9.第三講堂裏に来い
ぼくは自分の苗字が好きではない。白い猪と書いて白猪。口で言えばどこにでもありそうな苗字なのに、漢字で書くとどうにも間違われやすい。
一説によると、実家の出身地と関係があるとも言われているけれども、どうでもいいことだった。ただ、そういう珍しい苗字だったゆえにやたらとからかわれたのが、嫌な思い出として強くこびりついていた。だから、好きになれたことがない。
しかし、名が体を表すとも言う。
それは信じることができた。
だって、いま自分は猪のように突進しているのだから。
「梶谷」
相手の名前を呼ぶ。振り返ったそいつは、目を見開いてただ突っ立っていた。それがますますムカついた。自分がどんなにひとの心を踏みにじったのか、罪悪感というべきものがないのだろうか、とも思った。
だからぼくは、梶谷の襟首をつかもうとした。
その動きを察知したのだろう。彼はすばやく身を引いた。
「……なんだよ。いきなり」
「とぼけんな。自分でどういうことやってんのかわかってんだろう」
しかし梶谷の反応は、なにもわかっていないことを裏付けるだけだった。
ちょうど、第三講堂のあたりだった。授業終わりの学生たちが余裕なく行き交う中で、ぼくは彼を見出した。きっと鬼でも殺すような形相だったのだろう。彼はまるで心外だといわんばかりの表情で、ぼくのほうに向きなおった。
「なんだよ。昔の話じゃないか、そんなに怒ることじゃねえだろ。大人げない」
「何様のつもりだ」
「そういうお前はお子様か? お前はもう少し大人な人間だと思っていたよ、白猪。まさか自分のフラれた話をネタにされて怒るような小さい人間だとは思わなかったよ」
「あいにくだったね。そんなに高く買ってくれていたなんて思いも寄らなかったよ」
言いながら、しかし自分で自分に引いていた。
キモイと思った。なんでこんなつまらないことで怒っているんだと、本気で思った。だがいまさら我に返るのは、なおのこと癪だった。
かつてはこんなに怒りっぽくはなかったはずだ。それどころか誰かに対して感情をむき出しにすることもなかった。浅はかな夢や願望を持ち、それを叶えることができず、涙に明け暮れるぐらいなら最初からなかったものだと考えることで自分を慰めて、のうのうと諦めてしまえばよかったというのに。
どうして自分は怒っているのだろう。
きっとそれは自分の時間が巻き戻らないからだ。
泣いても笑っても、過ぎた時間は巻き戻らない。巻き戻ると信じるのは物語やフィクションの中だけだ。どんなに過ぎた時間を懐かしんでも、振り返って教訓を得たとしても、事実は変わらない。思い出だけがただ都合よく厚塗りされてしまうだけなのだ。
いつかはぼくもフラれたことを、自分で笑いのタネにできるかもしれない。どうせいつかどこかで起こっていることだから、珍しくもなんともない。そう、梶谷は正しい。二年前に起きた「そんなこと」を引きずっているようにしているぼくは、気持ち悪い人間であることまちがいなしなのだ。
だけど。
それは誰かの笑いものになりたいからじゃない。
「お前ならわかってくれると思ってたんだけどな」
そう淋しげにつぶやく目の前の人間と、同類になりたくなかったからだった。
成功する人間は限られている。特定の誰かの気持ちに寄り添うことができるものも、部活でインターハイに出れるのも、才能で世にはばたく人間も、世界中の人口に比べれば、ごくごくわずかにすぎないはずだった。
それでもぼくはあこがれずにはいられない。好きな人のそばにいることも、汗水たらして輝かしい青春を送ることも、自分になにか才能があることも、あり得ないとはうそぶきつつも、心のどこかではそうありたいと思っていた。
ああ、だからだ。ぼくはこの目の前にいる、真面目に不真面目な奴が大嫌いなんだと、ついにわかった。
「……ふざけるな。ぼくの不仕合せはぼくだけのものだ。きみみたいな人間に同情されるいわれも、同類だと思われるいわれもない」
「ふうん。お前がそういうなら、もうどうでもいいんだけどさ」
梶谷はさぞかしつまらなそうな顔をした。
あまりにどうでもよさげだったので、ぼくは握りこぶしを振りかぶりそうになった。しかし、剣道をしなくなってもはや二年半。運動神経も、筋力も、あのころほどにはなくなってしまっていた。
それに……ここで一発殴ったとして、どんな意味があるのだろう。なにも解決しやしない。そう思うと、すごくやるせない気持ちになって、吐き気がしてきた。もういいだろ。ぼくはそろそろレポートを書かなきゃいけないんだ。もうこの男とは縁を切って、さっさと現実に戻らなきゃ。
「もう終わりか、じゃあ……て、おいおまっ」
そのときぼくは、まったく思いがけない方向から蹴りを喰らった。
背後から喰らった回し蹴りは、きれいにぼくの右わき腹にヒットしたのである。受け身を取りながらひっくり返る視界の端で、ぼくは藤枝紗季の心底あきれた表情を見出していたのだった。