第三章 <七月 地を這う星々のエチュード>
最初は、自分にも同じことができるのではないかと思った。
それくらい、目の前の人物は当たり前のように草むらの中にしゃがみこみ、傷ついた野ネズミの足を治した。
特別な道具を使った様子もない。ただ、野ネズミの上で手のひらと指をくるくると動かしていただけだ。
目の前の人物は、いたずらっぽく笑った。自分よりも年上のはずだが、子供っぽい笑顔がよく似合っていた。
自分が、人と話すのが得意ではないことは分かっている。しかしこの人は、自分がたどたどしく話す間も、せかしたりいらついたりすることなく、ただ聞いていてくれた。
特に、「ゆっくり話せばいいよ」などと言わずに、ただこちらが話し終わるのを待ってくれているのが嬉しかった。
いずれ自分が大きくなり、中学や高校を卒業して大人になって、やがて年寄りになっても、仲良しでいて欲しいと思った。
ずっと仲良しで、傍にいてくれるだろうと思っていた。
■
まるで墓参りにでも行くかのようだった。
シイカを伴って、クツナは午前中から家を出て、電車で三十分ほどかけて少し離れた町で降りた。いつになくクツナの口数は少なく、花の籠など手に提げている。
たどりついたのは、ごく普通の一軒家だった。二人を出迎えたのは、五十代くらいに見える女性で、何度も礼を言いながらクツナから花を受け取った。
「クツナ君、気を遣ってくれなくていいのよ」
「いえ、来たくて来ているんですから。おじさんの様子は……」
「少しはよくなったけど、やっぱりまだね。身の回りのことは一通りできるんだけど」
「お会いしても?」
「ええ、どうぞ。そちらのお嬢さんが、電話で言っていた助手の方ね」
顔を覗き込まれながら微笑まれて、シイカの背筋が伸びる。
「お、お邪魔します」
通された和室には、座椅子に座った男性がいた。頭には白髪が混じり、顔中に細かいしわが散っている。老人にも見えるが、背格好はそこまで老いて見えるわけではなく、一見して年齢を読み取るのは、シイカには難しかった。口を半開きにして、よだれこそ垂れていないが、放心したようにテレビを見ている。
「調子がいい時は、昔みたいにしゃべるんだけどね。ごめんなさいね」
「こちらこそすみません。お久しぶりです、おじさん」
男性の目がクツナを見た。少し口角を上げたように見える。
簡単な世間話をして、五分ほどで、クツナはその家を出た。
「悪かったな、付き合わせて」
「いえ……どういう方なんですか」
「父に次ぐ、僕の師だ。当時既に数少ない、繭使いを生業にできていたほどの達人だった」
「病気か、何か」
「いや。繭使いにやられた。一時期は本当に廃人同然で、あれでもかなり持ち直したんだ」
クツナの後ろを歩いていたシイカの足が、ぴくりとすくんだ。
「繭、ですか? あんな風に、繭使いで人を……」
「そうだ。繭使いは単なる治療技術じゃない。悪用しようと思えば人間を作り変えることさえできてしまう。もちろん、腕次第ではあるし、そうそうできることじゃないんだが。それを君も、知っておく必要があるとも思った」
しばらく無言で、二人は歩く。それでも、駅に近づいて人波が増える前に、シイカが口を開いた。
「私、……繭使いって、もっと平和っていうか、いいことばかりの力だと思ってました」
「そうしようという、一族あげての努力が実を結んだんだろうな。今ではそんなにおっかないことができる繭使いはほとんどいない。危険な輩ってのはただでさえ、平和な世の中では淘汰される。できれば鳴島には、繭使いのいいところばかりを見ていてもらいたいよ。この頃は、少しだが繭の繰り方を覚えてきたんじゃないか」
振り返って、困ったように笑うクツナは、ひどく寂しげに見えた。
シイカの胸に、刺すような痛みが走る。その気になれば金儲けや欲望の充足のためにいくらでも繭を使いようがあるだろうに、クツナが繭使いの技術を悪用するところなど見たことがない。だから、そんな顔をして欲しくない、と思う。
「私、クツナさんに教わったことで、できもしないのに勝手に人の繭をいじったり、悪いことに使ったりしませんから。本当です」
「悪い。少し脅しすぎたな」
シイカはクツナの隣に並んで歩いた。
斜め下から見上げた横顔は、いつも通りに涼しい表情に戻っていた。




