第二章 <七月 (疑似的にしか伝えられない別の惑星のような)痛み>
痛みだ。
耐えがたい痛み。
私の小さな体では、受け止めきれない。
けれど、耐えなくてはならない。
――誰のために?
逃げてもいいのかもしれない。
でも、どこへ行っていいのか分からない。
いや、一ヶ所だけある。
あそこの、あの人なら、私を助けてくれるかもしれない。
でも、知られたくない。
私がこうして、痛みに耐えていることを。
知られてはならない。
秘密にしなくては。
――誰のために?
■
クツナの治療を受けて帰宅した日、シイカは、母親と弟に話しかけてみた。
特にこれといった話題もなかったので、天気の話と、気候の話をした。内容には大差はなかったが。
二人とも、シイカから声をかけられたことに驚いていたようだった。
ぎこちなく、上滑りした、時間にして五分もない会話だったが、話終えて風呂に入ろうとした時、シイカは舌と喉に軽い疲労を覚えた。
前に、疲れるほど人と話したのはいつだっただろう。
高揚は、眠るまで続いた。
翌朝、シイカは寄り道せずにまっすぐ登校した。
(本当は、これだけしか時間がかからないんだ……)
いつもの癖で早起きしてしまったので早く着き過ぎ、仕方なく学校の周りをぐるぐると散策して時間を潰してから昇降口をくぐった。
しばらくすると、クラスメイトの女子が二人、教室に入ってきた。
シイカは大きく息を吸い込み、しかしそうとは悟られないように自然な様子を心がけて、
「おはよう」
と声をかける。二年生に進級してから、初めてのことだった。
二人は大した戸惑いも見せず、
「あ、おはよう」「いつも早いね」
と返してくる。
それをきっかけに、次々にやって来る同級生の女子と、短い挨拶が交わされていく。
「おはよう。あれ、鳴島さんてあたしと話すの初めてじゃない?」
「私も、授業以外で鳴島さんの声初めて聞いたかも」
「出欠の時も、声めっちゃ小さいもんな」
いつの間にか、男子も混ざっている。シイカの心臓は、強く早く脈打っていた。クツナは浮かれないように言っていたが、浮かれるどころではない。
やがてホームルームが始まり、いつもと変わらない授業風景が流れていく。
放課後になり、シイカが帰り支度をしていると、近くの席の水上リエがその肩を叩いた。
「鳴島さん、私たちこれからカラオケに行くんだけど。鳴島さんも行かない?」
大きな目に軽やかなボブのリエは明るく社交的で、男女問わず人気がある。邪気のない顔が、親しげに微笑んでいた。
「鳴島さんあんまり人と話さないし、もしかしたら学校つまんないんじゃないかなって、ちょっと思ってたんだ。だから、今日から仲良くなれたらなって」
シイカは喉を鳴らした。さすがにいきなりのカラオケは、ハードルが高すぎる。
「ごめんなさい、私今日、行くところがあって……」
「そっか。じゃあ、また今度ね」
リエが残念そうな顔を浮かべる。
シイカは慌てた。遊びに誘われるのも、それを断るのもほとんど経験がないので、どうしていいのか分からない。
「本当に、その何て言うか、私のようなものを誘ってくれて、嬉しいんだけど、でも」
すると、リエの脇にいた数人の女子が、それを聞いて笑い出した。
「私のようなものって、何、武士みたい。いいんだよ、もっと軽くて」
そうして、「せっかくだから途中まで一緒に行こう」と、シイカは高校生になって初めて、クラスメイトとの下校を経験した。
駅には、何を話したらいいのか考えているうちに、あっという間に着いてしまった。
クラスメイトと分かれて電車に乗り込む。
今日は木曜日で、クツナが在宅していない日だと気づいたのは、次の駅に着く頃だった。
シイカは、浮かれているのを自覚した。
頬が熱い。ただでさえ初夏だというのに、太陽がすぐそこまで近づいてきたかのように。いや、シイカの方が空に浮かび、太陽に接近したような感覚だった。
周りから見れば、まるでなんともないことだということは分かる。根本的な人格が変わったわけではないので、人と話すのが平気になってはいないし、下校中だってひどく緊張した。
しかしシイカは、背中に小さな翼が生えたようだった。できないことと、頑張ればできることには、天地の差があった。
今すぐにクツナに会いたい。礼が言いたい。
クツナのところで働かせてもらおうと、その時シイカは心に決めた。