第五章 3 君を廃人にしてあげる
「あの日屋上でキリからちぎりとった、君の記憶を返してあげる! 思い出すといいよ、君がお父さんに、何をされて、何をしたか!」
「アルトッ!」
「癒着したキリの繭を君から引きはがすには、まず君の繭が解体同然に壊れてくれないとやり切れない! 本当はこれは、キリを繭使いとして木偶同然にした君のことを、忘れないために持っていたんだけどね――役に立った!」
クツナは繭使いの術式を途中で止め、代わりに、アルトの横腹を思いきり後ろから蹴った。
アルトの細身の体が転がり、クツナから三メートルほど離れてうずくまる。左足が動かないため、容易には立てない。
「鳴島! 済まない! 今すぐ外してやるからな!」
防御機構を一部ほどき、クツナは、シイカの胸のあたりへ無理やり押しつけられた、卵大の記憶の繭をつかんだ。即座に、シイカから切除して取り外そうとする。
しかし元々シイカ自身の記憶であり、キリとアルトの手を経ても丁寧に保護されていたその繭は、あまりにも早く強くシイカの繭と同化した。
シイカの脳裏に、一気に、凄まじい圧力で、苦痛の記憶が展開した。
今まで忘れ去っていただけに、何の心構えもなく叩き込まれたトラウマは、一瞬で深々とシイカの精神をえぐる。
父親の拳。つま先、かかと、足裏。平手。時には灰皿や食器。
当然のように毎日与えられながら、全く慣れることのなかった痛み。叫びも懇願も一顧だにされずに蹂躙された屈辱。
自分から失われたのがどんな記憶なのか、察してはいた。
しかしまさか、ここまでのものだとは思わなかった。思いたくなかった。
母と弟が、口にすらできないはずだ。服で隠れるありとあらゆる場所へ、柔らかく未熟な子供の体に、大きくて固い大人の拳が、足が、暴力が突き刺さっている。
体中の腫れた場所は、殴られた時だけではなく、その後もいつまでも膨れて痛み、シイカの自尊心を侵し続けた。
弟もやがて、同じ目に遭い始めた。
しかし、シイカをなぶる時の方が、父親は明らかに楽しそうだ。
母親は何度も助けようとしてくれた。しかしその度に、母親も暴力にさらされた。
いつしか、母親が子供たちを助けようとする時、痛みへの怯えからわずかな躊躇を見せるようになった。
それを姉弟に悟られることに母親は怯えていた。
シイカと弟は、それを容易に悟り、その看破を母親に気づかれることに怯えていた。
父親を除く家族が、皆、それぞれの恐怖を抱いた家だった。
離婚という制度を、シイカは言葉だけは聞いたことがあった。その内容を正確に知ったのは、父親が遊び半分で、シイカがトイレに入っている時に外から鍵と扉を開ける遊びに興じ出した頃だった。
弟と二人で、お願いだから離婚をしてと母親にすがる。
しかし母親は、どうしても父親と別れようとしない。そんな母親をシイカは恨んだ。
しかしある日、子供なりに悟った。
離婚を切り出し、そしてそれがうまくいったとして、その後に父親が母子に何をするか分からない。
先日から会うようになった、不思議な中学生のことを思い出す。彼女は、この間は友人を連れてきた。仲がよさそうだった。
きっと、色んな悩み事を打ち明け合ったり、助け合ったりするのだろう。
家のことを誰にも相談できないシイカには、羨ましい。
あの人たちのようになりたい。今いるこの場所から、助けてほしい。どうすればあちら側に行けるのだろう。
――お父さんさえ――いなくなれば?
それならば結局、力しかないのだ。父を排除するには、父を超える暴力によるしかない。
ある朝、シイカは、最も身近で用意できる暴力を探した。台所に果物を剥くためのナイフがあった。
父親は仕事に出かける前で、居間でニュースを見ている。
シイカは決心し、声をかけた。今までに何度も懇願して、その度に殴られた「お願い」ではあったが。
「お父さん。もう、私たちをいじめるのはやめてほしいの」
父親はゆるく口を開けたまま、シイカの右耳の辺りを拳で強く打った。その目線はすぐに、何事もなかったかのようにテレビへ戻った。
転倒して頭を打ち、水分で滲んでいく視界の中で、シイカの覚悟は決まった。
ナイフの束を握った両手に伝わる父親の肉の感触が、生々しく残っている。
父親の肉の硬さと、刃物を使うことに体が委縮していたせいで、思ったほど深くは刺せなかった。
しかし、決して越えたくなどなかった一線を無理やり超えさせられた恐怖と悔しさは、シイカの胸に突き刺さった。
誰か。
誰か、助けて。
誰か?
ううん、決まっている。
あの人たちに。
まるで町から私たちしかいなくなったような、あの穏やかな暗闇の中で、私を助けると言ってくれた、あの人たちに会いたい。
「鳴島ッ!」
すっかりシイカの繭と同化してしまった記憶は、そう簡単に切り取れない。
集中できる状況であればともかく、少なくともこんなところでアルトを相手にしながら、そう簡単にできることではない。さっき自分が言ったばかりの言葉に、クツナは胸中で歯噛みした。
「痛い……」
うつろな目で、シイカがつぶやく。
体中に、かつて父親から与えられた痛みがよみがえっていた。意識も混乱している。
「私が、間違えたんです。キリさんも、そのせいで……」
「よせ、ものを考えられる状態じゃない時は、考えるな」
クツナはシイカの繭を、防御機構の網の間の狭い術野で操り、軽い麻酔をかけた。
くたりとシイカがしゃがみこみ、そのまま地面に横たわる。こぼれた涙が、横を向いているせいで、鼻梁に溜まった。
「私がお父さんを刺したのは……その後で、キリさんたちが助けてくれると思ったからなんです……きっと、そんなこと考えなければ、ナイフで刺したりなんてしませんでした。そのせいで、キリさんは……」
「違うぞ、鳴島。君がしたことは自衛だ」
シイカは、ばっと顔を上げて目を剥いた。
「でも、お父さんに、ナイフを握ってから話しかけたのは私なんですよ!」
その勢いに、クツナが気圧される。耐えるように、シイカはぐらぐらとうつむいた。
「家族も、そう……私がもっと耐え続けて、何か上手な解決策を見つけていれば、……今も一緒に暮らしていたかも」
「君は充分苦しんでる。今もだ。そんな父親と一緒に暮らして、君はどうなる」
「私が中学生とか、高校生になるまで頑張っていれば……子供じゃなくなれば、成長すれば、何か、もっとずっといい方法を……そうしたら、お父さんはいいお父さんになっていたかもしれない……それに」
シイカの目が更に濡れていた。
泣き顔など、クツナに見せたくはなかったのだが、止められない。
せめてもと、さらに顔を下に向けて隠す。
「こんな風に、迷惑をかけたりしなかったかもしれない……誰にも」
「鳴島。君は、ずっと抱えていた苦しみを、戻った記憶と同化させて、刹那的に強い罪悪感を生じさせている。その苦悩は、僕なんかには及びもつかないだろう。少し休め。弱っているせいで、思考も支離滅裂になってる。迷惑なんかじゃない。目を覚ますまで――」
クツナがかけた麻酔は、シイカの肉体だけでなく、精神にも広がりつつあった。涙をたたえたシイカのまぶたが、ゆっくりと降りていく。
「――それまで、僕が守ってやるからな」
クツナはハンカチを地面に置き、そこにシイカの頭を乗せると、立ち上がった。
「待たせたな。左足は元に戻ったか?」
アルトは自力での治療を終え、両足で立っている。
「今、ようやくね。いいね、彼女。繭が力を失って、繰りやすくなってる」
「アルト。鳴島に危害を加えることは許さない。二度と近づくな。そう言えば、聞いてくれるのか?」
二人の視線が絡み合った。クツナには、もはや見るに堪えない状態まで崩壊の進んだアルトの繭が見えている。
実際今のアルトがどこまでまともなのか、クツナにも判然としなかった。
トラウマを抱え、他者への心を閉ざし、幾年も経つ中で自壊していく我が身を我が手でつなぎ合わせた、まるでつぎはぎの自動人形。そう見える。
「クツナ」
「おう」
「廃人にしてあげる」
「……そうか。殴ったり蹴ったりは、もうしないでおいてやる。繭使いの矜持として、」
互いの足が前に進んだ。
「お前の繭を壊してやるよ。二度と僕たちの前に現れたりできないようにな」




