第四章 2 来訪者をシイカは知らない
施術室の掃除を済ませたシイカがクツナの家を後にすると、外はまだ明るかった。もう少しクツナと何かおしゃべりしてもよかったかもしれない。もっとも、シイカには世間話の才能などないので、すぐに話に詰まってしまいそうではある。
「次に来る時は、話題のリストでも作っておこうかな」
「リスト?」
「はいってうわあ! なんでいるんですか」
シイカのすぐ後ろの路上に、さっき玄関で別れたばかりのクツナが立っていた。
「いや、駅まで送ろうと思っただけだ。まだ明るいからうっかりしていたが」
「いいですよ、今日は。リストもありませんし」
「だからなんだ、リストって」
これまでにもクツナは何度もシイカを駅まで送ってくれている。まっすぐ向かえば十五分ほどで着くのだが、毎回シイカは、その道すがらで何を話したらいいのか、話題には苦労していた。学校で友達と話す経験が極端に乏しいせいで、特に意味のない話というものを、どう展開させていいのかが分からない。繭使いの客のことは外で話題にすることはできないし、他に共通の話もない。クラスメイトたちは一体何を毎日毎日、友達らとあんなに話しているのか、シイカには皆目見当もつかなかった。
ただ、クツナともっと何か話していたいという気持ちはある。先日の尾幌エツとの一件で、クツナがシイカの交友関係の乏しさを心配してくれていたことも分かった。
アルバイトとして繭使いの手伝いをしに来ているシイカのことを、仕事の領分を越えて、自分以上に考えてくれている。
せめて、クツナと一緒に過ごす時間の心地よさを伝えられたらと思うのだが、シイカにはその方法が分からない。
ともすればすぐに沈黙しがちなシイカのことを、クツナが疎ましく思っていたらどうしようと不安になるのは、最近ではしょっちゅうだった。
クツナの存在は、シイカの中で確実に大きくなってきている。少しでもクツナの役に立ちたいし、繭使いの負担を和らげてあげたいと思う。しかし、それを言葉で直に表現するのはあまりに難しかった。
「今日は僕も、ちょっと電車に乗る用があるんだ。約束は夜だが、多少早く出ても問題ないからな」
「クツナさんて、友達がいるんですか」
半眼になるクツナを見て、シイカは自分の表現のまずさに気づく。これだから会話というのは困りものだ、と胸中で泣いた。
「あの、そういう意味ではないので」
「他のどういう意味にとれるのか甚だ疑問だが、まあいい。一応、約束している相手は友達だぞ。れっきとした」
クツナの声に若干の棘は感じたが、そうこうしているうちに二人は伊村橋駅に着いた。
「ん?」
クツナが何かに気づいて改札を注視した。そこには、一人の女性が立っている。目が合うなり、その女はつかつかとクツナに近寄ってきた。
「久しぶり、クツナくん」
「ああ、久しぶり。なんだよ、こんな時間にこんなところまで来て。十九時に天内で待ち合わせじゃなかったのか」
突然のことにたじろぐシイカだったが、それよりも驚いたのは、クツナの声と眼差しの優しさだった。仕事柄、クツナは繭使いのヒアリングの時は努めて穏やかな態度でいるし、仕事の前後でシイカに威圧的な態度をとったことなどない。しかし今のクツナの態度は、そのどちらの時とも明らかに違った。ほんの一言二言に、陽だまりの中でぬるんだ水をすくい上げるような、穏やかさと慈しみが満ちている。
女は、クツナと同年齢程度に見える。目は吊り気味だが、きつい印象はない。ややブラウンのかかった黒い髪が、肩甲骨の辺りまで伸びていた。シックな濃いグレーのトップスに、アイボリーホワイトのスカートがよく似合っている。細かい細工のついた赤い鞄を見て、もしかしてこれが差し色というやつだろうか……とシイカは思った。全体的に大人っぽく、自分には到底選べない、そして着こなせない服装だった。
「夫と離れて自由時間てこの頃あまりなかったから、つい開放的になってしまって。この街も、けっこう変わったのね」
「それは変わるさ。なんだって変わるだろう」
「その言い方、クツナ君ぽいね」
くすくすと笑う女性は、屈託なくも、成人としての落ち着きを漂わせていた。クツナの横に立つ姿が、似合い過ぎるほど似合う。
「夫は夜には合流できるから。それまで、予約したお店の近くで何か飲んでいようよ」
「そうだな。ところで、こっちのこの子だが」
二人が急にシイカの方を見た。不意のことに、シイカの鼓動が強く脈打つ。
「僕を手伝ってくれてる、鳴島シイカだ。鳴島、こっちは季岬キリ。僕の、古い友人だ」
既婚者の友人。当然ながら、クツナには自分がまだ知らない私生活がたくさんあるのだと、シイカは改めて思う。
「鳴島さんね、初めまして。手伝うっていうと、お仕事を?」
「そうだ。塾のアルバイトだな」
え、と顔を上げたシイカにクツナが目配せし、それを見たシイカは話を合わせた。
「そうなんです。ク……御格子先生には、いつも色々、教えていただいていて」
ややつっかえながらも、なんとかそれくらいは言える。
「電車は、鳴島とは反対方向になるな」
「は、はい。それじゃ、御格子先生、また」
クツナとキリが背を向け、改札へ歩き出す。
「あの、御格子先生」
「ん? どうした」
呼び止められて戻ってきたクツナに、シイカは小声で聞いた。
「季岬さんが、クツナさんの言ってた、異性の親友ですか」
シイカにすれば、ちょっと聞いてみたかっただけだった。
しかし、クツナが、わずかに息を飲んだ。
あれ、とシイカが思うのと同時に、クツナが答える。
「そうだ。僕などよりもずっと立派な、尊敬できる人間だ」
「そう、なんですね」
クツナがまた背を向け、改札の向こうへ消える。気にかけるように何度か振り向いてくれたのは嬉しかったが、シイカの胸には空虚感が広がっていた。
このまま家に帰るのが、なんとなく嫌だった。まだ日は高い。シイカは、電車に乗るのは後にして、久々にこの辺りを歩き回ってみることにした。登下校の際の、散歩という名の徘徊をやめてからというもの、運動不足なのかどうも体がなまっているがしていたので、ちょうどいい。
歩き出しながら、シイカはさっきの二人のことを考えていた。あの季岬キリという人物は、以前クツナから聞いていた人物像と随分違う。確か、向こう見ず、無鉄砲……そんな言い方をしていたはずだ。本当に同一人物なのだろうか。




