第四章 11 壊す者、壊れようとする者、庇う者
再び自転車にまたがると、二人は、他愛ない話をしながら先へ進んだ。
吐息が白い。その白の向こうの冬の空には鉛色の雲が広がっており、雨の気配があった。自転車だから降り出しては困るのに、キリと顔を見合わせると少し笑えてしまう。心を許せる人というのは、不思議だった。
しかし、そんな気分も、すぐに消え去ることになる。
「この辺りみたいなんだけど」
少女が指定してきたのは、昨日話をした公園とは違う、住宅街から少し離れた場所だった。通勤や通学途中の人もまばらで、そもそもの人通りがあまり多い場所だとは思えない。目につくのは、つぶれた店、柵の張られた空き地、ずいぶん古そうな木造の家がぽつぽつと。人はあまり住んでいないようだった。
「こんなところなのか?」
「うん。ええと、このポスターの貼ってある木の電柱の先の路地、ここに入る……と」
「本当かよ」
キリは、自転車を道端に停めると、路地裏に入っていく。クツナもやむなくその隣に駐輪し、すぐに取りに来ますからと、誰にともなく胸中で言い訳する。
前を行くキリの異変に、クツナは気づいた。明らかに歩みが遅くなっている。地面を見ながら歩いているせいだ。クツナも下を見る。黒っぽい染みのようなものが点々と続いていた。
裏路地の先、木造の建物と建物の間に、わずかに開けた空間があった。キリの中学の女子トイレが、ちょうどこれくらいの広さだったが。
そこに、昨日の少女が立っていた。右手に、果物ナイフを握っている。ランドセルは背負っておらず、身ひとつだったが、その服には赤いしぶきが散っていた。目の焦点が合っていない。
数瞬、クツナとキリは硬直していた。クツナは少女の繭を見る。
あのナイフはなんだ。あれは誰の血だ?
それから二人は同時に、少女の服の前面、胸と腹の辺りに、切れ目があるのに気付いた。少女は受傷している。それに、手にした凶器でこちらを攻撃する意志がないことも、繭を見れば読み取れる。
キリが叫んだ。
「ケガしてるのね!?」
びくんと少女の体が震え、目に生気が戻る。そして、泣き始めた。
「何があった!? いや、言わなくていい。ごめんね。いいからこっちにおいで!」
そう言いながら、キリは自分から少女に歩み寄った。少女はナイフを持った自分の手に、ゆるゆると視線を送る。
「手を見なくていい! 怖いでしょう? そう、こっち。大丈夫、君は大丈夫だから。連絡ありがとう、本当にありがとうね」
キリに抱きしめられると、少女はナイフを取り落とした。
繭を見る限り、少女の傷は浅い。しかし、放っておいていいことでもないはずだ。クツナは携帯電話を取り出し、救急車を呼んで人も呼ぼうと、路地裏から出ようとした。
「待って、行かなくていいよ、先にこの子を!」
「だから、ケガしてるんだろ!?」
「この子は、自分の家で何が起きたのか、自分が何をしたのか、大勢の人に知られることに怯えてる。体の傷よりもずっと」
直に繭に触れているキリは、既にクツナよりも多くの情報を得ている。それはクツナにも分かった。しかし――
「だからってな! キリが言ってたんだろう、感情で処理はしないって!」
「感情で優先順位をつけて何が悪い! 優しさは――」
キリの繭はほぐされ、糸となり、少女に接続されていた。
「――優しさは、絶対でも無限でもない……。足りなかったんだよ、全然。私も、ずっと一人でいたら、同じだったかもしれない」
キリは、少女をその場に寝かせ、すぐ脇に膝をつくと、服を胸の上までたくし上げた。
「傷は大したことない。私がきれいにふさげる。そうでなければ、救急車だったんだけど」
言いながら、キリの手が動き出す。その手腕に、クツナは改めて舌を巻いた。
外傷の施術に、キリが長けているのは知っていた。しかし目の前に進行する技は、クツナの想像を超えていた。クツナやアルトのように、親が師であるならばまだ分かる。だが、キリはほとんど自己流であるはずだった。動きには無駄が多いのだが、それを上回る速さは、クツナとは比べ物にならなかった。スピードだけなら、クツゲンに勝るとも劣らない。
少女の繭は、最初は頑なだったが、キリの繭とつながった部分からどんどん柔らかくなっていった。むしろ自分の安否をゆだねるように、塊からひも状へ、そして糸状へとたやすく形を変えていく。
クツナは手伝おうとはしたものの、キリの動きがあまりに我流であったため、手を出せずにいた。下手をすれば互いの手技が衝突して、邪魔になりかねない。
出血が止まり、少女の胸と腹にあった一筋ずつの切り傷が、両端から段々とふさがっていく。
浅いといっても、流血するほどの深さではあった。それがやがて、か細いあざのような跡を残して、傷はふたつとも消えた。
「次だよ。こっちが大変」
「こっちって?」
少女は目を閉じている。意識もあるのかないのか分からないが、繭使いの程度によっては、こうしたことは珍しくない。むしろ大人しくしてくれていたほうが助かるので、僥倖といえた。
「心の傷の方。この子には今まで、誰にも言えなかったことがあって……このケガは、それが原因なんだね」
キリは繭を通じて、少女の記憶にアクセスしていた。これは一旦つながった以上、相手のことなど知りたくなくてもある程度起きてしまう現象だった。
しかもたった今起きた「事件」は、あまりにも今の少女の精神の大部分を占め、その原因となった人間関係は繭に強く表出している。
「この子を傷つけたのは、お父さんなんだよ。こんな小さなナイフじゃない、包丁みたい……。今までにも暴力は頻繁にあったけど、刃物を使われたのは今朝が初めて。この子は、母親と、弟を守るために……今まで父親が暴発しないように、ずっと耐えてた。そうすれば、家族は一応形を保ったままいられるから。でも今日、刃物で傷つけられた時、その怖さと痛みは、この子に我慢できる限界を超えた。この子こそ、とっくに暴発してもおかしくなかったのに。それで自分もナイフを手に取った」
キリは、十本の指を動かして、少女の繭を整えていく。乱れを戻し、しかし戻しすぎず、これから始まる施術に適した形に変えていく。
「この子は果物ナイフで、父親のお腹を刺した。手ごたえからすると、あまり深くはない。でも、父親は叫びながら逃げていった。この子は、どうしたいいか分からなくなった。母親も弟も、家の外では、父親の暴力を内緒にしてた。この子もそう。家族として一応は作り上げられていた形を、壊してしまうのが怖かった。でも、お腹から血を流して走り回る父親が、騒ぎにならないわけはないから。今までとは変わっちゃうね、とても」
クツナの目に見えている少女の繭は、異様な動きをしている。断末魔の虫か貝のように、もんどりうってねじれるのを、キリがなおもなだめるように整える。
「自壊しようとしている……のか」
「自分さえ頑張れば、今まで通りに耐えれば、家族はバラバラにならずに済んだ。そう思ってるね。強い恐怖感と自責の念があって、そのせいで、なんだっけ、炎天下じゃなくて」
「厭世感か」
「それそれ。凄く、ここからいなくなりたがってる」
少女の繭の動きが大人しくなってきた。ようやくキリが施術に入れる。
「でも、君は、私を呼んでくれた。どこかで、助けてほしいって……まだここにいたいって、少しは思ってくれてもいるんだって、信じて、いいよね」
キリの指が踊り出す。活力を失いつつある少女の繭を励ますように、支え、汲み上げ、補強する。
横で見ているクツナにも、少女の精神は、繭に露わに映った。なぜそこまでして父親の横暴に耐えていたのかといえば、愛情のためではない。そんなものはとっくに尽きていた。ただ――……
「『普通』に、憧れてたんだよね」
キリが、端的な言葉にする。
「手に入ると信じてた。普通なんて、少なくとも努力さえすれば手に入るものだって。だって、普通なんだから。その可能性をゼロにしないために、この子は、ここまでやらざるを得なかった。そういうことだよね。少し分かるよ、私も……そうだったから。その当り前さに、どんなに憧れたか。ごめんねクツナ、私ね、お母さんとのことで、クツナたちにも言えないこと、たくさんあるの」
以前、クツナはキリに、親のことで羨ましがられたのを思い出した。キリのことはいくらでも知っている。しかし、知らないことも膨大にある。知られたくないことも、知ってはならないことも。
そして繭使いとしては非凡極まりないキリが、「普通」を切望している。ひどい皮肉に思えた。
「ダメだ、この子の繭がどんどん萎れていく。これじゃ、心が壊れる……」
キリは泣いていた。それでも、その指はさらに速度を増していく。だが肝心の繭自体が壊死してしまえば手の施しようがない。次にキリが何をするか、クツナはすぐに感づいた。
「おい、キリ。お前、まさか」
「クツナはだめだよ。終わった後、私を頼むね」
その肩をつかもうとしたクツナよりも早く、キリは、自分の胸元に右手を当てた。そして、そこで光っている己の繭をつかみ、引きはがす。左手の指で、体とつながった糸を切り離すと、右手の中の繭の塊はソフトボール大に丸まった。
「ぐううううッ!」
「やめろ!」
クツナは、声による静止しか、ここに至ってはできなかった。
それほどデリケートな行為だった。自分の繭を、他人に移植しようというのは。




