3.愉快で不愉快な男たち
「いやあ、それにしたってあんなにビビることはないだろ」
梶谷は溶けかけたソーダアイスをなめながら、印刷機の前でレジュメが刷られていくのを眺めていた。そんな彼を横目でにらみつつ、ぼくはレジュメをクリアファイルにしまい込む。いったい何枚刷らせるつもりだろう。あの手の高慢な教授たちは、学生の財布事情をなめ腐っているとしか思えなかった。
そのことを愚痴ると、あー、わかるわーとか言いながら、梶谷はぼくの手元をのぞき込む。なにそれ? と首を突っ込むしぐさは、悪戯っぽくてお節介焼きなこの男の性格を端的に表していた。
「マクロの講義だよ」
「マグロ?」
「ちげーよ経済学のほうだって」
「おう、マグロだっていまじゃ経済問題だぞ」
「……ふざけてる?」
きっと鏡があったら、自分の眉がひくひく動いてるのが見えただろう。それぐらいあからさまに嫌な顔をしたつもりだったが、この男にはついぞ効いた試しがなかった。
「マジメにふまじめ、おおまじめだ」
そしてこういうことを恥じらいなく言えるやつでもある。ぼくはあきれたほうがいいのか、怒ったほうがいいのか、ちょっと真剣になって考えた。しかし、怒れば怒るだけ自分がみじめになるような気がして、精一杯の抵抗としてため息を吐いた。
「しかしマジレスすっけど、お前って経済学部なんだよな。おれよりもずっと文学部らしい趣味してんのにな」
「ああ、うん。よく言われるよ。でも、好きなことを主軸にしたら、ダメかなって思っちゃって」
「なんでさ。好きなこと勉強しに行くとこが大学じゃねえの?」
ぼくは返答に詰まった。こいつはときどき鋭いことを言う。
「生きるのに必要だと思ったんだよ。経済って、それこそこういうとこで半分強制でもなけりゃ、学ばないもんだろう?」
「いやあ、そうかもしらんが」
「納得いかなさそうな顔だね」
「なら商学部でもいいし、経営学でもよかったんじゃね」
「まあ、たしかにな」
生返事をしながら、ぼくは最後のレジュメを取り上げる。総じて三十数枚。教授はほんとうにこれをあと二、三回の講義の中で展開する気なのだろうか。
「でーもーさー、生きるのに必要なことってなんなんだよ。経済なんて箸にも棒にも引っかかる気がしねえよ」
「さては経済新聞読んだことないな?」
「読んだからってえらいわけでもあるめえに」
悪態だけは尽きない男だ。
しかし、彼の言うことは的を得ている。
高校の時、大学生とは大人の一歩手前のことだと思っていた。だからそこで学ぶことは人生においてとても大切なことで、一生懸命勉強することが社会で生きてゆくのに重要なことだとすら、考えていた。
しかし、現実はちがった。
大学生ほど馬鹿な生き物はいない。
講義はサボるわ遅刻はするわ、酒に煙草に麻雀に、とにかく目につく娯楽に飛びついては、なし崩しに堕落の道をかっ飛ばす。仮にもぼくのいる大学は国内でもけっこう有名で、偏差値もかなり高かったが、そんなことは人格になんの影響も及ぼさないと証明するように、不真面目な人間ばかりが目についた。
「きみたちは、そういうおとなになりたいのかね」
ぼくが憎んでやまない教授は、昼下がりの時間に毎回そうやってイヤミな問いを投げつける。
それでも遅刻は止まなかった。毎回雑談は絶えないし、とうとう講義に出ない人間もいた。卒業必須科目だというのに。まるでお前なんかの言葉は聞かなくても、自分たちには関係ない、とのたまっているかのようだった。
言い方こそ気に食わないけれど、ぼくはその言葉は正しいと思った。ただ、ものすごく気に食わなかったから講義が終わったあと、教授を質問攻めにした。あなたが言っていることは正しいんだろう。しかしやって見せていることがまちがっている。こんなレジュメを音読したところで、経済理論を暗記させるように勉強したって、社会で生きてゆくのに役に立たない、とか、なんとか。
だが、教授は鼻で嗤うように、答えた。きみの問いかけのほうがまちがっている、と。
「学問というものは、本質的には役に立たないものだよ。それはファッションショーに似ている。機能性なんてかけらもない。けれども、それは世の中の流行り廃りになんとなく影響を与えるんだ」
なんだか煙に巻かれた心地がしたものだ。
するとだんだん無性に腹が立ってきて、じゃあその言葉のほんとうの意味がわかるまで粘ってやろうじゃないか、という気持ちになってくる。同じ講義を受ける友人知人たちが次々とやる気をなくし、脱落してゆく中で、ぼくは最前列で、クソがつくほどつまらない講義を九〇分間耐え続けた。
そのどこが面白いんだ、と言われそうだが、じっさいなにも楽しくない。しかし、石にかじりつくほどの根性でわからないことにしがみつけば、きっと何か糧になるのでは、という妙な期待もあったのだった。
それは安直な娯楽に飛びついて、堕落したようにしか見えない同年代への反骨心か、それとも、自分だけはこの小難しい講義を耐えきったんだというくすぶった自尊心のためか。
答えは自分にはわからない。それでも自分がそうだと思ったことにしか、自分の時間は使えないのだった。
「えらいかどうかはどうでもいいけど、やっぱり講義には出るよ。眠くなるほどつまらないけど」
「ふうん。まあ、勝手にしな」
梶谷はつまらなそうだった。彼は自分の思い通りにならないとき、こういう顔をする。
ぼくはさっさとパソコン棟を出る。たしか講義場所は三番棟だったはずだ。古い校舎で、冷房も旧式しかないのがつらかったが、行くと決めたからには行くのだ。
と、思ったが、少し立ち止まって、振り返る。
「なあ梶谷、藤枝にさいきん会ったか?」
「いや、どうしたんだ。急に」
彼はまったく考えてもみなかった、というようにきょとんとしていた。その表情を見て、ぼくは相談相手をまちがえたな、と感じた。首を振る。
「いや、なんでもない。忘れてくれ」
けげんそうな顔をした梶谷だったが、それ以上は言わなかった。
こうしてぼくと彼は別れた。講義はもうすぐだった。