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ルサンチマンの恋人たち  作者: 八雲 辰毘古
第1話:くたばりやがれ、青春。
4/10

4.多重不幸債務者

「あんにゃろ、レポートがもうひとつあるとか聞いてないぞ」


 ぼくはそうひとりごちながら、三番棟の講堂を出た。

 講義直前の勇み足はどこにいったのか、と少し冷静に考えたりもしたが、それは別にほっぽいてすごく嫌な気分でいっぱいだった。この期に及んで予告なくレポートを出すなんて、言語道断の極みだぞ……


 ことの一部始終は、こうだ。

 あれからぼくはふたつの講義に出た。


 ひとつは三十枚も刷ったレジュメを使った授業。例のイヤミな教授による、高校生めいた、退屈極まりないマクロ経済学の講義だった。ケインズがどうたらこうたらと解説する口調は生気がなく、接続詞が連続し、主旨がさんざん散らかされては、聞いている学生の集中力を削いでゆく。

 ちょうど昼飯どきがすぎたあたりだ。ラーメンやなんかでいっぱいになったお腹は眠気を誘う。そして眠気はさらなる眠気を誘発し、真昼間に告白されてろくにご飯も食べられなかったぼくまで眠くなっていた。それでもノートを取り、ときにはレジュメを音読し、しのいではいたのだ。


 ところが、問題はそのあとだ。

 英語の授業である。大学生にもなって英語か、と思うが必修科目で出席重視なのだから仕方ない。


 と思って今日も出ていた。

 そこに、だ。


「あー、出席率がほんとうに悪いねえ。語学はしゃべることが大事なのに、なんで来ないんだろうねえ」


 これじゃ単位が出せないよ、とひょろながくて皮肉屋な教授が言っていた。もちろん経済学のひととは全くの別人だったが、面倒くさい説教好きという意味では同類だった。


「仕方ないねえ。レポート出してもらおうか」

「は?」


 思わずぼやいてしまったが、教授は無視した。

 そういうわけである。


 大学に入って一年も経つと、だいたいレポートという代物がどういうものかもわかってくる。最初のうちは、クソが付くほどマジメにネットで書き方を調べていたが、そんなものは微塵も役に立たなかったので、さっさと我流に切り替えた。そしたら評価がそこそこ上がった。自分の意見や主張がしっかり出ている、ということらしかった。なのでますます適当にやった。

 とはいえ、一個二千文字以上のレポートだ。そうやすやすと書いて出せるものではない。めちゃくちゃ頑張って書いたつもりが五百文字しかなかったり、そろそろいいだろうと思ってPCで文字数を測ると一千文字強オーバーしていたりで、とにかく塩梅が難しい。文字数下限があるものは優しいが、上限があるものだってある。


 面倒くさいったらありゃしない。


 だいたい、大学生は自由な生き物だと言われがちだが、じっさい言うほど自由でもない。たしかに社会人の生活リズムや中学高校に比べれば、遊ぶ範囲も交友関係も金銭感覚も別次元だ。しかしお金があるのはその分バイトをしているからだし、自分でなにかしようとしなければ交友関係も遊びの幅も広がらない。ぼくの場合、唯一好きだった読書だけが、大学図書館というアリ地獄に飲み込まれてどんどん深化してしまい、とうとう身銭も遊びもない時間ばかりが過ぎていったのだ。


 全く、叫びたい心地だった。

 そして、そんなときに不幸は重なると相場は決まっていた。


「白猪! ちょっと!」


 振り向くと、藤枝がいた。そのとき彼女の表情が変わったので、よほど嫌な顔で応対したのだろう。

 しかし藤枝は遠慮なしにぼくの腕に絡みついて、第三講堂の柱の陰に押し込んだ。


「おい、どういう……」

「しっ、静かに」


 ふと見ると、彼女は必死だった。ブラウスの袖は肩のあたりで荒く上下し、目はこちらを見ずに、ありもしないほうをちらちらと配せている。

 それはぼくの知っている藤枝紗季とはあまりにも別人の振る舞いだった。ぼくの知っている藤枝は、もっと堂々と、予測が出来なくて、それでも自分の意志には忠実な人間だったのだ。


「ねえ、」と藤枝はひとりごちるように、「もうついてきてないよね?」

「なにが」

「あいつ」


 彼女があごで示した先を見る。

 その先には梶谷がいた。


 途端、ぼくは全身に鳥肌が立った。察したのだ。

 梶谷はキャンパスの広がったところに立って、しばらくきょろきょろと周囲を見ていたが、やがて諦めたかのようにため息を吐き、帰路についたようだった。その足取りは心なしか落ち込んでいるようにも見えた。

 その背中を見届けると、藤枝はようやくひと息吐いた。どれだけの呼吸を張り詰めていたのだろう。


 しぼんだ風船のように、彼女が縮こまる。

 ぼくはいまにも倒れてしまうのではないか、と思って手を差し伸べかけた。けれども彼女は自分の足で立って、ぼくの手を振り払った。まるであの日となにひとつ変わらないかのように。


「ありがとう。助かった」


 彼女はそれだけ言って立ち去ろうとした。

 だけど、ぼくはとっさに手をつかんだ。

 びくりとする藤枝。振りほどこうとした手をそっと抑えて、ぼくはゆっくり、真剣に言った。


「どういうことなのか、話してよ」


 面倒くさいことに野暮な首を突っ込もうとしているのはわかっていた。自分でも嫌なくらいに。

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