第三章 11 いつもあなたのことを考えています
いつも彼女を助けてくれた幼馴染みが、恋人を作った。
もちろん、彼女は幼馴染みの交際を祝福した。自分のことのように喜んだ。それは嘘ではない。しかし、胸に穴が空いたような空しさと、毎日の生活空間が急に狭窄した感覚に、苦しくなったのも事実だった。
そんな時、一人で科学準備室にいた彼女に、いつもよりも優しく接してくれた教師がいた。
教師はどうやら、彼女の幼馴染みに交際相手ができたことを知っていた。
人付き合いの苦手な彼女にとって、事情を知る親しい他人の存在は貴重だった。
ある日、二人で実験器具を片付ける時、床のコードにつまづいてしまい、教師に抱きつく形になった。
温かかった。
その温かさに涙腺が緩み、彼女は、今の自分が感じている寂しさと戸惑いについて、洗いざらい教師に伝えた。
教師は、困ったように笑いながら全て聞いてくれた。実際、それ以上のことは何もできなかっただろうが、どんなに支離滅裂な、感情任せのとりとめもない話も、うなずきながら受け止めてくれた。勝手で一方的な話をただただ聞きながら、彼女を矯正しようとしたり、無責任な助言を告げてきたりもしなかった。
この人は信じられる。
他人に対してそう思えたのは、いつ以来だっただろう。
気がついた時には、彼女は、教師を今までとは違った目で見つめるようになっていた。
なぜそうなったのかと聞かれれば、彼女にも分からない。
ただ、――……
あの温かさを、自分だけに向けてほしい。
その望みが、今まで彼女自身経験したことのない激しさで、彼女の体を満たしていた。
たとえその充足が、同じだけの大きさで、悲しみを連れてくるとしても。
■
欧華橋高校の生徒指導室は、本校舎の二階にある。
放課後、シイカ、エツ、茎川の三人が部屋の中にいた。
小さなテーブルを挟んで、窓側に、思い詰めた表情の茎川。出入り口であるドア側にシイカとエツが座っている。古く小さなソファはあちこちが破れていた。
「先生、何の用ですか。私、てっきり告白の返事がいただけると思ったんですが。シイカちゃんまでここに呼んでいるとなると」
「尾幌。僕の答は決まっている。生徒と交際はできない」
静かに、しかしきっぱりと茎川は告げた。
「あと一年半で卒業します」
「世の中、色々な価値観がある。僕の価値観では、生徒は卒業しても生徒だ。卒業したからといって、恋愛対象にはできない」
「今の時代、そんな」
「時代は関係ない。僕がそういう人間だから。僕が知る限り、君だって同じ価値観のはずだ」
一度決めたら気を持たせないのが、茎川の流儀らしかった。言葉は丁寧だが、頑とした拒絶が、シイカにも伝わってくる。
「尾幌。会わせたい人がいる」
生徒指導室に、もう一人が入ってきた。クツナである。
「はじめまして、尾幌エツさん。御格子クツナと申します」
「……はい」
エツは、クツナに会釈した。
シイカは、あれ、と思う。初めて会う見知らぬ他人が、こんなにデリケートな場に招かれたというのに、驚きもしないエツが不自然だった。
クツナが、横からパイプ椅子を出してその脚を広げ、テーブルの空いている一辺の前に座った。右手に茎川、左手にエツとシイカを控えて、少し前屈みになってエツの顔を軽く覗きこむ。
「尾幌さん。あなたは、僕がこれからあなたに何をするか、ご存知なのですね」
「えっ」
声をあげたのはシイカだった。対照的に、エツは落ち着き払っている。
「ええ。私の、先生への気持ちを、消してしまうんですよね。ここにいるということは、シイカちゃんも御格子さんの関係者ですよね」
茎川とシイカが、思わず顔を背けた。
「茎川先生、僕は、尾幌さんに繭使いのことを既に教えていた先生のことをとがめるつもりなどありません。確かに、繭使いの存在は、世間に広く知られることはありがたくない。しかし施術を受ける尾幌さん本人については、むしろ、知ってくれている方が好都合だ。本人が納得いかないままやろうとすると、どうしても多少強引になります」
シイカは、昨日エツから受けた違和感の正体に気づいた。エツは、遠からず、自分の恋を無理矢理終わらせる存在が現れることを、茎川から聞いていたのだ。繭使いのことを知っていた。だから、シイカという闖入者に対しても、喜びながらもその正体を疑ってもいた。
エツは、シイカを見て微笑んだ。繭使いの事前調査のためにエツに近づいたことを、責める様子はない。エツは既に、胸中で覚悟を決めていた。
「私、……喜んで気持ちを操作されるわけではありません。でも、先生が私のためを考えてくれているのが分かるから……だから。先生を、困らせたくもありませんし」
「それに、あなた自身も苦しんでいる」
エツが、スカートの膝に置いた手を強く握った。唇を噛んでいる。その歯の隙間から、うめくように言葉が漏れた。
「私、自分が、こんな人間だと思っていませんでした。善良かどうかは分かりませんが、少なくとも、衝動を理性で制御できるタイプだと思っていたんです。いつか誰かを好きになっても、こっそり諦めたり、気のせいだとごまかしたり、消極的な恋愛をするだろうって。でも、違った」
涙の筋が頬を伝う。エツはそれを拭いもせず、茎川の方へ顔を上げた。
「いつも、先生のことばかり考えています。いつまでも学校に残って、先生が帰るところを見送ったり。私、先生の住所をもう知っています。人には言えないような方法で調べたの……。茎川先生が生徒を好きになんてならないって分かってる。不毛で、ばかみたいだって自分でも思うのに。告白なんて、……私、自分の感情を抑制できないなんて……」
シイカはようやく、茎川が生徒からの恋愛に悩んで依頼に来た事情も、クツナがそれを受けた理由も分かった。茎川はこのエツの苦悩を知っており、クツナはそれを茎川の繭から読み取ったのだろう。
シイカは、隠しきれずにまなじりに苦痛を浮かべている茎川を見て、どれだけ悩んだのだろうと思った。当事者として、教師として、直接的にエツを救済したかった。しかし、この場合の茎川はあまりにも当事者に過ぎた。やむをえず、第三者に頼った。それがこの、「大きなお世話な依頼」だったのだ。そう気づく。
「個人的な意見ですが。誰だって誰を好きになって悪いわけがないし、告白だってしていいと思いますよ」
エツはうつむき、ぶんぶんと頭を横に振る。シイカの目にも、段々と、エツを包む繭が見えてきた。あまりにも激しい思いが、強く繭を顕現させている。自身を受動的な人間だと評価していたエツは、全くこの感情を処理できずにいるのだろう。
「尾幌さん、先に言っておきます。僕は、あなたの恋愛感情を消してしまうわけじゃない。いや、正確に言うと、それはそんなに簡単に消せるものではない」
驚いた様子を見せたのは、エツと、茎川だった。




