第四章 3 過去はいざなう
あてもなく歩いているので、見覚えのない道から道へと進んでしまう。やがて、クツナの家とは別の地区の住宅街に入った。
やおら、一組の男女のもめる声が聞こえた。
「急に殊勝になったって、それで今までやったことが消えるわけじゃないんですからね!」
「分かった、分かってる。悪かったと思ってるんだよ」
シイカは塀の角に身を隠し、二人を見る。男の方の声には聞き覚えがあった。顔を見て確認する。吉津だ。
吉津を怒鳴りつけているのは、痩せている吉津よりもやや体格のいい中年の女だった。吉津は少し腰を曲げ、頭を下げた格好をしている。
「うちはね、防犯カメラだって買ったんです。あなたが何をするか分からないから、怖くって」
「家に何かしたことなんてねえだろう……」
「怖いものは怖いんです。家族のない人には理解できないんだわ。こっちにはあなたと違って、守るものもあるんですから」
一応敬語ではあるが、女の言い分はかなり威圧的で、聞いているだけのシイカも気分が悪くなる。しかし、吉津は怒り出すでもなく女の言葉を聞いていた。少なくとも、すぐに激昂し出すようには見えない。
「吉津さん、我慢できてるんだ……」
「ただそれが、いいことと言えるのかな」
「えっ!?」
いきなり背後から語りかけられ、シイカは飛び上がった。振り向くと、一人の男が立っている。灰色の目。灰色の、長い髪。見覚えがある――気がする。しかし、誰なのかは分からない。
シイカの悲鳴を聞いた吉津たちがこっちを向いた。慌てて隠れるシイカをよそに、灰色の髪の男はつかつかと二人に歩み寄っていく。
「屑みたいな飛び方をする鳥から、助けてくれと言われた時。クツナなら、その羽を治してやろうとするんだろうな」
「……なんだ、あんた?」
いぶかる吉津の胸の辺りに、男――真乃アルト――が手を伸ばした。シイカは、アルトが吉津の繭をつまんだのに気づく。
「僕なら羽ごともいであげる。少なくとも周りには面倒をかけずに済む」
アルトの両手が空中で踊った。クツナのそれとは違う、繭の持ち主のことを一切顧みない、速いが暴力的な手技。
吉津がぺたんと尻餅をつく。アルトは、後ずさりする女の繭も捕まえ、同じように繭を繰った。女もその場に座り込んでしまう。
二人の様子は異様だった。落ち着いたというよりも、完全に気が抜けてしまったようで、口を半開きにして中空を眺めている。
シイカには、その状態に見覚えがあった。どこで見たのだったか。
――そうだ。これは、ついこの間――
「知ってるみたいだね。そう。僕の父親と同じにしてやっただけ」
「ち、父親? じゃああの家の……」
クツナとともに訪れたある夫婦の家。車椅子に乗った男性。今の吉津たちは、その様子とそっくりだった。
「この二人は父よりもっとずっと軽症だから、もうちょっとすれば、勝手に立ち直るよ。ただ一時、大人しくさせただけだからね。まあ、完全に元通りとはいかないけど。ねえ、こっちに来なよ。鳴島シイカさん」
そう言われても、シイカの足は震えて動かなかった。何が起きて、あの二人はどうなってしまったのか、この人物があの老人のような男性の息子とはどういうことなのか、頭はすっかり混乱してしまっている。
それを見て、アルトの方からシイカの前に来た。
「今日はちょっと、見たくもない顔を見たからね、気分が悪いんだ」
「あなたは……」
「それはもう飽きたと言ったろう。君も少し、僕の意地悪に協力してくれ。それ以上のことは君には何もできないだろうし。あいつと直接会ったのに、なんにも全然、思い出していないんだろう?」
「思い出す? ……あの、」
アルトの指が、シイカの目の前で踊った。
「少しは面白くしてくれよ。もうそろそろ、クツナの奴についても、潮時だと思っているんだ」
クツナの父、クツゲンは、玄関前に打ち水をしようとしていた。夏とはいえもうすぐ日が暮れそうだが、この時間帯に水を打つのも効果的なのだと、母親が生前教えてくれた。
「クツゲンさん」
「おお、鳴島さん。どうした、忘れ物か」
クツゲンも当初からシイカには自分のことを名前で呼ばせているが、そのおかげもあってか今ではだいぶ打ち解けてきていた。愛想がないクツゲンの表情に、確かにシイカへの好感がにじんでいる。
「少しお聞きしたいことがあるんです」
「家の中の方がいいか」
こくりとうなずくシイカとともに、クツゲンは居間に向かった。二人で、向かい合わせにソファに座る。
「なんだ、クツナには言いづらいことか」
「私、クツナさんのことが好きなんです」
ペットボトルの茶を入れたクツゲンの湯飲みが、その口元でぴたりと止まった。
「本当かね。それはまた。まあ、起こりうることではあるか。驚いた」
「私、今日、季岬キリさんという人と会いました。あの人は、クツナさんの何なんですか」
「季岬……」
湯飲みを置いたクツゲンの眉が、二三度揺れた。
「そうか。どんなだった?」
「落ち着いた、大人の女の人って感じでした」
「俺の知る限りでは、クツナの幼友達ということだがな。ずいぶん仲が良かったようだが、クツナの母親が死んだ後のいつだか、どこだかに引っ越して行った……いや、あいまいで済まない。それだけ俺とは疎遠になったんだが、クツナはそれからも時折会ってはいたかもしれん。俺は名前を聞いたのも久しぶりだ。しかし、当時はずいぶんお転婆だったような覚えがあるな。まあ、女の子は変わるか。いや、クツナが変わらんだけかな」
「クツナさんにとって、そんなに大事なお友達なんですね」
「ああ。もう一人男の子が――クツナの従弟なんだが、その三人でいつも遊んでいた。その子も、別の土地に移って、クツナの身辺は急に寂しくなったもんだ。母親と友達二人が段々にいなくなったわけだからな。しかし、昔のことなんて今聞いてもさして役に立たんと思うぞ。愚息のどこを気に入ってくれたのかは知らんが」
「ありがとうございました。帰ります」
「おお。また今度な」
シイカは、そのままクツナの家を後にした。
クツゲンは、少しシイカの様子がおかしいような気はした。いつもならば、こんな風に要領よく用件だけを済ませて去るようなことはない。
が、思いがけない告白の方に気が行って、特に追求する気にならなかった。




