第二章 5 シイカと、灰色の髪と眼の誰か
クツナと、家の奥にいたクツゲンに挨拶を済ませ、シイカは帰途についた。
太陽はほとんどその姿を消しかけていて、だいぶ暗い。
まだ仕事帰りの人々の姿などは見えず、駅へ向かう道は空いていた。だからシイカは、塀にもたれて立っている人影にはすぐに気づいた。
特に気にせずに通り過ぎようとした時、人影は、シイカに声をかけてきた。
「ねえ」
「えっ? わ、私ですか」
「君、頑張ってるみたいだね」
その一言でシイカの体が緊張する。
人影は、ゆっくりと近づいてきた。大きな道ではない。ほんの数歩で、人影はシイカと相対した。
男だ。若い男。クツナとそう変わらないだろう。やせている。背は、クツナよりも少し高い。七月だというのに、黒い長袖のTシャツを着ていた。
長い前髪に隠れて目元はほとんど見えないが、その髪が異常だった。白髪でも、銀髪でもない、乾ききった砂のような灰色。
「しかし何度見ても変わった趣味だな、クツナの奴も」
「趣味って、何ですか。クツナさんのお知り合いなんですか?」
シイカは気味悪さを感じていたが、クツナと自分を同時にばかにされた気がして、つい言い返した。
それでも、こんなところで知らない他人ともめる気はない。シイカは、男を振り切って逃げられないかと考えて――
「逃がしはしない。少なくとも、僕のことを覚えたままではね」
――そう言われて、身をすくませた。
「相変わらず、隙だらけの繭だなあ」
「え……」
それで、ようやく気づく。前髪の向こうから伝わってくる視線は、シイカではなく、シイカを包むものに注がれているのが分かった。
「ま……繭使い……?」
男の指が、空中で踊った。慌ててシイカは目を凝らす。ぞっとした。シイカの糸は、すでにほぐされて、男の手元でゆらゆらと揺れていた。
「真乃アルト」
「え?」
「僕の名前だ。覚えてはいないだろう? 今日のクツナはどうだった? へえ、インコに子供ね。変わらないな、あいつも」
「やめて……」
「いつもありがとう。今日も初めまして。そして、さよなら」
「は、放して、それを……」
「シイカちゃん、だったよね。あのね、僕は君を」
そこまで言ってから、真乃アルトはシイカの耳元に唇を近づけた。ぼそぼそと小さな声で、しかしはっきりと告げる。
それからシイカの糸の一部が、ちぎり取られた。
はっと気づくと、シイカは、陽が沈んだ町の道路にたたずんでいた。その後ろには、去っていくひとつの人影がある。しかし、シイカは気づきもしない。
「あれ、私、なんでここで立ち止まってるんだっけ……」
クツナの家を出てから、何かあっただろうか? いや、そんな記憶はない。
しかし、妙に耳の奥に残った、ざらざらと不愉快な声があった。こんなことは、誰かに言われた覚えもない。知らない声。聞いた覚えのない言葉。
――僕は君を許さない。
腕に鳥肌を立てながら、シイカは駅に向かって歩き始めた。
さらに暗さを増していく空と町が、ひどく心細かった。




