第五章 <八月 月に啼く流星>
この頃は、母や弟とずいぶん、会話が増えた。
だからこそ、以前よりも分かる。
二人とも、私の知らない何かを知っている。あの部屋で暮らす三人家族のうち、私だけがそれを知らずにいる。
そして、どうやら他でもないそれこそが、私と二人の間に何年も見えない壁を作っていた。
聞いてみるべきなのかもしれないと思った。きっと今なら、ただ聞けばいい。そうすればただ答えてくれる。そう思えた。
でも、できなかった。
前よりも少し仲良くなった家族。
見なければそれで済む小さなヒビに手を入れて、決壊させてしまうのが怖かった。
もう少しだけ待ってほしい。
これが勇気と呼べるものなら。
私はもうすぐ、それを手に入れられるような気がするから。
■
その団地は、まだ日も高いというのに、絶海の孤島のように静まり返っていた。
風の吹く音や、遠くで車が行き交う音は聞こえる。しかし、人間の立てる音というものがまるでしない。
白々しく照りつけてくる太陽の下、昨夜アルトの記憶の中で見たよりも、どの棟もはるかにうらぶれて見えた。その中にひとつ、強く脳裏に焼き付いた棟がある。
四階建て。くすんだ白の外壁。この屋上で、キリとアルトは最後に会った。
「もうその中に人はいないよ。と言うより、この団地自体がそうだけど。遠からず取り壊されるんだ。ようやくね」
ずっと以前からの知り合いのような調子で、シイカの背後から話しかけてきたのは、アルトだった。棟の入り口に立つシイカとは五メートルほど離れたところから、さほど大きな声でもな声だったが、不思議とよく通る。
「みんな退去した。貧乏人や、食い詰め者や、出来損ないばかりの団地だったけどね。追い出されるように、みんな消えた。あの人たちって、どこに行くんだろうな。消えてなくなれるわけでもないのに」
アルトは、それ以上距離を詰めようとはしなかった。それでもシイカは、かかとに重心を移して、腰を引いている。真夏だというのに、冷たい汗が首筋に流れた。お互いの濃い影すら不気味だった。
「あまり近づくと、クツナに気づかれるだろうね。まずは、クツナの仕掛けた罠を外してもらおうか。きれいに編んだものだね」
アルトの視線は、シイカの繭の網目に注がれている。
「罠だなんて……これは」
「早く。でなきゃ、記憶を渡せないだろう。それが欲しくてわざわざこうして、一対一で会ったのだろうに」
「私、外し方なんて分かりません」
「簡単だよ。守られている本人がいくらその網に触れてもどうってことはない。指先で隙間を押し広げるだけだ。僕が持っている君の記憶というのも、断片的なものだからね。人からのまた聞きみたいな代物だ、大した大きさじゃない」
シイカの喉が鳴った。からからに乾いた粘膜を通った声は、かすれている。
「キリさんから、奪ったんですね」
「そうだ。そこの屋上でキリと僕は、繭を触れ合わせたのは知っているね。まさにその直前に彼女が体験した、君との記憶を僕も見た。そんなものを意図して取っておこうとしたわけじゃないんだけど、僕にとっても印象深い出来事だったんで、僕の繭に残っていたのを、丁重に保護しておいたんだよ。何しろ、キリが指を痛めた――僕との勝負で決定的な敗因――のは、その出来事のせいなんだから」
「私なんですね」
アルトが黙った。しかし、口角がわずかに上がっている。
「昨夜見た記憶は、凄く画質の悪い動画みたいで、人の顔までは覚えてません。だからクツナさんも、私が、キリさんが治した女の子だって自分で気づいているとは、まだ思ってないはずです。ちょっと確認もされましたけど、私が否定しましたし」
「よく分かったね。じゃあ、自分のなくした記憶がどんなものかも、おおよそ見当がついてるわけだ。そう、君が父親から虐待されていた記憶だよ。君は仕返しに父親を刺した。そして、家族は君を助けてもくれなかった。一人残らず屑みたいだな、君の家は。でも、何で気づいていないふりなんてしたの?」
アルトは目元だけで笑っている。その余裕に気圧されそうになって、シイカは努めて語調を強めた。
「クツナさんが私にそれを教えないってことは、きっと、まだ知らなくていいことだからなんです。だから私は、私の記憶をもらいに来たわけじゃありません。私の母親は、今でも私と父のことを気にしています。私はよほどのことをされたんだろうなって、……そして私は、父を刺しました。それは、分かっていますから」
「クツナをずいぶん信用したものだね。それなら、どうしてここに、それも一人で来た?」
「どうしてって聞いてくる人を、罵倒してたんじゃないんですか」
「調子に乗るなよ」
アルトの目から笑みが消えた。その指に力が入ったのが見え、シイカの背中に鳥肌が立つ。
「く、……」
「うん?」
「クツナさんに、会ってください。そして、誠実に、謝罪してください。私は、それを言いに来ました」
アルトは、笑い飛ばしすらしなかった。
「正気で言ってるのか」
「きっと、クツナさんがあなたに求めているのは、それだけです。他のことはもう全部、……どうしようもないから」
アルトが、シイカに向かって歩を進めた。思わず、同じ歩数だけシイカが後ずさる。
「こんなに不愉快な気持ちになるとは思わなかったな」
抑揚のないアルトの声には、明確な敵意が込められていた。
「どうしてですか。どうして、あんなひどいことができたんですか」
「それこそ、どうしてと言われてもね。君たちだって、虫だの馬鹿だの殺すだろう。いや、そういえば僕は誰も殺したわけではないな。ただ、欲しいものを欲しいと言って、いらないものを捨てただけだ」
アルトの両手が持ち上がった。父親を、クツナの両親を、キリを、尊厳ごと傷つけた指。
後ろ歩きをしていたシイカの足がもつれた。一度バランスを崩すと、もうまともに歩けず、シイカはその場に転んだ。
「私の繭は、クツナさんが守ってくれています」
「いいとも。勝負といこう。彼が駆けつけるまで、君の繭が守られるかどうか。廃人になった君を目の当たりにしてクツナがどうなるのか、ぜひ見てみたい」
二人の距離が、二メートルほどに接近した。
シイカは、こんな時に、これまでの暮らしを思い出していた。
自分が父親に何をしたのか、そのために周りがどうなったかを考える。
周囲は、父親を刺したシイカを、腫れ物に触るように扱っただろう。
幸いと呼べるのかどうか、過度なまでの配慮により、父を刺した記憶をなくした少女は、自分の起こした事件を知ることなく育った。
シイカが、周囲の態度をよそよそしく感じたのは、間違いではなかった。
母と弟からは、ひどい事件を起こしたショックで、シイカが短期的な記憶喪失でも起こしたように見えたのだろう。
思い出さないで済むなら、それでいい。
でも、何がきっかけで思い出してしまうかも分からない。
自然、シイカと、二人の家族との接触は減った。シイカが家での居心地の悪さにため息をついていた時、母と弟はシイカの記憶がよみがえることに怯えながら生きていた。
シイカのしたことは、母と弟を父親から守ったことにもなる。そのシイカに、せっかく忘れている事件を思い出させるのは、二人とも忍びなかった……と考えるのは、期待しすぎだろうか。
いや、きっと、絆の欠落だと思っていた家族の距離は、二人からの思いやりだった。不器用で、遠回しな絆だった。
そう信じた時、シイカには、胸の空虚感を埋める必要がなくなった。いらない記憶というものもある。反対に、手放さずに守らなくてはならないものがある。
シイカの目の前に、アルトが立った。
転んだままだったシイカは、極力そうとは悟られないように、すぐに立ち上がれる体制をとる。
「私、抵抗します。凄く、とても、全力で」
シイカは半身になって隠した右手の中に、地面の砂を隠し持った。こんなもので目つぶしができるかどうかは、賭けだが。
「よしよし。それじゃ、始めようか」
アルトの灰色の目が、すっと細められた。
シイカの足と腕の筋肉が緊張する。
しかし。
「ダメだね」
いきなり響いた声に、さすがにアルトも、びくりと硬直した。
アルトの斜め後ろ、五メートルと離れていない――一足飛びにすればお互いに届きそうな距離。そこに、クツナが立っている。




