0404:四日目(D)
赤土の地面にたくさんの正円の形をした穴が開いている。どこか生理的嫌悪を催す蓮の実のようだ。残った地面の上で、祐太は片膝をついて荒い呼吸をしていた。
「ほら、少しは反撃してくれないとつまらないじゃない!」
美月が空で心底楽しそうな声を上げ、翼を広げたまま滑るように降下してくる。すぐさま大きな円形の盾を凝結させ、両手で持って真上に構えた。掬うように振られた鉤爪が氷の表面を削り取る。次いで掴もうとしてくる趾を盾で弾いて防ぐ。
両足の攻撃に堪えたところで、盾を溶かして氷の弾に換装した。しかし鷲は聞こえよがしに舌打ちをして、大きく羽ばたき上空へと戻っていく。
先程からずっとこんな調子だ。言葉ではあぁ言っているが、俺が一度反撃をしてから地対地攻撃をしてこなくなった。そんなわけで攻撃のチャンスを得られないでいる。
美月のしてくる空対地攻撃は二種類。一つは滑空しながらの鉤爪での攻撃。威力はさほど高くないが、先程のようにヒットアンドアウェーをされると手が出せない。
そしてもう一つが、翼を折り畳んでの急降下である。氷の盾が通用しない破壊力抜群の一撃だが、攻撃後にしばらく身動きが出来なくなる。おそらくその時が唯一の反撃のタイミングだろう。
考えを巡らせていると、鷲が翼を折り畳むのが見えた。速度を増しながらこちらに突っ込んでくる。
辺りを見渡し、穴の開いていない場所を確認する。避けたつもりが穴に落ちた、なんて格好がつかない。
音を纏った嘴が迫る。
鷲との距離に全神経を集中させる。頼れるのは自分の運動感覚のみ。
タイミングを合わせて、側方に身を投げ出した。転がりながら手の中に氷の剣を凝結させる。
鷲が首を埋めているであろう場所を振り向きながら起き上がり、剣を振り上げる。しかし刃を何かに弾かれ、氷の剣は地面に開いていた穴の一つに落ちた。
「え……?」
情けなく声を漏らす。理解の範疇を超えている。動きを止めて状況の把握に努める。――正面の地面に鷲の姿は無かった。
目前を過ぎる、黒く鋭い影。脳に激痛が刻まれる。
「ぐっ?!」
とっさにかざしていた左腕が縦に裂かれていた。引き千切るように抉られた前腕に、ピンク色の肉が覗いている。滲んでいた血液があっという間に腕を真っ赤に染めた。垂れた血が乾燥していた地面に吸い込まれていく。
「あっはー、すっごい単純! あんたの脳味噌、海綿体で出来てるんじゃない?」
美月の声が上空から聞こえた。
彼女は、俺が攻撃後の隙を狙っていることに気付いていた。急降下の途中で翼を広げ、滑空の攻撃に切り替えたのだ。
負傷した左腕を見る。見た目より軽傷のようで指先も動くが、これでは剣を振るのは難しいだろう。となれば、頼みの綱は氷の球。
鷲の戦法を思い出す。羽ばたいて初速を生み、空気抵抗を受けないように翼を折り畳む。重力で加速して、恐らくは音速に達しているであろう一撃を浴びせる。その威力の凄まじさは今まで散々経験させられた。
空に氷の球を放っても、重力に逆らって飛んでいくそれは威力が半減してしまう。しかし逆に地面に向かって放てば、鷲の攻撃のように威力を増すことができるのではないか。問題はどのようにして鷲より高く空中に上がるかだが。
右手を強く握り締めた。――いや、別に飛ぶ必要はないじゃないか。
決まれば即実行だ。辺りの大気を水と水蒸気の間の状態、飽和蒸気に保つ。巨大な氷を生み出すだけの水蒸気をあの空域に集めなければならない。
鷲は上空を旋回しながらこちらの様子を伺っていた。
「なんか顔つきが変わった?」
怪訝そうに言って、翼を折り畳み急降下を始めてくる。こちらはまだ準備ができていない。傷ついた腕をかばいながら、穴だらけの地面を走る。
鷲はまた地表すれすれで翼を開き、滑空を始めた。逃げている俺と、急速に距離を詰めてくる。
薙がれた左の鉤爪が、屈んだ俺の頭の上をかする。続いて間髪いれずに振り下ろされた右の鉤爪が赤土の地面を削った。
「危ねぇ……」
穴の中で呟いた。二撃目のタイミングに合わせて、鷲が頭で開けた穴に飛び落ちていたのだ。鷲は急に旋回することができず、こちらを睨みながら穴の上を飛び去っていった。
鷲が再び上空に戻っていく間にも、穴から這い上がりながら準備を続ける。
「いい加減、その地味な能力にも飽きたわ。リーダー諸共、退場してくんない?」
「リーダーは俺だ。悪いけど、ここでゲームオーバーになる気はないな」
「あっそ。――それなら、もう容赦しないわ」
そろそろ十分だろう。水蒸気を溜め込んだ空間の下に立った。
鷲が翼を折り畳み急降下を始めたのが見える。滑空の攻撃をされたら、これは使用できない。危険だが、攻撃を切り替えられないぎりぎりのタイミングで避ける必要がある。
がんがん加速していく鷲の砲弾。真っ直ぐにこちらに突っ込んでくる。
唾を呑む。いつの間にか腕の痛みは消え失せていた。
避けるのでも精一杯の刹那。さらに一タイミング遅らせる。地面を思い切り蹴って、身を投げ出した。
地面を伝わる衝撃。無数に飛び散った、砕けた石やら土やらを全身に浴びる。一際大きな破片が太ももの後ろに突き刺さった。
苦痛に耐え、反転して鷲の姿を捉える。
地面には、首を地面に埋めた相変わらずシュールな姿の鷲。
素早く左手を開いて上げて空を睨む。水蒸気が凝結を始め、上空に氷の塊が生成され成長していく。赤く染まっている手を握る。鷲の遥か上に、その巨体のさらに数倍はあろうかという巨大な氷山が完成した。
矢じりのように尖った剣先を下に向けて自由落下を始める。しかしそれだけでは不十分で、厚い羽毛を貫くには至らないだろう。続いて右手を氷山に向けて、掴み取るように強く拳を作った。氷山の後ろの一部が瞬間的に昇華する。氷の巨大な砲弾――いや、もはや戦闘機自体が急速に加速しながら地面に近づいていく。
「氷瀑――!」
とっさに、滝壺から天高く突き出した大氷柱、自然の造形の名をつけた。少し気恥ずかしかったのは内緒の話。
丁度穴から首を抜いた鷲が、自身を呑み込むようにできた大きな円い影に気づき、真上を見た。すぐ目前まで巨大な氷山が迫っている。
「あ……」
今まで優勢だったせいか、回避行動をとることもできずに、だらしなく嘴を開けて呆然としている。影が大きくなり、鷲の姿を覆った。
そのまま氷山は轟音を立てて、鳥諸共地面に突き刺さる――はずだった。
氷山の側面に突き刺さった、何か光を放つ物体。次の瞬間、辺りに氷の破片が撒き散らされた。思わず目を閉じる。
露出している肌が冷たい。ゆっくりと目を開けると、砕けた氷がダイヤモンドダストのように光を受けて輝いていた。その何かは俺の超大作を、いとも簡単に粉砕させたのだ。
「綺麗――」
横では、人間の姿に戻った美月が夢見心地でその光景を眺めていた。どうやら彼女がやったのではないらしい。
ふと視線を感じ、岸壁の上を振り向いた。
「――智和?!」
斜面の上には、両手をポケットに入れて顎を突き出している智和の姿があった。
あれは彼の能力だったのだろうか。そもそも何故彼がここにいるのだろうか。美月達のPTの切り札として参加していたのか。様々な憶測を巡らす。
「あら、桜井君」
美月が性格を変え、にこやかに声をかけている。
「ど、ども。偶然ですね、火原さん」
だらしない表情で智和が答える。どうやら彼女達の仲間というわけではないようだ。
「今のは桜井君の能力?」
「はい、そうです!」
美月に褒めてもらうことを期待しているのだろう。智和が尻尾を振る犬みたいに嬉しそうに答えた。この調子だと、彼女が聞けば能力のことも話しかねないと思う。
「そう。じゃあはっきり言わせてもらいますけど――」
言葉が切られ、美月の顔が素に戻った。
「うぜぇよ、ストーカー。やることがいちいち、押し付けがましいんだよ」
二度目ではあったが、その豹変振りに驚き、思わず声を発した口のついている顔を確認してしまった。この顔は美月だ、声の主は確かに美月である。
智和はあんぐり口を開けて呆然としているようだった。
「ったく、説明するのも面倒くさいわ……。これが素の私、いつものは猫被った私。分かった? 分かれ」
矢継ぎ早に説明がなされる。というか説明なのか、これは。なんだか怒られている気分になってきた。
「あんた、私のことが好きなんでしょう? いい機会だから返事をあげる。私はあんたのことが大嫌い。オーケー?」
「お、オーケー……」
かろうじて声を出す智和。あんな振られ方をしたら恋愛がトラウマになりかねないだろう。心から同情する。どうやら美月は高いプライドのせいか、助けられたことが気に食わなかったようだ。
「私はもともとこういう性格なの。あんたが見てたのはただの幻影。失望したでしょ? じゃあもう諦めなさい、いい加減うっとうしいわ」
なんだか部外者なのに泣きたくなってきた。俺が智和だったら、ピーピー泣きながらこの場から逃げ出していただろう。
「だいたい、あれは内申良くするための――」
「いや、俺は失望なんてしてない」
しかし予想外にも彼は、殺傷力抜群のマシンガントークを遮った。美月が驚いた顔をする。
「俺が惚れたのは、本当のお前だったから……」
「何言ってんのよ。馬鹿じゃないの? 私はあんたの祖チンが皮被る前から、ずっと猫被ってんのよ。知ってるはずがないわ」
「変わったのは高校からだったな」
「え……」
「中学の時荒れてた俺は、遠征先の手形中でお前に会った。そこで不良に対しても毅然な態度のお前に一目で惚れて、まともな人間になろうと決心したんだ。もうお前は覚えていないと思うけどな……」
智和の顔はいつになく真剣だった。
「俺は男だ、惚れた女が困ってる時には助けに行く。押し付けがましく思われても、迷惑だって言われても、お前を放ってなんておけねぇよ……」
美月の返事を待たずに、踵を返して山の中に消えていった。
「何なのよ、あいつ……」
彼女は背中が消えていった森を睨み、イライラした様子で延々と呟いていた。
本日二人の男が振られた、波瀾万丈の谷。その一方で、ここでは男女が幸せそうな顔をして抱擁しあっていた。
「――準貴君」
真央が俺の胸に額を当てたまま話す。
「ん、どうした?」
「準貴君は友達といることが悪いみたいに言っていたけど、それは違うと思います。人には人の付き合い方があると思うから、友達も大切にしてあげて下さい」
「そうだな……」
「でも……、友達のことばかりで私のこと構ってくれないと寂しいです……」
「分かった、ごめんな」
顔を見せず恥ずかしそうに話す真央をいじらしく思い、頭をくしゃくしゃと撫でた。
と、斜面の上から何かが土煙を上げて滑り降りてくる。
「おーおー、ゲームとはいえ昼間から大胆ですなぁー」
「さくら?!」
「さくらさん?!」
真央と二人で素っとん狂な声を上げ、急いで離れ、背中合わせになって俯く。
「よかったな、真央」
「弘樹……」
さくらの後に続いて弘樹が斜面を降りてくる。
「いやいや、あたし達のことはお気になさらずに続けてください」
どうぞどうぞとジェスチャーをする、さくら。
「お前、ここぞとばかりにからかいやがって……」
「でもなんか、人の幸せ見てるのってムカツクなぁ……」
「だったらお前も彼氏作ってみろ」
「ムー、人の事情を知ってて、そういうこと言うかなぁ」
頬を膨らませている。
「真央、弘樹〜!」
巧のよく通る声がした。見れば、大きく手を振る巧と、涼子が谷に沿ってこちらに向かって来ている。
「あっちも終わったみたいだね」
「あぁ」
「美月ちゃんは?」
真央が心配そうに弘樹に尋ねる。
「リーダーがやられればPTが解散するはずだからな。無事であることは確かだろう」
「よかった……」
「うちのリーダーも健在みたいだ。一緒に迎えに行こう」
手を差し出す。
「うん」
俺の手に真央の手が被さった。
俺は岸壁の斜面に寄りかかっている美月の側で、所在無く立っていた。
「あーあ、気分最悪……」
彼女が吐きそうな顔をこちらに向けてくる。もはや幻滅を通り越して、そういった仕草が馴染んでいるように感じていた。
「えっと、ご愁しょ――じゃなくて、お大事に……」
「今のこと、三人には内緒にしておきなさいよ」
今のこととは、智和との件のことだろう。
「分かった」
「――もう用事ないでしょ。さっさとあっち行きなさいよ」
首を切る動作の後に、西に向けられた美月の親指。
「いいのか、行っても?」
「まだ戦り足りないのなら相手をするけど?」
彼女の口角が上がり、またいたずらっ子の表情に戻る。
「遠慮する。うちの三人を連れてから行くよ」
「あっそ」
美月はつまらなそうにそっぽを向いた。
「おーい!」
能天気な大声が聞こえる。六人の生徒がこちらに向かってきていた。
「全員無事だったみたいだな」
「ったく、どいつもこいつも甘ちゃんね……」
憎まれ口を叩きながらも、美月は安心したような表情を浮かべていた。
六人の生徒の中に、仲良く手を繋いでいる準貴と真央の姿が見える。
「なんだ、上手くやってるみたいじゃ……」
「どりゃあ! この包茎野郎、真央を泣かせやがって!!」
美月にも聞こえるようにしみじみと呟いたが、彼女は二人の姿を確認するやいなや鬼の形相で走っていった。
人の気配がしない廃墟ビル。ひび割れ草を生やしたアスファルト。折れた電柱に垂れ下がった電線。ここアップステアーズの西部は、環境の破壊により廃れてしまった都市をイメージして創られている。
多くのプレイヤーがこの地の建物を拠点として潜伏していた。伊勢敦もその中の一人である。
彼はクラスの中に友達がおらず、会話にも参加せず、全く目立つことがない。おかっぱで眼鏡のこの少年はゲームの中でも、誰ともPTを組むことも交戦することなくこの建物に篭っていた。
ここには彼がミリタリーの知識で四日間ずっと作り続けたトラップが数多く配置されている。出入りすることが出来る人間は、建物内のマップを持っている彼以外にはいないだろう。もはや廃墟ではなく要塞である。
敦は部屋の角で三角座りをしていた。もうじきあちらの世界に戻る時間になる。
いつしか彼は仮想世界を『こちら』と呼び、現実世界を『あちら』と呼んでいた。こちらでもあちらでも、誰とも関わらない生活様式は変わらない。親とも疎遠な彼は、一言も発せずに一日を過ごすことも多い。
「アップステアーズ……。面沢高校……」
久しぶりに彼の口からぼそりと言葉が出た。敦は、3000万円の賞金なんてどうでもいいと考えていた。彼の家は裕福な方である。最新式のゲーム機も、新しいモデルが出るたびに買い換えるパソコンも、欲しいものは毎月の小遣いで買うことが出来た。
彼は考える。自分が望んでいるのは何だろうか。友人。彼女。親との会話――。心に浮かんだものをいつものように黒く塗りつぶした。
「――僕は強い。一人でいい。一人がいいんだ……」
自分に言い聞かせるように呟いた。
ジャリッ。乾いた地面を踏む音がする。敦は脅えながら、伏せていた顔をゆっくりと上げた。
――そこにいたのは、こちらにもあちらにもいるはずのない人物。
「……翔太?」
敦は目を疑った。自分はこの少年を知っている。一年前まで同じ教室にいた、この少年を。
「こんにちは」
「こんにちは……」
にこやかにあいさつをした少年につられ、敦もあいさつを返す。この人物がここにいること自体おかしいが、人間がこの要塞の中にいることもおかしい。トラップが作動した形跡が無いのだ。
「どうやって入った?」
「質問はそれ? 僕が誰か分かっているんでしょう?」
「田中翔太――」
敦が目の前の男の名前を口にした。
「正解。――それなら、ここにいてもおかしくないとは思わないかな」
確かに存在していないはずの彼なら、どこにいてもおかしくないのかもしれない。敦は納得した。
「何をしに来た?」
「ちょっと助言をしに」
翔太が冷たい笑顔で言う。
敦は立ち上がり、右足を引いて左中段に構えた。彼の腕なら翔太が妙なことをする前に、腱を刺し切り動きを止めることができるだろう。
「そう怖い顔をしないでよ。助言をしに来ただけって言っているでしょう?」
「――お前は信用できない」
「そっか、それは残念だなぁ。まぁいいや、そのまま聞いてよ」
翔太は先程からまったく体を動かそうとしていない。本当に話をするためだけに来たように見える。
「君は既に僕の能力下にある」
敦が肩の力を抜こうとしていると、翔太がよく分からないことを口にした。
「え?」
「僕が、既に、君に能力を使っている、と言ったんだよ」
――能力。この世界で生徒達一人一人が持っている特殊な力のこと。
彼はやはり戦闘をする為に来たのだろうか? しかし敦の身には何の異常も見受けられない。
「虚言だ」
敦は拳に力を込めて言い放った。
「僕の能力は、好きなように異世界を作り出すこと。『ドリームキーパー』という名前をつけているから、その名で呼んで欲しい」
「異世界……?」
「まだ気づかないかな?」
「まさか、この仮想世界は――?!」
敦が思い当たったのは、このゲーム自体が彼の能力により創られたものだということ。しかし同時に矛盾を感じる。何故ならゲームの中に能力が存在するわけで、順序が逆だ。卵の中で鶏が卵を産むようなものではないか。
「そういう、記憶が正しいという前提での固定概念は良くないな」
翔太が愉快そうに笑う。敦の額から冷や汗が流れた。
「そう。今君が考えていること、それが正解だよ」
「そんなわけがない、そんな馬鹿な……」
敦には一つ思い当たることがあった。心を読まれたことよりも、その内容を肯定されたことにショックを受ける。
「そう、君達が現実世界と呼ぶものは、僕が作った異世界だ」
彼が考えないようにしていたことを言葉に出される。敦は必死に否定しようとした。そんなことは決してあってはならない。何故ならそれが肯定されることは――。
「つまり君の記憶は架空の記憶。君の存在はここにしかない」
――伊勢敦という人物、そのものの否定ではないか。
「う……あ……」
運転席の父親。台所に立つ母親。楽しそうに会話をする教室のクラスメイト。担任の先生。塾の講師。敦の頭に走馬灯のように懐かしい情景が流れる。
「伊勢敦は、この、君達が仮想世界と呼ぶ場所に存在する人間だ」
流れていた数多の記憶は、白いヒビを入れて、バキンと砕けた。
「ひ……ふひひ……」
敦が震える手で頭を抱え、目を見開き、引きつった笑いを浮かべる。
敦は、壊れた。
「もう一時になるね。君はまた僕の作った異世界に向かうことになる。せいぜい楽しんできてくれ、その為に作った世界なんだから」
翔太が踵を返した次の瞬間、彼の姿は完全に消え失せていた。廃墟の中から人の気配が消え、再び静寂に包まれる。
「ひひ……」
後に残された敦は、部屋の隅でガタガタと震えながら転送の時を待っていた。
黒い背景に27人の顔写真が並んだ画面。クラスメイトの顔が並んでいる。
15番目には敦を壊した少年の顔が表示されている。
だんだんとフェードアウトし、今日も赤い文字で『生存者23名』と、そう表示された。
草木も眠るにはまだ早い、深夜二時。さくらはたたら南の商店街に向かう道を一人で歩いていた。
というのも、夜食を摂ろうと思ったところ、明日の朝食べる食パンが無いのに気付いたからだ。決して私が食べてしまったからではない。
近くのコンビニで買うと、スーパーで買うよりも五十円近くも高くなってしまう。苦しい家計の我が家としては、多少労力をかけても二十四時間営業のスーパーで購入したい。
商店街はほとんどの店が閉まり、コンビニの明かりだけが煌々と点いていた。
「うわ……」
コンビニの前では、いかにも柄の悪い男達が集まってヤンキー座りをしている。つまりは、金髪やスキンヘッドの男達が向かい合ってうんこ座りをしている。
――壮観だ。明日二人に会ったら教えてやろうと思った。
「――ですから、供与は――」
教室で聞いたことのある高い声がしたので、ふと足を止めた。男達の中をよく見てみると、暖かそうな毛皮のコートを羽織り、金縁の眼鏡をかけた山浦美緒の姿ある。
金持ちがこんな庶民の場所で何をしているのだろうか。男達に絡まれているのかとも思ったが、表情からして違うようだ。あれは悪い事を考えている時にする顔である。昔バイトで麻雀の代打ちをしていたことがあるが、イカサマをする奴らは決まってあんな表情をしていた。
「あら……」
美緒が私に気づいて声を漏らした。
「貧乏人じゃないですか」
いきなりのご挨拶である。
「やぁ金持ち。コンビニが似合わない人も珍しいね」
「えぇ、そうでしょうとも。用事が無ければこんなところに近寄りません」
皮肉で言ったつもりだったが、褒められていると勘違いしたらしい。非常に金持ちと相性が悪い。
美緒が下でしゃがんでいる男達に顔を向けた。
「よく見ておきなさい。あれがターゲットよ」
小声でそんなことを囁いたように聞こえた。
「――せいぜい今は龍之介さんにちやほやされていい思いをしてなさいな。きっとあなたは女に産まれてきた事を後悔するでしょう」
美緒の周りの男達が下品な笑い声を上げる。
まだあのことを根に持っているらしい。気に食わない女だ、さっさとパンを買って帰ることにした。
「また明日」
「えぇ、ごきげんよう」
私は、いつものように祐太や準貴に助けてもらえないところまで来ている。孤独と不安を感じていた。