第四章 18 最後の邂逅
翌日、昼前に、シイカは自分のアパートに帰った。
弟は出かけていたが、母親は居間でテレビを見ていた。
「ただいま……」
少し気まずそうに、シイカが声をかける。
「お帰り」
「ごめんなさい、いきなり外で泊まるなんて言って」
「いいのよ、それは。……でも、あのさ、昨日泊まった友達って、同じ学校の子?」
「え、ううん、違う学校の、学校は違うけど先輩っていうか、そういう」
「そう。じゃあいいの。学校も学年も違うなんて、変わった友達ができたのね」
最近は多少以前よりも家族として打ち解けてきただけに、何か気がかりがあると、会話の不自然さはむしろ際立つようになった。
「お母さん、何か、気になってるの?」
「そう……そうね。はっきり聞いたほうがいいね」
母親が、テレビの音を消し、シイカの顔を正面から見た。
「あなた、お父さんと会ってたわけじゃないのね?」
「全然。お父さんのことなんて、あんまり覚えてないし」
正直にそう答えながら、シイカは内心驚いていた。父親が出て行ったのは確かに一家にとって一大事だったろうが、それはシイカがまだ小学生だった頃の話だ。今さらのこのこと目の前に現れられても、少なくともすんなりとは父親として慕うことができないだろう。それが、母親にとっては現在進行形で続く懸念だというのか。
シイカは自分の部屋に入り、部屋着に着替えた。
エツの家に泊まったものの、ついついおしゃべりが過ぎて、明け方にうとうとしただけだったので寝不足もいいところだ。
今日はこれから寝入り、夕方に起きるという一日になりそうだな……と思った時、シイカのスマートフォンが震えた。普段ほとんど着信がないので、常にマナーモードにしてある。
液晶画面には誰かの名前が表示されている。この電話にかけてくる人間というのはかなり限られており、電話帳に登録している名前というのは更に限られているため、最初にシイカの頭に浮かんだ名前は、御格子クツナだった。何か、仕事の連絡か、それ以外の用事だろうか。
そこにある名前を見て、シイカは息を止めた。細かく振動してコールを伝えてくるスマートフォンを右手に持ったまま、部屋の中で立ち尽くす。
まさか。
真乃アルト。確かにそう読めた。
細い息をかろうじて吐きだしながら、シイカはようやく通話をオンにした。
「ああ、出てくれた。おはよう。と言っても、もうすぐお昼か」
「どうして……私、あなたの名前を登録なんて」
「いや、君がしたよ、間違いなく。僕の目の前で」
「……繭使いで、やらせたんですか。そんなことまで……」
「さすがに、これからはそう簡単ではないだろうけどね。まだ大して君で遊んだわけじゃないのに、残念だ」
電話の向こうからは、鳥の鳴き声が聞こえる。屋外のようだ。
シイカは反射的に窓に取り付いて、昨日から閉じたままだったカーテンを指先で少しだけ開けた。とりあえず、アパートの窓から見下ろせるところにはアルトの姿はない。
「心配しなくても、今君の近くにはいないよ。どう、覚えていることもあれば忘れていることもあるっていうのは、怖いだろう。今さぞかし、怯えた顔をしているんだろうね」
シイカの背中に、悪寒が走った。見てもいないのに見てきたように言われる方が、よほど気味が悪い。
「何の、用ですか。私になんて、あなたが」
「そうだ。君なんて取るに足らない。ただ、少し話をしないか」
「と、取るに足らないなら、それこそ話なんて」
「クツナが君に何を隠しているのか、教えてあげる。君にとっても大事なことだからね」
ぐっとシイカの息が詰まった。
「何を言ってるんですか。そんなことが本当にあるなら、クツナさんから聞きます」
「クツナは君にこのことは言えない。決して。クツナとキリと僕の記憶、見ただろう? なのに君は、他人事のようにしかそれを聞いていない。クツナに話す気があるなら、昨夜君に伝えたはずだ。」
アルトの声は低く穏やかだったが、無碍に突っぱねれば、取り返しのつかないことが起きそうな不気味さがあった。シイカの手に汗がにじむ。
「人とつながることが、怖くはないかい」
「何……を」
「空虚感があるだろう。胸に穴が空いたような。繭使いで記憶を大きく消されると、そうなる。僕は君の、その欠落した記憶を持っている」
シイカは絶句した。答を待たずに、アルトが続ける。
「キリの住んでいた団地について、場所も記憶として得ただろう。一休みしたらおいで、そこで待つよ。クツナには内緒でね。彼を呼んだら、君は大切な記憶を取り戻すチャンスを永久に失う」
電話は切れた。
しばらく呆然とした後、シイカは再び部屋着から着替えた。
動きやすいように、飾り気のない黒いトップスに、白のリネンパンツを穿く。財布とスマートフォンだけは持って、スニーカーに足を突っ込み、家を出た。キリの暮らしていた場所は、確かに分かる。電車と徒歩で、一時間もかからずに行ける。
シイカは自分の繭に目を凝らした。クツナが施してくれた防御が、網目のようになって繭全体を覆っているのが分かる。
しかし、繭の全体像、特にその深奥は、己の目で見通すことは難しい。
――私の知らない、私の記憶がある?
シイカは、さっき降りてきたばかりの駅まで、息を切らせて走った。




