第四章 15 破壊
キリの家は、四階建てのアパートだった。名前をヤマガタハイツという。元はクリーム色だったのだろう外壁はくすんだ灰色になり、あちこちに細かいヒビが入っている。廃墟同然とまでは行かないが、入居者はかなり少ない。近いうちに取り壊されるという噂が何度も囁かれていた。
アルトを伴って自宅の棟に到着すると、キリは自転車を置いて階段を上がった。アルトは大人しくついてくる。
キリの家は三階にあったが、それを通り過ぎ、四階よりもさらに上へ向かう。立ち入り禁止ではあったが、勝手知ったるキリがノブを少しゆすると、古く脆弱な扉の鍵はあっさりと開き、二人は屋上に出た。
ぽつぽつと、雨が降り始めていた。それにも構わず、キリは屋上の中央辺りへ進み出る。使い道の分からない構造物や、何のためにあるのかもよく分からない凹凸を除くと、歩き回れる平らなスペースは、学校の教室二個分というところだった。
「キリ、こういうところは君の弱点だと思う」
「何のこと?」
ドアを背にしたアルトが笑っている。出入口を抑えられているようで気にはなったが、どの道、むざむざと逃げるようなつもりはキリにはなかった。
「大変な時に、一人になることを選ぶ。味方のいる場所じゃなく、他に敵のいないところへ行こうとする」
「敵とか、味方とか! 私は……」
「それに、人は話せば分かるとどこかで信じてる。君は繭使いとしては天才の類かもしれないけど、今は君の悪いところが全て揃っている。その顔色、どうしたんだ?」
少女への繭の移植など敢行したせいで、ただでさえ体調は悪い。それに加えてこの寒い中を自転車で休みなく走り、キリは疲労もピークに来ていた。頭痛がし、腹の奥が重い。風邪を引いたように関節が痛み、筋肉に力が入らない。
「それじゃ、僕に勝てないな」
「勝つって、何よ」
「まだ、僕が君に危害を加えないと信じてるのか? 僕はね、誰よりも君をこそ、粉々にしてやりたいと思っているのに」
キリは思わず腰を落とし、スタンスを肩幅よりも広げた。アルトとは三メートル近く離れている。こんなに離れて、警戒しながら彼と会話するのは、初めてだった。
「どうしたのよ。何があったの? 私やクツナも知らないこと?」
「また、どうしてか。質問さえすれば答が手に入るとでも? 会話する必要はない。まだ分からないのか。君、まさか、君の母親さえ、いつかは君が見も知らない男より、自分を選んでくれると思ってるんじゃないだろうね」
脈絡のない会話は、動揺を誘うためだ。そう分かっていても、キリは全身の血が逆流するのを感じた。大人は本当のことを言われると怒る、なんて話を、いつかしたっけ。大人でなくても、怒るものだな。頭はそんなことを考えながら、体が動いていた。アルトに駆け寄り、右の平手を振りかぶる。
しかしより速く動いたアルトの平手が、振り下ろされたキリの手を弾いた。
「うっ!」
うめいて、キリが後ずさった。二人の間が、二メートルほど離れる。しかしキリには、それが充分な距離には思えなくなっていた。さらにじりじりと、半歩ずつ距離をとる。
「暴力のいいところは、分かりやすさだね」
「アルト……!」
「容赦さえしなくていいのなら、君が僕に敵うわけがない。今の僕は、君を好きに改造できる。どんな風になりたい? クツナの母親? それとも僕の父親?」
「繭を、そんな使い方! クツナは、私たちの力を、『幸福の舟』だって言ってたのに!」
それまで絶え間なく浮かんでいた笑いが、アルトの顔から消えた。
「何だって? クツナが君に?」
「そうよ、私たちの……」
「違う。僕たちのだ、それは」
アルトが歩き出した。キリに向かって。両手を少し広げて、腰だめに構えている。
「アルト……何があったの。ううん、何があったって、そんな風になるわけがない。繭をいじったのね。自分で、自分の」
「少し人格を変えて大人しくさせるくらいで済ませてあげようかと思っていたけど、気が変わった。君は、父のように、廃人にする」
本気だ。キリは悪寒とともにそれを悟った。両手の指はまだしびれている。しかし、抵抗するしかない。
その時、自転車のブレーキ音が、下方から聞こえた。
弱い雨の中、キリのアパートに着いたクツナは、階段を一段飛ばしで上がっていく。部屋の場所は知っていた。三階だ。
到着し、激しくドアをノックする。しかし、応答はない。この時、キリの母親が珍しく昼間から出かけており、部屋の中には誰もいなかった。
「留守なのか? それじゃ、この周りのどこか? くそ、キリ! アルト!」
クツナが呼ぶ声が、キリの耳に聞こえる。
心強かった。今すぐここに来て、加勢してほしかった。
しかし同時に、こんなアルトをクツナに見せていいのかという躊躇が、キリに応答をためらわせた。
キリは、繭使いの勝負なら、アルトに後れを取ったことはない。直接互いの繭を、それも敵意を持って扱ったことはなかったが、それでも自分の方が優位なはずだ。疲労はあったが、ここまでに繭使いを連発しているはずのアルトもまた、万全ではないだろう。一度アルトを無力化――できれば気絶――し、それからクツナを呼べば、それが一番いい。
アルトの指摘は当たっていた。キリは追い詰められた時、一人で立ち向かうことを選ぶ。
二人は互いに踏み出した。
開いていた距離が一気に縮まり、キリは息を呑む。アルトへの攻撃と防御を、同時にやらなくてはならない。攻撃に夢中になった隙をついて無力化されるわけにはいかないし、防御だけでもしのげる見込みはない。単純だけど、右手で攻撃、左手で防御。それでいくか、と考えた時、キリの思考が一瞬止まった。
――攻撃? 誰を? 防御? 誰から?
――私たちは、たった三人の……
キリの体から力が抜けた。肩が下がり、何かを言おうとして口を開く。
しかし、アルトは止まらない。
巨大な楽器を操作するかのように、荒々しく、しかし正確に。アルトの両手が、防御など全く顧みずに激しく動き、そのために自分の繭が壊されていくのを、キリは棒立ちで見ていた。
キリは才能と負けん気では、友人二人を大きくしのぐ。それが全くの無抵抗というのは考えていなかったのだろう、アルトの顔に狼狽が浮かぶ。しかし、一度発動した術式は淀みなく奔り続けた。
――あれ?
アルトの技にさらされながら、キリは思う。
――もしかして、アルト。
――私なら、止めてくれると思ってた?
繭の塊がいくつも無理矢理に削られ、強度を失ったところからちぎり飛ばされる。
キリの四肢から力が抜け、内臓の動きが弱まり、頭には霞がかかった。生命体としての機構そのものが弱体化していく。
――クツナにはできなくても、私なら、アルトを容赦なくやっつけてくれると思った?
――私なら、アルトに勝ってくれると思ってた?
二人の繭は触れている。繭使い同士だからこそ、今まで、お互いの繭を触れさせて、その心を深く読むようなことはしなかった。記憶と心を直接交錯させるのは、これが初めてだった。
キリは、独り言のように、けれど問いかけるように、胸中で告げる。
――アルト、あなたのことは許せない。
――でも、他にどうしようもなかった?
――私は、それに気づいてあげられなかった?
空中に放り出された光る糸の一本一本は、地面につく前に、風に溶けて消えた。
いくつかの大きな束が屋上の床に着くと、氷の粒が焼けた鉄に触れたように、砕けて散った。
――だめだな。
――こんなはずじゃなかったのに。
――私たちは、もっと……
やがてアルトの右手が、大きく空を掻いて、止まった。
「私たち、本当は……きっと、もっと――」
「僕の繭使いでは、人間を即死はさせられないけれど」
――でも……そんなの、夢みたいな、話……
「君の体を、極端に衰弱させた。……何を笑っている」
屋上に風が吹いた。せいぜい、紙くずを転がすくらいの、弱い風が。
キリはそれだけでたたらを踏み、なすすべなく、屋上の端へ流されていく。体の中身が抜き取られてしまったかのようだった。自分の体だとは思えない、ただの木偶人形が首から下に繋がれているように、軽く、情けなく、頼りない。
屋上の端には柵がある。キリは立っていられず、そこへもたれた。
今度は空き缶を転がす程度の風が吹き、キリは体が少し浮いて、柵を乗り越えてしまい、屋上のへりへと押し出される。
柵をつかもうとする手には、力が入らない。
「これから、……どうするつもりなの」
「なるようにして、好きに暮らすよ。多少身辺が騒がしくなるかもしれないけどね、大した問題じゃない。僕が殺人を犯したわけでもないから。僕の障害はほとんどが取り除かれたしね。生きやすくなると思う」
「欲しいものだけを手に入れるって、……本当の正解じゃないと思う。アルト、いつかアルトが、もし」
「もし、とかいつか、の話なんかしない」
「アルト、いつか、私たちが」
雨の混じった風が吹いた。
キリの体が、屋上からこぼれ落ちた。




