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ルサンチマンの恋人たち  作者: 八雲 辰毘古
第1話:くたばりやがれ、青春。
2/10

2.汗と視線

 店を出ると、刺すような猛暑の日差しと、貫くようなまなざしが一挙に押し寄せた。


 いったいなんだろうと思って振り返るものの、あいにく視線の主は店内にいて、あからさまに誰かだとわかるようなものではなかった。

 いまは昼下がりの最も暑さが厳しい時刻で、残念ながら我慢比べではこちらに分が悪かった。おまけにぼくはあと三十分以内に、一度レジュメをダウンロードしにパソコン棟に向かわねばならなかった。次の授業はやたらと学生に音読させたがる教授のものだった。出欠を確認するためらしいが、高校生じゃあるまいし、いい迷惑だ。


 ほんとうのことを言うと、べつに一回ぐらいサボっても単位は望める講義ではあった。しかし、この講義は次の授業で最終レポートのテーマ解説をすると聞いている。炎天下で鬼ごっこなんてくだらない理由で聞き逃すのは、あまりにメリットがなさすぎる。


 ぼくは歩いた。アスファルトの照り返しがゆらゆらと陽炎を作り、うっかり吸い込んだ熱気で肺がやけどしそうだ。まるで危険地帯を横断する兵士みたいな心地で真夏のキャンパスを横断すると、ぼくは背後の嫌な視線が、決してぼくを見逃してくれたわけではないことに気が付いた。


 げ、と思った。藤枝はいったいなにをやらかしたのだろうか。

 さすがにこのことが藤枝に関係ないとは思わない。藤枝はああ見えて大したトラブルメイカーだった。それはおとなしそうな外見に反して、思ったことを歯に(きぬ)着せぬ言い方でぶった切る、どうしようもない性格に由来している。


 ぼくと藤枝紗季(さき)との出会いは、高校二年のときだった。同じクラスの中、くじ引きで行われた席替えで、たまたま隣になったというのがことの発端に当たる。もっと言うなら国語の教科書がないから貸してくれ、と向こうから話しかけてきたのが始まりだった。

 じつにありきたりな出会い、ありきたりな人間関係だった。ぼくは教科書を見せ、彼女はそれを見た。最初はそれだけだった。ときおり耳からこぼれる長い髪の毛と、そこからほのかに香る化粧品の匂いにめまいがしたけれど、それ自体はまあ思春期にありがちな、どこにでもあるようなくだらない心情とでも呼べるものだっただろう。


 そんなぼくはどうだったかというと、メガネをかけたどんくさい高校生だった。球技はいまいち冴えず、教室の片隅で思うがままに小説を読んだり、マンガを読みふけったりする内気な少年だったのだ。しかし部活は中学の頃から剣道部で、補欠選手ぐらいの実力は認められていた。

 けれどもそのことを言うと、周囲の人間は少し意外に感じるらしい。ぼくはそれほど病弱で、なよなよした人間に見えるのだろうか、と落ち込んだりもした。それが現在のコンタクトレンズ使用者への道につながっているのであるが、べつに付けたところで大して差がないということで、さらにめげる結果になった。


 閑話休題。そういうわけで、どんくさいぼくと藤枝は、少しずつではあるが、互いの日常に入り込んでいたのであった。


白猪(しらい)ってさあ、いつも本を読んでいるよね」


 そのときは確か高校二年の夏だったと思う。いまから三年前、思い返すとものすごく遠い時間のように感じる。

 放課後の教室だった。期末試験の勉強で部活も休止していたから、ぼくは漢文の勉強と称して図書室からやたらめったら本を借りては読んでいた。家に帰るのは個人的な事情で面倒くさかったので、教室で、ひとりきりでやっていた。


 そこにときおり、藤枝がひとりで顔を見せた。最初は忘れものを取りに来ていたのだと思う。しかし途中から、向こうから白猪はいるか、と探しに来ていた。なんだろう、と思っていたら、そういえば彼女は図書委員だった。


「よく読んでいるってわけじゃないけど、まあ、趣味みたいなものかなあ」

「え、マジ?」

「うん」なにか変なことを言ったのだろうか。

「すごいね。わたしなんか図書委員だけどぜんぜん。小学生の読書感想文とかめっちゃ苦手でさあ」

「あー、あれはぼくも苦手だった。素直に感想を書いても、先生が認めてくれなくて」

「ほんとそれ! あれ以来読書とかニガテすぎる」


 話していた内容なんて、こんな程度だった。

 彼女が話しかけて、ぼくが適当に拾う。

 キャッチボールにしては雑な会話、それだけだ。

 しかし、互いに気兼ねのない距離感というものは、楽でいい。漫然と空気を吸って、吐いて、目についたものについて何かもっともらしいことをのたまって、あきれて……子供っぽいことも大人びた達観もみんなひっくるめて、まことに不思議な時間を過ごしていた。


 そして。

 彼女はいつもひとりだった。


 まるで誰かといると泡になって消える性質でもあるみたいだった。彼女はいつもマイペースで、言いたいことを言いたいように言って、その内容をまるで顧みずに立ち去った。ぼくは彼女から見れば、たんによく通るバス停か道路標識のようなものだったのだろう。


 あの夏も、きっとこういう夏だった。暑すぎて、セミの鳴き声すら聞こえない、静寂の夏……


 いやしかし、背後の視線の主はどうにかならないものだろうか?

 ぼくは()()とにらみつけるように振り返った。コンタクトレンズのおかげで陽炎の輪郭まではっきり見えるのだけれど、肝心の人影がいっさいわからなかった。というか、人ひとりいない。暑すぎてそれどころじゃない。でもなぜか歩き出すと視線が、汗で湿ったシャツのように背中に張り付いてくる。


 ああ、さすがにストレスが溜まってきた。暑いだけでも不快なのに、さらに不快な汗が垂れてくる。ぼくはその視線を振り切るつもりで、パソコン棟に逃げ込んだ。たった五分ばかりの歩行だったはずなのに、服のあいだに汗がだらだらと流れて気持ちが悪かった。

 エアコンの効いた空間で、ようやく一息吐く。涼しい風が服と肌のあいだをすり抜ける。この感触が愛おしくて、ぼくは必要以上に服をばたばたさせて、汗を乾かしていた。


 ところが、そのときである。

 背後に人の気配がした。と、感じたときにはすでに遅く、背中になにか冷たいものが当てられた。鋭い悪寒とともに、全身から汗が引く。これは脅しか、なにかか? 自分はいったいなにか悪いことでもしたのだろうか? などと、いろんな過去が一瞬にして走馬灯のように駆け巡る。


 しかし、あとに来たのは笑い声だった。


「そんなにびびってんじゃねえよ」


 振り向いたら、梶谷(かじたに)だった。サークルの同輩だ。彼は買ったばかりのアイスクリームのパッケージを見せびらかしながら、切れ長のひとみをへにゃっとまげて笑った。

 幽霊の正体見たり、なんとやら。ぼくはほっと息を吐くが、同時にむかむかとさせられて、次の瞬間には梶谷にヘッドロックをかましていた。アイスが床に落ちたような気がしたが、むしろざまあみやがれ、という気分だった。


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