6.ストーキング・ストーキング
梶谷恵介という人物は、わが大学の文学部・日本文学専攻の二十一歳。一年浪人を経験した二年生で、二年次から大学で公認されたただひとつの公認サークルに入っている。
しかしサークルにおいては幽霊部員で、週一回の定例活動である作品読書会にも三度に一度しか参加していない。もしほんとうに心の髄まで幽霊部員だったら、きっとそのままフェードアウトしていただろう。しかし梶谷はそうした参加回数の少なさを覆して、かなりの存在感を示している。
例えば。
新歓パーティーの自己紹介で手品を披露して場を沸かせたこと。
部員の作品の感想を述べ、かつ気に入った作者のもとには直接声を掛けること。
いつも発言する前に自分の名前を丁寧に名乗ること。
どれも文芸部という内気な人間が集まる場所には似つかわしくない、明るく快活な行動であり、それゆえに異彩を放っていたのは当然のことだった。
ふだんは、というか、ぼくの前ではおちゃらけている彼だったが、非常に客観的に見れば、なるほど、もてそうだと思えるぐらいにノリが良くて、人格的にも優れた好青年に他ならなかった。そうだと認めるのが腹立たしいぐらいに、彼は抑えるところを抑えていた。
そんな彼がどうして文芸サークルに入っているのか?
理由は単純。彼自身もしばしば言及している通りだ。
『好きなこと勉強しに行くとこが大学じゃねえの?』
つまり、彼は日本文学が好きなのだ。
夏目漱石や森鴎外、源氏物語などポピュラーなものは言うに及ばず、派閥や時代を超えてさまざまな文学を読解する彼の頭脳は、さながら「好きこそものの上手なれ」ということわざを体現していた。漢文古典もこよなく愛する彼は、将来的には川端康成を卒業論文に「日本的美意識」とやらの探究を試みたいと言っていた。ぼくにはそれがなんだかちっともわからなかったが、要するにもののあはれの精神に取り憑かれた変な奴のひとりにすぎないんだろう。
それでも、好きなことがはっきりしていて、明確にやりたいことがある、というのはすごいことだった。
我が身を振り返ってみると、ぼくには夢なんてものも、好きなこともとくになかった。そういうものを持たないように生きてきたと言っていい。というのも、とにかく夢なんてものは持っていると幻滅するのだ、と身に染みてしまったからだった。
高校時代、剣道部の補欠選手もそうだった。もともと将来有望として、練習試合にもっと出ようと顧問にも期待されていた身だったにもかかわらず、稽古中に肉離れを起こして練習試合を不意にしてしまったのだ。それでもあきらめきれなかったから、頑張って補欠に食い込んだ。だが、補欠でしかなかった。試合に出て、学校の名を背負ったのはぼくじゃなかったのだ。
大学受験もそうだった。
剣道部で成果を上げられなかったなら、今度は受験勉強でなにかを成し遂げよう。そう思って国立文系の最難関大学を目指して猛勉強した。国語と日本史以外はさして成績が良くなかったぼくに、「お前じゃ無理だ」と嗤うやつがいたからなおさら頑張った。
しかしそのころに藤枝に惚れてしまった。おまけに失恋してしまった。このダブルパンチで成績が乱高下してしまい、センター試験では得意分野だった国語を取り落とす大失態まで犯した。さいわい二次試験まではこぎつけたが、結果が落第。第三志望か第四志望ぐらいだったこの大学に、まあ偏差値は良いから入っておこうというていで入学したのがオチだった。
どちらも客観的に見れば、きっとすごいやつの履歴になるんだと思う。国内関東だったらそこそこ上位の大学で、高校時代はインターハイ出場校の元・剣道部補欠選手。しかしその言葉の裏にある不完全燃焼の努力の負債は、いまだにぼく自身に「夢は叶わないものだ」という呪いを掛け続けている。
叶わない夢なら、ねがうだけ無駄だ。
ならば、ねがうこともやめよう。
役に立つことを学ぼう、と思ったのはこのときだった。自分はもともと社会学や経済学をねらっていたけれど、とりあえずな感じが否めなかった。文学はそこそこ愛読していたけど、幻滅することを怖れて研究対象にはしたくなかった。だったら興味がなくても役に立つことを学ぼう。数学や物理学のように、独学するには意欲が出てこないものを。
それが経済学部生:白猪孝彦の本性だった。
おっと、うっかり内省モードに入ってしまった。
ぼくはかぶりを振って、双眼鏡を持ち直した。
PC棟の三階から見下ろすと、学生の流れはアリの群れのようだ。とくにいまは昼休み。学食と生協コンビニの周囲はお盆の帰省ラッシュもかくやというほどの混雑具合になる。
一年生の始めのころ、この惨状を知らなかったがためにいかに待たされ、時間を無駄にしたことだろう。いまではサークルの先輩方に教わったやり方で、ひとりで安らかにカップラーメンを食せるようになった。栄養バランス的にどうかと思われるけど、ここ数日のミッションのことを考えると仕方がなかった。
そのとき手元のスマートフォンが鳴った。
通話だ。
「どう、調子は?」藤枝の声だった。
「まあまあ。梶谷はコンビニに入ったよ。千兵衛の赤いやつ買って、いまお湯を注いでるところ」
「はあ? ふつうは緑のほうでしょ。あいつセンスないわー」
「きみの好みとか知ったことじゃないよ……」
「だめ。きのことたけのこぐらい大事なことなの、わたしにとっては」
「あー、お客様。大学構内では政治と宗教の話はお控えくださいませ」
「なによ。そっちの学部は日ごろから経済政策を論じるでしょが」
そうぶつくさと文句を言いながら、藤枝は通話を切った。全くいつもの藤枝だな、と思いながら、ぼくは梶谷の観察を続けた。
藤枝紗季に依頼された内容、それは梶谷の逆ストーキングだった。
やられたらやり返す。古代バビロニアか、数年前に流行った連続ドラマのような藤枝の精神に、最初はあきれたものの、ストーカー行為への仕返しとしてはなんというか、面白いと思った。そんなことは口が裂けても言えないが。
しかし、こうして数日間追いかけまわし、ときに半ば直接的に嫌がらせめいた物音を立ててみたりもしたけれど、梶谷は大して気に掛けていないようだった。それどころか、藤枝が言っていたような行動とはまるで別の、すがすがしいほど潔白な梶谷のすがたが明らかになった。
やっぱり、首を突っ込むべきじゃなかったかもしれないな……
そんな後悔がぼんやりと頭をもたげたときだった。
ふたたびスマートフォンが鳴る。
通話だ。
藤枝め、しつこいな、と思って取る。
ところが、そのときぼくの双眼鏡は異様な景色を捉えていた。気づくのが遅かったのだ。だからこそ、次に来た予想外の声に、すっかり度肝を抜かれてしまった。
「……見てるんだろ、白猪?」
梶谷はこっちを見ていたのである。