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棘を編む繭  作者: クナリ
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第三章 12 尾幌エツの正気の苦悩

「御格子さん、今さらそんな」

 気色ばむ茎川を、クツナは目配せで制する。そして、穏やかな目をエツに戻した。

「だから、そんなに怖がらなくていいのです」

「私、怖くなんてありません。そんなこと……」

「僕が言っているのは、こんなうさんくさい男がのこのこやって来て何かあなたに施したところで、きれいさっぱり消えてしまうほど、あなたの気持ちは軽いものではないということです。だから、不毛でもなければばかみたいでもない。勿論、そんなにもあなたが苦しんでいるその想いは、偽物でもない」

 エツは、クツナに向けた目を見開いた。

「あなたが怯えているのは、気持ちを消去されることではありませんね。いとも簡単にそうされてしまうことで、茎川先生への想いが、本当はとるに足らないものだったと証明されてしまうことですね。安心してください。そんなことにはなりません」

 生徒指導室が、つかの間、沈黙に包まれた。シイカには、クツナの目に、エツの繭がどんな風に見えているのかは分からない。しかし恐らく、正鵠なのだろう。

 しばらくして、エツが口を開いた。

「……私、男の人に、こんな気持ちになったの初めてなんです。自分ではどうしようもないくらい膨れ上がっていく感情が、疎ましくて、怖かった。でも、どこか、誇らしい感覚もありました。先生から、繭使いという力で私を今の苦しさから解放したいという話を聞いた時、別の怖さが噴き出しました。こんなに苦しいのに、そんなに簡単に消してしまえるなんて、私、自分の感情がもう、一生信じられなくなりそうで……」

「あなたは、とてもまともですよ。だからこそ苦しむ。苦悩から解放されるのに一番手っ取り早いのは、全ての苦悩を周囲に押し付けて、自分だけは気楽に生きていくことです。そうすると、人は一切ストレスを抱えることなく、驚くほど楽に生きられる。でも、それが決してできない人もいる。僕がするのは、そういう人の生きやすさのお手伝いです」

 クツナが目元で微笑んだ。シイカがふと見ると、クツナの手から延びた糸がエツの手に触れている。クツナの気持ちは今、誤解なくエツに伝わっていることだろう。その証拠に、エツの顔から思い詰めた気配が薄れている。

「尾幌先輩、私……ごめんなさい、先輩のこと、騙して……」

「シイカちゃん、言い忘れてたけど私、シイカちゃんと話していて楽しかったよ。騙されてたなんて思ってない。辛かったでしょう、私こそごめんね」

「わ、私なんて……私こそ……」

 エツは、シイカの頭をさらさらとなでた。

「御格子さん、でしたよね。私、先生のことは本当に、諦めたいと思っているんです。でも、どうしても自分ではだめでした」

「先の通り、あなたの気持ちを消し去ったりはしません。ただ、ひとつの区切りをつけても構いませんか」

「はい。お願いします」

 エツの目元は赤く腫れていたが、瞳には力強さがあった。

 エツの体を包む繭が、シイカの目に、いよいよ鮮やかに形を成してきていた。その一番外郭に、クツナの指先が触れる。

 始まる。

「尾幌さん。ひとつ、伝えておきます」

「はい」

「茎川先生は、僕に、繭使いについてあなたに教えたことは内緒にしていました」

「そう、みたいですね」

「そうすることで、彼が何を最も望んだのか、今の僕には分かります。あなたが繭使いによる失恋を受け入れる気でいると、彼が僕には教えなかった理由が」

「……理由、ですか」

 エツがちらりと、茎川を見た。

「尾幌さんが僕の施術を受け入れることで、あなたが()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と、茎川先生や僕にとらえられてしまったら、あなたが深く傷つくと考えたのです。あなたの恋は決して軽薄なものではないと、茎川先生は分かっていた。あなたは、彼にとってとても大切な生徒なのですね」

 エツの動きが止まった。目が見開かれ、口元が震えている。その唇から、かろうじて、

「先生」

と言葉がこぼれた。

「うん」

と茎川が応える。

「好きです。大好き。本当です」

「疑ったことなんてないよ。信じてもいる」

「好きです。好き……」

 エツの目からしずくが流れ、顎の先から、スカートに落ちた。

 クツナの指が動き出す。一番目立つ、桃色がかった繭の塊を五本ほどの太い紐に分け、巧みに指で押さえながらさらに細かく割っていく。

 シイカが差し出した手に、そのうちの何本かがかけられた。もう何度も味わっている、刺すような痛み。それが今日はひときわ、鮮烈に弾ける。

 クツナの右手の親指と人差し指が、円を描くような動きをした数瞬後で、シイカにはようやく、異なる場所から伸びた糸の束を結わえたのだと分かる。

 複数――十数本――の糸を同時に操りながら、その中の一本も、ピンと張りつめさせずにクツナは施術を続ける。繊細な糸は、それだけで切れてしまうこともあるからだ。必要があって糸を切断する時は、細心の注意を払って、しかし素早く断つ。ちぎるようにではなく、ほどくように。

 生徒指導室の中は空調が効いていたが、クツナのシャツの背中には汗がにじんでいた。シイカもまた、クツナが糸を操りやすいように手の向きや糸の持ち方に気を配っているうちに、痛みのあまり顔中に汗を浮かせていた。頭の中でかいた汗で、しびれるような痒みがある。しかし、そんなことに構ってはいられない。それにそんな痒みなどより、糸に触れている手の方があまりに痛くて、それどころではない。

 エツは目を閉じている。糸が解かれ、切られ、つなげられる度、まぶたの内側でかすかに目が震えている。

 クツナの手が速さを増していく。既に「切れている」二本を除いた八本の指は、まるでそれぞれが別の生き物であるかのように自在に動きながら、明確にひとつの意志を持っていた。好き好きに暴れているように見えて、少しして初めて、恐ろしく調和のとれた施術が成されていたのだと分かる。

 繭使いについて少しずつ理解が進んできたからこそだが、自分の目に映るその手技がいかに優れているものか、シイカは今さらながらに舌を巻いた。邪魔をしないよう、しかし役立たずにはならないよう、シイカも神経を集中して糸の保持役に徹する。

 やがて、激しくも丁寧に動き回っていたクツナの指が、徐々に速度を落としてきた。開いた傷口を手のひらで閉じるような穏やかさで、結んだり束ねたりした糸を紐状に成形し、それが次第に布状になり、さらに厚みを増していく。

「鳴島」

「は、はいっ」

「右手は空けられるな? その、右側の二本の糸を、僕に合わせてより合わせろ」

「わ――私がですか!? クツナさんに合わせて?」

「僕に手が三本あれば自分でやっている。今の鳴島ならできるさ。さ、行くぞ」

「でも」

「鳴島。尾幌エツさんのために必要な手順なんだ。君もやれるな」

 額から汗を幾筋も垂らしたクツナの目元は、わずかに微笑んでいた。その表情に、シイカの覚悟が、急に決まった。

「わ、分かりました。どうぞ」

 クツナが両手にそれぞれ持った糸の束をねじるように組み合わせると、束同士の先端が繋がった。同時に、シイカも二本の糸を、右手の五指全てを使ってより合わせる。クツナならばもっとスマートにやれるのだろうが、シイカにはそれで精一杯だった。しかし、重なった糸は自然に一本になり、クツナがそれを自分の手元にある束と繋げる。

 それを合図にしたように、解かれていた繭が、ほぼ元の形に戻った。しかし、さっきまでよりもずっと落ち着いた、深みのある色をたたえている。

 クツナが短く息をついた。それを見て、シイカも深く深く呼吸して、脱力する。じんじんと手首の先が、余熱のような痛みを伝えてくる。目には涙がにじんでいた。心臓の鼓動の激しさを自覚する。

「よくやった、鳴島。助かった」

 終わった。

「終わりましたよ、尾幌さん。気分はどうですか」

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