第一章 <六月 夜明けの月が見ていた>
私は泣き叫んでいた。
どうしてかは覚えていない。
でも、今でも時々夢に見る。
「何があった!? いや、言わなくていい。ごめんね。いいからこっちにおいで!」
誰かが私を助けようとしている。
私は、赤い――赤い、自分の手を見る。そしてさらに泣く。
「手を見なくていい! 怖いでしょう? そう、こっち。大丈夫、君は大丈夫だから」
優しい手が上の方から降りてきて、私を抱きしめた。
細くて優しい腕。
私はナイフを取り落とした。
穏やかな熱が私を包む。柔らかい。お母さんとは違う、誰かの両腕の中。
「待って、行かなくていいよ、先にこの子を! 感情で優先順位をつけて何が悪い! 優しさは――」
だって、その人は――その人も――
「――優しさは、絶対でも無限でもない……」
子供のように、泣いている……
■
鳴嶋シイカは、目が覚めるとまず、また目を閉じる。布団と一緒に自分を包んでいる、体温と同じ温かさの空気を乱したくないからだ。
また朝が来てしまった。
徐々に、自分を形作るものを思い出していく。
女。高校二年生。帰宅部。趣味、特になし。家族は母と弟。父は幼い頃に出て行った。
地方都市の二階建てアパートの二階。三間の部屋のうちのひとつ。小さな、物の少ない、自分の部屋。
布団を剥ぐ。
寝不足気味のためのよろよろとした足取りで、別の部屋で寝ている母親と弟を起こさないように静かに歩いて、玄関脇のキッチンへ向かう。
顔も洗わず、シャワーもトイレも使わず、ただ物音を立てずに制服に着替えた。
洗面所で鏡だけは見る。肩までの髪を簡単に直してから、口角を左右の人差し指で持ち上げた。
「えへへ」
自分は笑顔を作れるのだということを忘れないため、一人で小さな笑い声を出してから通学カバンを持ち、無音の中で家を出る。
六月の朝、五時過ぎの空気は湿っている。水の中へ泳ぎだすような気持ちで、シイカはアパートの階段を下りた。
本当にここが水中だったらいいのに。そうしたら、中学二年生の弟が最近身にまといだした不愉快な男の匂いや、母親の香水や化粧品や、いろいろ混ざりすぎてただの悪臭になっている家の匂いを洗い流せるのに。
これから学校が始まるまでの時間、どこでどう時間をつぶそう。毎朝悩むのに、家にいたくなくて、こんな時間に出てきてしまう。
私は何をやっているんだろう。それを考えると、泣きそうになる。
そんな悲しみを、見ないふりをする。
この頃、そんな風に自分の気持ちから目をそらすと、決まって抱く感覚があった。自分と世の中をつないでいる線が、一本ずつ切れていくような、背筋が冷えるような不快感。
すべての線が切れてしまったらどうなるのだろう。
考えたくもなくて、無人の路地で、シイカはかぶりを振った。毛先の荒れた髪が、空気中の濃い水気を吸って、少しはねた。