10.くたばりやがれ、青春。
藤枝は細長いジーンズに、黒のアームスリット、サンダルという出で立ちだった。そのためかすごく細長く、かっこよく見えた。彼女はコンパスを広げたときのようなすらっとした脚をたたむと、場を制圧するような、冷徹な一声を発した。
「で、これはどういうこと?」
その場にいた野郎二匹は、なにもいうことができなかった。ただ唐突な一撃に、場を圧倒されてしまったのだった。
藤枝は、その有り様を見るなり、いまさら我に返ったかのようにはっと手を口に当てて、わざとらしく言った。
「えっ、まさかあんたたち、そういう仲なの? うわー知らなかったわ。そりゃお邪魔して悪かったさっさと帰るねバイバイ」
「ちげーよさりげなく逃げようとしてるんじゃねえって」
そっぽを向こうとした藤枝を、梶谷が呼び止める。
振り向いた彼女は、心底嫌そうな顔をしていた。
「なに?」その一言は、あからさまな拒絶を示していた。
梶谷はその迫力に鼻白んだが、あまり間を置かずにつづけた。
「なんだよその態度は。追っかけしてたのは謝るよ。こないだまでどうかしてたって。その、ごめん。だから……」
しかしここまで言ってから、彼の声はよどんだ。
藤枝の視線ははっきり言ってきつかった。それは見るものすべてを射抜くどころでは済まされない。彼女の心を手に入れたいとねがったものは、必ずや絶望するにちがいないぐらいのはっきりした拒絶だった。
しょうじき、ぼくはここまで怒っている彼女を見たことがなかった。そう、藤枝は怒っていた。さきほどまでのぼくの怒りなんて比べ物にならない。そんな中で話しかけようとした梶谷に、むしろその度胸を褒めたたえたくなるぐらいには彼女の激情はみなぎっていた。
そしてそのとき、ぼくは暢気にも、彼女を好きになった理由を思い出していた。
あれは高校のクラスの中で、ぼくが笑いものにされていたときだった。
なんで笑いものにされていたのかは、簡単なことで、学校一の変わり者、藤枝紗季と付き合いがあるからだった。彼女はまるで疫病神のように嫌われ、そのつながりがある人間はことごとく差別の対象になっていた。ときには一人でふらふらしていることを揶揄って、いかがわしいバイトでもしているんじゃないかなんて、うわさをぶちまけられていたこともあった。しかもなまじ外見が良かっただけに、男にもてた。そこから同年代の女子には輪をかけて嫌われ、ますます彼女は孤立していた。
そんな彼女と暢気に話していたぼくは、陰で童貞と嘲笑われ、藤枝のひもだとか、いろんなことを言われていたような気がする。その一環でなにか言われたそのとき、たまたま藤枝が近くにいて、陰口をたたいたそいつをぶん殴った。
ガラス窓を破るみたいに、その場の空気をぶち壊した。
あのときも怒っていたのだ。そして彼女は「きもっ」と一言だけ言い残して去っていった。そのやり方は褒められたものではなかったが、場の空気を一瞬で変えるその佇まいを、なぜか美しいと思ってしまった。
きっと生きにくいことだろう。
さぞかし人付き合いがしんどいことだろう。
けれどもそんな中でも折れずに、自分の中にあるものを一本通そうとする。それはぼくには決してないものだった。だから素直にあこがれた。守ってもらった事実よりも、輝かしく心の奥底にこびりついたのだった。
藤枝は、いまも変わらない。
へどもどしている梶谷に対して、まるで慈悲を与える勝利者のように、にっこりと彼女は微笑んだ。
「好きなことを、好きなだけ言いなよ」
──その分差別してやるから。
直後に言い放った氷よりも冷たいひと言が、梶谷の度胸を粉みじんにしてしまったようだった。
もはや彼は何も言わなかった。言いたいことは山ほどあったのかもしれない。しかし、そんな男ですらもう言葉で何も解決しないと悟ったのか。それとも藤枝紗季という人間のどうしようもない側面を見てしまったからだろうか。そのまま彼はがっくりとうなだれていた。
その様子を見て、ぼくはちょっとしたあわれみを感じた。きっと悪い奴ではなかったはずだ。誰かの前ではすごく人となりが良かったのは、観察していたからわかる。ただ、ぼくや藤枝みたいなこじれた人間にとって、あまりにも相性が悪かった、それだけなのだ。
「あ、そうだ。おまけで大事なことを言っておくけど」と、藤枝は唐突に、しかも追い打ちを掛けるように言った。「わたしがあなたや、そこで寝転がっている白猪君を振ったのは、べつにあなたたちそれぞれに興味がないからとか、嫌いとか、人間的に気に食わないとか、そういう傷をなめ合えるような甘ったるい理由じゃないの。それもあるんだけどさ」
おいおい、藤枝、まさかここでいうのか。
「いわゆるレズビアンってやつ。わたしは男を、そういう風に見られたためしがない。だから断るようにしているの。好き嫌い以前の問題なんだ」
「……は?」梶谷がきょとんとする。
「詮索好きのあなただから知ってたと思ったけど。そういうことが調べられてないなら、話にならないね」
梶谷はもう立ち直れないようだった。
そのままフリーズしている。ぼくはさすがに見てられなくなって、上体を起こした。わき腹が痛い。おまけに服に砂利がついている。
「ちょっとやりすぎじゃないか?」
「いいよ。これぐらい言わないと気付かないなら、言ってやったほうがまし」
そう言って彼女はすたすた歩いて行った。その先は喫煙スペースだった。いつもはヤニ臭いひとびとが群がる場所だったが、今日は人が少なかった。
煙草、吸うのか? と聞くと、こないだ始めたばかりだと答えてくれた。意外だったが、それを面白いとも思える自分がいた。だからぼくはなんとなく、言った。
「一本、くれない?」
「いいよ。珍しいね。白猪がこういうのやるなんて」
「いいだろ。ぼくも二十歳は過ぎたんだ」
「へえ、ちょっと見直した。そういうところは嫌いじゃない」
彼女は煙草を一本差し出した。ぼくは不器用にそれを取った。どこにでもありそうな緑のケースから、つづいて彼女が抜き取ると、それをくわえながらライターで点火した。じりじりと先端が赤く点る。藤枝が終わったあとに、ぼくも同じことをした。
ところが、息を吸い込んだとたん、むせた。ニコチンどころのさわぎじゃない。タールの味が強すぎる。
「お前こんな苦いもの吸ってるのか」
「もっと爽やかなのもあるけどね。でもわたしはこれぐらい苦いほうが好き」
「うへえ、悪趣味」
「上等。学生時代が爽やかで甘酸っぱいって言ってそうなバカよりは、ずっとすがすがしいよ」
そう梶谷のほうをあごで示して、彼女は虚空に向かって煙を吐いた。その横顔を見ながら、藤枝はほんとうに変わってないな、とむしろあきれてしまった。あきれる自分も、ちっとも成長してないのだと気付くにつれ、うっかり笑いがこみ上げた。
「なんかおかしい?」
「いや、なんでもない。ただ、らしいなって思っただけだ」
「へえ……まあいいけどさ」と彼女はもう一度吸って、吐いた。「そういえばありがとね。おかげで助かった。まさかここまでするとは思わなかったけど」
「ああ、いや、べつに」
あれはぼくのエゴとくすんだプライドのなしたことだった。だから、しょうじき称賛に値するものかどうかは、微妙な気がするが……
「ていうか、もともとあいつがろくでなしなのは知ってたんだけどね。大学入ってから彼女をとっかえひっかえしてるの、そこそこうわさだったし」
「え、そうなの」
「そうだよ。知らないのはあんたみたいな愚図だけだって」
えぇ……
「というか、なんでそれなら藤枝はあいつを追い払うのに苦労していたのさ。怖がる理由もなかったじゃんか」
「いまの彼女があいつの元カノだったの。未練が断てなかったらしくて、浮気されてさ。そんな中にあいつがわたしに迫ってくるでしょ? もうしんどいったらありゃしない」
うわあ……
「まさか大学入ってすぐの青春がこれとは思いも寄らなかったよね。とんだ災難。いまはもうどっちとも縁を切ったから、いいんだけどさ。こんだけしんどいと苦い煙草も美味しく感じるって」
あはは、と何もかも吹っ切ったように笑う。
しかしぼくはなんだかもやもやしたものを胸に抱えた。最初から最後までぼくは巻き込まれただけなのだと、どこかで予感はしていたけれど、こうありありと思い知らされるとちょっとやるせない気持ちをもてあましてしまうではないか。
はあ、とため息を吐く。しかしいまさらこうしたって意味がない。明日にはマクロ経済学のレポートを出さなきゃいけないのだ。そんなことをしている余裕なんてなかった。
だがぼくは煙草を吸った。嗜好品として毒を吸い込むなんてどうかしていると思っていたが、心の奥底に溜まったそれに比べれば、まだこっちのほうが甘くて優しいものに感じられてならなかった。
胸いっぱいの煙を虚無の空に吐き出す。そしてぼくは誰にも聞こえないような小声で、呪うようにつぶやいた。
──くたばりやがれ、青春。
第1話、なんとか終わりました。
次回以降も構想はあるので、ゆるゆる乞うご期待。