぇ、今日祐太の家泊まってもいい?」
さくらが箸を置いて、脈絡無く尋ねてきた。
「なんだよ、急に」
昔は幾度となく三人でお泊まり会をしていたが、それは俺達が子供だったから、更に言えばさくらを意識したことが無かったからで、本当はマズイことではないのか。
「ダメだ、精神衛生上よろしくない」
「何を今さら。準貴も一緒だから、ね?」
さくらが両手を合わせる。頬に米粒をつけていて判断に困るが、真剣な顔をしているように見える。――頷かざるを得なかった。
「まだ準貴に話してないだろ」
「きっと二つ返事でオーケーしてくれるよ」
俺もそう思う。
「氷室さんもどう?」
「お前なぁ……」
さくらが涼子に尋ねているが、それは幼馴染だから通用する話だ。先日知り合ったような友人にそれを聞くのか。
「斉藤の部屋に泊まるの?」
「うん、みんなで雑魚寝で川の字になって」
「それは――、ちょっと。今回は遠慮させてもらうわ。うぷ、鼻血出そう」
それが当然の反応だ。……今回は?
「よーし、腹ごなし済んだし、食べるか」
さくらにとって今のやり取りは腹ごなしだったらしい。
その後、さくらと涼子が女の子らしい会話をしているのを微笑ましく見ていた。馬が合うらしく、二人は十年来の友人のように盛り上がっていた。
「「「おじゃましまーす」」」
「いらっしゃい」
「汚いところだけど、ゆっくりしていってね」
俺の家に来た三人を母親と迎える。父親は今日は遅くなるとのことだった。
「まぁ、さくらちゃん、しばらく見ない間に綺麗になって……」
「ありがとう、おばさんもお変わりなく」
「準貴君、いつも馬鹿息子を迎えにきてもらってありがとうね」
「通学路上ですから」
毎度恒例のあいさつを交わしている。
「それと……、祐太?」
母親が助け舟を求めてきた。
「氷室涼子さん。高校の同級生」
「初めまして、氷室です。祐太君には日頃からお世話になっています」
「まぁ、ご丁寧にありがとうございます。私は祐太の母です」
祐太君などと、普段逆さまになっても言わないようなことを平然と口にする涼子。一体何を企んでいるのだろうかと心配になる。
「玄関で話すのもなんだし、早く中に上がれよ」
「はーい。久しぶりだなぁ……」
勝手知ったるさくらは、靴を脱ぎ捨てて真っ直ぐに俺の部屋へ向かっていった。
「中のもん触るなよ?」
「うん」
なんとか狭い廊下に二人を入れ、リビングへと向かう。大きな木のテーブルの上には、大皿によそわれたご馳走が色とりどりに並んでいる。
「おぉーっ」
準貴が思わず声を上げた。
「祐太が美味しいもの作れって五月蝿かったから、つい作りすぎちゃってねぇ。さ、冷めないうちに食べましょう」
「おーい、さくら、飯だぞ」
いつもなら真っ先に反応するのに、何をしているのだろう。
「ねぇ涼子ちゃん、机の奥もゴミ箱も何も無いんだけど……」
扉の向こうの俺の部屋からさくらの声がする。いつの間にか彼女が涼子を名前で呼ぶようになっていた。――いや、問題はそこではない。
「お前、あれだけ勝手に触るなと!」
「じゃあベッドの下か、引き出しの裏は……」
涼子が扉の向こうに話しかけている。元凶はこいつか。
「お前もくだらない知識をさくらに植え付けるな!」
頭についた尻尾を引っ張ってさくらを摘み出す。危機一髪といったところか。陸から借りっぱなしだったアレをベッドの下に隠したままだった。
ささやかな夕食が始まる。