8.毒白垂れ流しオンライン
たしかに藤枝へのストーカー行為はその日以来なくなったのだけれど(本人からお礼があったのだ)、代わりに、ぼくのもとには梶谷からチャットラインが飛ぶようになっていた。最初はなにげないやりとりが中心だったが、やがて思うところがあったのか、唐突に藤枝周りの話をし始めた。
《このあいだはごめん。おれの考えすぎだった。おまえ、藤枝の高校時代の同級生だったんだな。道理で仲が良いわけだ》
そしてどこからともなく仕入れてきた情報を、文脈なく披露する。しょうじきキモいと思った。いったいどの筋から得てきたのかわからなかっただけに、その言動にはぞっとさせられた。
《どこからそんなことを?》
《お前と同じ高校の出のやつが知り合いにいるんだよ。そいつに訊いたんだ》
このチャットラインが来たのは、木曜日。試験まであと一週間を切り、ぼくはPC棟の中でひたすらキーボードを打ち続けていたときのことだった。
しかも、ちょうどレポートを一件仕上げたときでもあった。煩わしい英語のレポートをやっつけ、いよいよげんなりするマクロ経済学に着手しようとした矢先、息抜きがてらSNSを眺めていたのである。そこに来たたった一件の通知は、ぼくの気持ちをかき乱すには十分すぎた。
《そんなやついたっけ?》
《いや、いるだろ。日文だからお前は知ってるかどうかわからないけど》
そう言って梶谷は誰かの名前を挙げていたが、ぼくの記憶にはない名前だった。たぶんちがうクラスか学年だったのだろう。少なくとも同じクラスの人間ではなかったと思うし、おそらくぼくとの接点はそうそうなかったはずだ。
強いて言うなら、藤枝が有名すぎた。自由奔放、空気を読まない問題児。授業は寝るわ、サボるわ、先生教師に面と向かって反論するわ、そのおかげで周囲と付き合いが悪いわで、なんというか、生きにくさの権化みたいな有り様だった。そんな彼女が「友人」として近しくしていたのがぼくだった。だからだろう。ぼくはなぜか高校のとき、それなりに知名度が高く、勝手にイケメンコンテストなるものに参加させられたりしたものだった。
しかし、そういうことはどうでもよかった。いまの問題は、なぜ梶谷が余計な詮索をするのか、ということだった。
《でさ、そいつから聞いたんだけどさ、》
そして思う。なぜこの男は癪にさわることばかりを発信するのだろうか、と。
《──お前、藤枝にコクったことあるんだって?》
《なぜ、それを》
うっかり返信をしてしまった。すぐにブロックすればよかったのだ。だがもう遅かった。どうしてあの藤枝が、あんなにおびえていたのかを理解しても、すでにぼくは彼の術中に嵌まってしまっていたのだから。
《図星だな? お前、やっぱり面白いやつだな》
《……なにがしたい?》
《結論を急がないでくれよ。おれはお前と仲良くしたいんだ》
本当にその気があるのか、怪しいものだった。
たまにいるのだ。こういう手合いは。
お節介焼きだと思っていた。悪戯好きで、不真面目で、それでも一本通った人間なのだと思っていた。しかしそれは裏返せば詮索好きで、ひとをおちょくる悪い癖があって、おおらかで、そしてやると決めたらどこまでもしつこい人間であることに他ならなかった。
たぶん、見る人が見れば、紛れもなく「良い奴」なのだろう。ぼくもそうだと思っていた。しかし、思うところがあって、ひっそりとしていたい人間にとって、この手の人種は天敵になる。昔の出来事はなかったことにはできないけれど、だからといって笑って話題にできるほど、ぼくの心は広くないのだ。
《ふざけんな》
そう思った途端、こう書き込んでいた。
《は?》
《そういうことをするから、藤枝にも嫌われるんだ》
《おいおい、なんだよ。マジになっちゃって》
《いまどこにいる?》
《おれはただ、白猪も藤枝のことが好きだったってわかって親近感があったんだって》
《うるさい、だまれ。おれの質問に答えろ》
既読が付いて、応答がなくなった。
ぼくはすっかり逆上していた。自分でもはっきりわかるぐらいに怒りが全身にみなぎっていた。
思わず周囲をにらむように見渡す。そこには必死にPCに向かってキーボードを打ち込む学生たちが座して並んでいた。プリンターの前でレポートの紙出しを待つ学生の列があった。そして、早くどこかの席が空いてくれないかと待ち構える学生の立ち姿もあった。皆、学期末という切羽詰まった時間を駆け抜ける、みじめな選手だった。
そんな中、ぼくは立ち止まって激情に身を震わせていた。落ち着け。怒ってどうするんだ。画面を見ろ、レポートを書くんだ。そうすれば必修単位は安泰なんだぞ。
しかしいくら理性で諭しても、この感情は落ち着いてくれそうになかった。デリカシーがないだなんて、そういう言葉で取り繕うにはあまりにも腹が立ったのだ。
その理由はまだつかめない。しかし、ぼくにはただひとつ、梶谷恵介という男を見つけ出して一発殴ってやらないと気が済まないことだけを直感していた。
荷物を片付け、スマートフォンを耳に当てる。足早に席を離れると、待ってましたと言わんばかりに誰かが着席した。その様子を尻目に、ぼくはただスマートフォンから鳴るコール音に耳を傾けていた。
ちょうど授業が終わったばかりだったのだろう。外に出ようとすると、人混みにでくわした。その中をかき分け、進んでいくうちに、ぼくはふと、探し求めていた人物がいたことに気が付いた。
スマートフォンを下ろした。どうせ応答は期待していない。そいつが目の前にいるなら、あえて通話をする必要もないだろう。
ぼくは駆けだした。途中で誰かがぼくの名前を呼んだ気がしたが、どうでもいいことだった。