第五章 2 双星相撃つ
「なるほど。賢明なことだね。鳴島さんは取引に応じる気がないのだから、あらかじめここにクツナを呼び出しておけばいいわけだ。君はもっと、メソメソしたしょうもない女だと思ってたけど、存外頭が回る」
「しょうもないっていうのは、あまり否定できませんけど……それでも昨夜、少しだけ変わったんです。いつか出せるかもしれないと思っていた勇気が、出せるようになりました」
アルトは、見下した笑いを口の端に浮かべていた。しかし、シイカもそれに構わずに続ける。
「そして、思い出したわけではないけど、私の欠落した記憶は、キリさんに助けてもらったことと、父を刺した時のものだと思うっていうのも――昨日はついごまかしちゃいましたけど――今日、クツナさんに伝えました」
「堂々と嘘をついたものだね、僕に」
「私が一番信じている人に、隠す必要はないって思いましたから。クツナさんは私を嗤いも憐れみもしないからです。あなたを騙すくらい、……平気です」
アルトは薄笑いが強まる。
「軽蔑するよ。それに、そう言いながらつまらない罪悪感を抱いているのが、繭に現れてる。残念だったね、そこまでして突きつけた要求を、僕に飲んでもらえなくて」
その口調に危険を悟ったクツナが、声音を強くして割って入った。
「鳴島、これは勇気とは言えないからな。君がこいつと会う必要なんてなかった。僕は今まさにここに着いたんだぞ。一歩遅かったら……」
たたらを踏みながら立ち上がったシイカは、再びアルトから距離を取った。
「いえ、必要は……あるんです。クツナさんじゃなくて、もっとずっと弱くて臆病な私が、アルトさんに言わなくちゃいけないことだったんです。絶対に」
「それで、先にアルトと会って、僕がぎりぎりで到着するように時間を調整したのか。二人揃ってからにすれば、怖い思いをすることもなかったろうに」
「怖い思いをしながらでなくちゃ、聞いてもらえないことだってあるんです」
アルトは、シイカにもクツナにも焦点を合わせないまま、どこか遠くを見ながら二人に割って入った。
「独りよがりだなあ。嫌われるよ」
「最近、……友達ができるようになりました」
クツナが歩き出し、シイカとアルトの間に立って、止まった。
「久しぶりだな、アルト」
「どきなよ、クツナ」
「そうだろうな。お前は本当は、僕じゃなく」
クツナは視線で背後のシイカを示す。
「鳴島に用があるんだろう」
当のシイカは、砂まみれの人差し指で自分の顔を頼りなくさした。
「私……?」
「お前が失踪してから時々、僕の様子をうかがっていたのは知ってる。それが急にここ数ヶ月で接近してきたのはなぜだ」
アルトが眉根を寄せた。不愉快そうに答える。
「クツナが成人して働き出して、もう父親の庇護が必要ないように思えたからだ。君の父親も排除すれば、僕らの間に邪魔者はいなくなる」
「僕が一人立ちしたらなんだっていうんだ。成人して生活力が身についた友達同士、一緒に自活して生きていこうってんじゃないだろ? お前はもう、僕になど執着していない」
「情けないことを言うじゃないか、クツナ。僕らはこの世に立った二人の友人じゃなかったのか」
「三人だろ」
「三というのは、必ず二と一に分かれるよ。君とキリはくっついて、二になろうとしていた。僕を捨てて。それが全ての――」
「アルト。お前が今日までの何年間も、隠れて会いに来ていたのは僕じゃない。お前と僕の間にしかもう残っていない、もう一人の友人の思い出を求めていただけだ。それを共有できるのは僕しかいないからな」
アルトの眉間から、すうっと力が抜けた。
「何……を」
「お前はあの日、このアパートの屋上でキリの繭に触れた。解体できるほど深く。それなら知ったはずだ。キリがお前を、どう思っていたか。同時に気づいたんじゃないのか。お前がキリをどう思っていたのかも」
張りつめていたアルトの表情が、急激に幼くなっていく。シイカは、目の前の恐ろしい男が、自分よりも年下の子供に見えた。
「僕とアルトとキリが、一時期、三人という単位でいたのは確かだ。それが二と一に分かれるとして、一になるのは、本当は誰だったんだろうな」
「やめろ」
アルトの声音に、シイカの体が、ぶるりと震えた。体の反応から一瞬遅れて、恐怖が脳に這い上がってくる。
繭使いによって、人間の心も体も壊すことのできる男が、今、我を失おうとしているのが分かった。激高した子供のように、手に持った武器を思いきり振り下ろそうとしている。シイカはそう感じた。
「うちに出入りする鳴島を見つけたお前は、驚いただろうな。何年経とうと、この繭を僕たちが忘れるはずがない。一見して気づいたんだろう、鳴島が、キリが最後の繭使いで助けた小学生だと。僕は繭の移植を受けた時の鳴島本人を見ているし、お前もキリの記憶を通して見ているからな。お前は、僕への搦め手のふりをして鳴島に近づいた。僕の存在なんてただの言い訳に過ぎないから、目もくれなかった。鳴島の繭に残るキリの痕跡に触れることが、お前の目的だった。もしかしたら――お前は、無意識だったかもしれないが」
「……違う」
「今まで鳴島にこれといった危害が加えられなかったから、僕も気づかなかった。こんな言い方は何だが、お前にとって鳴島本人はどうでもよかったんだろうからな。僕も、お前の標的が鳴島になるなんて――キリの繭にそこまでこだわっているなんて、思ってもいなかったのは迂闊だった。気付いたのは昨夜、お前が鳴島に施した繭使いに触れたからだ。しかし、さすがにキリが鳴島に移植した繭は年数が経ち過ぎていて鳴島自身の繭と同化し、お前の技術でも、癒着を切り離すことはできなかっただろう。お前が欲しかったものは、もう手に入らない」
アルトが、身をかがめた。獣が力を溜めるように。
「クツナさん!」
「下がっていろ、鳴島。いや、ここから離れろ。アルトの技にしては、昨夜のあれは粗かった。痕跡から、ずいぶん多くのことが読み取れたからな。見ろよ、あいつの繭を」
そう言われて、シイカは目を凝らした。そして、思わず悲鳴を上げた。
「なんですか……あれ……朽ちてる?」
アルトの繭は、あちこちがほつれ、破れ目が傷口のように痛々しく口を開いていた。それをただ、乱暴な応急処置で繋げている。つつけばそこかしこがちぎれ落ちそうに見えた。
「自傷行為みたいなものだ。自分でも衝動が止められず、痛みを求めて傷つける。見た目には落ち着いて見えても、自暴自棄もいいところだ。人間、顔が笑っていれば心もそうだとは限らないってことさ」
「クツナ。どけ」
「言ったろう。ダメだね。キリの繭を取り出せなかったお前が考えたのは、……それでもどうにかして、キリと鳴島の繭の癒着を切り離すことだったわけだ。鳴島の繭のうちからキリの部分をかき集めようとしている。こんなところで、そう簡単にできることじゃないことくらいはお前なら分かるだろうに。もっとも、うちの施術台は貸さんがね。……鳴島、言ったろう、下がれ。ここから逃げろ。君はよくやった。今は自分の身を守れ」
クツナはアルトを睨みつけたまま、背中でシイカにそう告げる。
しかし、シイカは貼りつけられたようにそこから動かない。
「鳴島?」
シイカが、震える声で答える。
「クツナさん……。足が……動きません」
クツナが大きく舌打ちした。
「アルト、お前の仕業か。鳴島に、まだ何か仕込ん――」
ついシイカの方を振り返ったクツナに、アルトが一足飛びに襲いかかった。
その気配を感じ取ったクツナは、振り向きざまに繭を防御する。何を仕掛けてこようと、少なくとも一手目はしのげる。そこからどうするか。想定していたいくつかの対応を思考の中で展開したクツナのすぐ脇を、アルトが駆け抜けた。
「何!?」
相対したクツナに背を向けてまでアルトがシイカに迫るなどとは予想していなかったクツナは、それでも、無防備なアルトの背中から、足の機能を司る繭を狙う。シイカに施した防御があれば、アルトといえどもそう簡単にシイカに繭使いは敢行できまい。その隙に機動力を奪える。そう踏んだ。
しかし、アルトは右手で強引にシイカの繭へつかみかかった。シイカを包む防御機構が働き、光る網が発動した。通常に倍する激痛と強制的な制動が同時にアルトの体を襲う。いくらアルトの精神制御をもってしても、この状態でまともな繭使いなどできない――はずだった。
シイカの目には、口から泡を吹き、目を血走らせるアルトが映った。泣いている。そう思った。
クツナの目には、違うものが見えていた。アルトは左手に何かを持っている。小さな、光る塊。繭だ。
その左手を、アルトは右手でわずかにこじ開けたシイカの防御機構の網の隙間からねじ入れる。それはクツナがアルトの左足の運動機能を停止させたのと同時だったが、クツナは自分が一歩遅れたのを悟った。捨て身というのは多くの場合徒死に終わり、しかし時には、全ての戦術を瓦解させる。
確かに、今のアルトに、シイカの繭を操ることは不可能だった。しかし、あらかじめ用意した繭を、シイカのそれに押し込むくらいは、かろうじてできた。
「アルト! 何の繭だ、それは。まさか」
クツナが伸ばした手よりも早く、アルトの左手から、その繭はシイカに打ち込まれた。




