第四章 13 分かることもないまま砕けて消える
クツナは近くの交番で、そこにいた巡査に少女の居場所を伝えた。手短に彼女の環境を説明して道案内をし、やじ馬が増える前にその場を離れた。その場でそれ以上できることは思いつかず、ひとまず行政に任せようと考えた。少女はあまり大事になることを望まないかもしれないが、ことが少女個人で済むものではないので、中学生二人の手に負えることでもない。
その間に、キリはこの町を離れていた。
まだ痛みはかなり残るものの、なんとか自由の利く手でハンドルを握り、自転車を駆る。全身が、鉛の溶け込んだ泥になったように重かった。疲労と痛みで視界が狭まり、関節の稼働も鈍い。それでもやがて、クツナの家の前にたどり着いた。遠からずクツナもここへ戻るだろう。
キリはキクノとは充分に面識がある。細かい事情を告げずとも、少し休ませてもらうことは可能だろうと思った。手の痛みは続いており、冬だというのに額と背中に脂汗が垂れている。
そして徐々に、指の違和感にも気づきつつあった。しびれたようになって、感覚がひどく鈍い。少なくとも、何本かはもうこの先、繭の感触を得ることはできなさそうな気がした。これが指が切れるということかと、キリは一人嘆息した。だが、構わない。それだけの意味のあることをした。強がりでなく、そう思う。
「おばさん、キリです。お邪魔していいですか」
痛む人差し指の先でインターフォンを鳴らしながら、声もかける。
無言。
まだ昼前だったが、買い物にでも出ているのかもしれない。当然そうは思ったものの、キリは胸騒ぎがして、御格子家の引き戸を開けた。
家の中からは物音ひとつしない。しかし、玄関に鍵は掛かっていない。
「おばさん?」
そろそろと廊下を歩く。
そして、台所の床に横たわる、二人の大人を見つけた。天井近くから垂れて宙に揺れる、一筋のロープも。
「おばさん! おじさん!?」
とっさに二人の繭に触れる。クツゲンは気を失っているだけのようだったが、キクノの繭は活力をほとんど失い、こと切れる寸前だった。
二人の記憶が、キリの繭を通じて流れ込んできた。首を吊ったキクノ。それを発見して驚き、台所から包丁を持ってきてロープを切断したクツゲン。彼は、妻の首に巻き付いた輪っか状のロープも切って解こうとした時、背後から何者かに隙だらけの繭を操作によって意識を断たれ、気絶した。
一度ロープで吊ったせいで首の骨が折れているキクノは、キリの繭使いでどうにかできる状態ではなく、恐らくもう助からない。そしてキリは、この惨状を起こしたのが誰なのか、二人の記憶の中で、否応なく知らされた。
「嘘……」
膝をついて呆けそうになるのを必死で耐え、玄関へ戻る。誰か助けを呼ぼうとして、いや、その前に救急車かと思い至る。しかし救急車を呼んだところで無駄なことは、繭を見たキリにはあまりにもよく分かってしまっていた。それでも、呼ばなくては。混乱しているところへ、クツナが戻ってきた。開いたままのドアの前に立ち、ぽかんする。
「あれ、うちに来たのか……どうしたんだ? 何か、変だな」
まだ状況を把握していないクツナに、キリは叫ぶ。
「クツナ、今家に入っちゃ……ううん、違う、入らなきゃ……でも」
「キリ?」
「救急車、呼ぶの……!」
キリの切迫した声に、クツナは青ざめながら家に駆けこむ。
キリは自分の携帯電話で救急車を呼ぶと、再び自転車にまたがり、走り出した。
アルトを見つけなくてはいけない。見つけたところで、キクノを救うことができるわけではない。しかし、会わなくては。
キリはアルトの家へ向かって、激しくペダルを踏みしめた。
クツナもまた、両親の繭に触れ、おおよその事態を把握した。パニックに陥ったクツゲンを失神させるくらい、不意を突けばアルトには難しいことではなかっただろう。ただ、仕掛けられた術式は単に気を失わせるものだったので、目覚めさえすればクツゲンに後遺症は残るまいことは分かった。
問題はキクノの方だった。首を吊る前に施された、いや、その首を吊った原因となった繭使いが、あまりにも悪質過ぎる。
「アルト……くそ、どうして!!」
クツナは母親の体を慎重に抱きかかえ、施術室へ運び、作業台に乗せた。
キリが救急車を呼んでくれた気配は察していた。それまでの応急処置だけでもしておきたかった。しかし、どう見てもキクノは致命傷を負っていた。死にかけている。
これを治せるレベルの繭使いは、少なくともクツナの知る限りは、いない。呆然と立ち尽くしながら、クツナは自失しかけていた。
「クツナか?」
慣れ親しんだ声を、クツナは、ぞっとしながら聞いた。目を覚ましたクツゲンが、施術室の入り口に立っている。
「なぜだ……どうして彼は、俺たちを……」
よろよろと作業台に歩み寄るクツゲンの繭は、悲しみと怒りに満ちている。そして両手を一度左右に広げると、キクノの崩れかけた繭に指を入れた。
「父さん?」
クツゲンは息子に答えずに、繭使いを始める。キクノの致命傷を癒し、生命機構を万全に戻そうと、全ての知識と技術を動員しようとしていた。
それはクツナから見れば、谷底に落ちていく妻の体を、自分も奈落に引きずり込まれながら引き上げようとするようなものだった。だがクツゲンは、当たるべからざる勢いで指を躍らせる。
「無理だよ」
手法は無茶で、狙いは無謀だった。うまくいくわけがない。あまりにも強引な施術に、過度な負担はあっという間にクツゲンの指を侵していった。キクノの繭は触れられただけで砕け、激痛だけをクツゲンに与えて、治癒の可能性など一片も見せずに壊れていく。
戸惑いも、ひるみもしないクツゲンの指は、そのせいで加速度的に崩壊を早めた。
幼い頃から、繭使いを施す父の姿を見てきた。指は繭使いの命である。いずれ能力が失われてしまうとしても、その時までは大切に、一日でも長くもたせ、一人でも多くの繭を治す。そうして今日まで持たせてきた指が、一本、二本、と切れていった。いくつもの小さな奇跡を起こしてきた指が、無慈悲に死んでいき、もうこれまでの輝きを取り戻すことはない。物理的にちぎれて落ちるわけではないが、その光景はあまりにも痛々しかった。
クツナはそれを目の当たりにして、この家ごと、漆黒の悪夢の中に飲み込まれてしまったように感じた。
「父さん、もうやめてくれ。そんなことをしても、もう」
「理不尽だろう」
「父さん」
「認めちゃならないもんには、抗わなくちゃならんだろうが!」
「でも!」
クツゲンは頑なだった。
クツナも、それ以上は言葉にならない。
使える指が減れば、当然それだけ、繭使いとして扱える技術が減る。正確で穏やかだったはずの従来の指運びは、今は見る影もなかった。冷静さも、効率も、建設性も欠いたクツゲンの技は、クツナがこれまでに見た、もっとも無様な施術だった。
羽交い絞めにしてでも止めなくては。クツナがそう思った時には、クツゲンの最後の指――右手の親指が切れた。クツゲンがこの部屋に入って来てからここまで、時間にすれば一分もなかっただろう。それだけの間に失われたものの大きさに、クツナは絶望する。
そしてクツゲンは、もう繭に触れることもできない指を、それでも動かそうとした。
それを見て、クツナの背中に悪寒が走った。父がこの動きをやめた時。母の死を受け入れ、諦めた時。繭使いとしての指まで全て失われた状態で――クツゲンは、まともでいられるだろうか。
クツナはほとんど反射で動いた。父の後ろから、その繭に触れ、後頭部付近の一部を切断して気絶させた。クツゲンが全神経をキクノに注いでいる状態で不意打ちを仕掛けたのだから、いともたやすい。アルトもそうだったのだろう。
傍らに倒れた父の繭に、もう一度クツナは触れた。そして、今の無謀な施術と、アルトの所業の記憶の繭をクツゲンから切り取った。これが、いいか悪いかは分からない。しかし、そうしなくてはならないと思った。キクノが首を吊った記憶は残しておく。さもないと、知らぬ間にいきなり妻が死んでしまったことになる。さすがにそれば、父を重度のパニックに陥れるだろう。
施術台の上の、動かない母の体を見下ろす。
救急車のサイレンが近づいてきた。
クツナは、キクノの、すっかり脆くなった繭をなでた。さらさらと、ガラスの粉のように繭は崩れる。だから、それ以上触れるのをやめた。意識がなくても苦しんでいるかもしれないなら、せめて苦痛を感じる部分を繭使いで麻痺させてやりたかったのだが、それもかなわない。
それからすぐに、クツゲンが目を覚ました。そして、作業台に横たわるキクノと、その横で母の体に手をかざしている息子を見た。
アルトがこの家でしたことの記憶を失ったクツゲンだったが、キクノが首を吊ったことは覚えている。
――理由は分からないが、首を吊った妻。己の指は全て失われている。おそらく自分は自殺を試みたキクノの蘇生を試みて失敗し、無理な繭使いで指が切れ、その衝撃で気絶してしまったのだろう。
そうクツゲンは考えた。クツゲンも往年の繭使いだけあって、記憶の一部の繭が失われているのを悟っていた。息子が、あまりに辛い妻の蘇生失敗の記憶を、父親から消してくれたのだろう――と思った。繭を見る限り、どう見ても、もうキクノは助からない。
息子まで、叶わぬ死者蘇生のために指を失うことはない。作業台の横にたたずむクツナに、クツゲンは穏やかに声をかけた。
「クツナ。もうやめておけ」
「うん……」
この時、なぜキクノを死に追いやったアルトが、気絶して無防備であったろうクツゲンにダメージらしいダメージを与えずに立ち去ったのか、クツナが思い至ったのは少し後だった。
この「事件」の後にどう事態が転んだとしても、まだ中学生であるクツナには、生活の後ろ盾として食い扶持の稼ぎ役がいた方がいい。クツナを最低限路頭に迷わせないだけの保険として、クツゲンはほぼ無傷で残されたのだ。
そう気づいたとき、クツナはもう、アルトに人間らしい感情の理解が失われているのだと悟らざるを得なかった。けれど、なぜ。無意味だと分かっていても、虚空に向かってそう問う。
「ごめん、父さん……」
息子の謝罪は、友人が起こしたこの悲劇へのものだったが、クツゲンは、それを正確には汲み取れなかった。
救急車が御格子家の前に到着した。クツゲンは、息子が呼んだのだろうと思った。
そしてちょうどその時、クツナの眼下で、キクノの体は、呼吸を終えた。




