みぎがわ。
「……何故お前がここに」
用件を片付けて急いで帰る頃には、それでも陽が暮れかけていた。
クロノは笑顔の出迎えを期待して、嬉々として扉を開ける。
と、そこには見たくもない部下の笑顔があった。
「あ、おっかえりなっさーい」
「おっかえりなっさーい、クロノ!」
食卓で向かい合って、何か見た事も無い新しい遊びをしている。規則は分からないが木の実を転がしてはきゃあきゃあと声を上げて、姫様は楽しそうだ。
姫様とハルの息がぴったりなのは、ハルの頭の中身が育ってない所為だとクロノは早々に結論を付けた。
「何をしているんだ、お前はここで」
「姫様と木の実を転がす遊びだけど?」
「……で?」
「で?……夕食にお呼ばれしたから待機中……もう、ヤダこーわーいー。何怒ってんの?」
「……帰れ」
「えー? 帰る訳ないでしょ、何言ってんの?」
「姫様、ユウヤは?」
「ぅわ。無視した……びっくりするわ」
姫様は首を傾げる。ユウヤの行き先を知らないらしい。
「裏に洗濯物の様子を見に行ってくるって。すぐに戻るから……ってちょっと?」
方向を変えてすたすたと出て行く後ろ姿に、ハルがおーいと声を掛けてもそんなものは届いてない。
「……気の利かない男は、これだからねー?」
姫様はきょとんとした顔で、今度は逆の方向にこてんと頭を傾けた。
何の事か分からずに、同じ調子でねー、と声を合わせると可笑しそうにきゃらきゃらと声を上げる。
ユウヤは家の裏手、軒下の影に入って壁に凭れかかり、目を閉じていた。
眠っているのかとそっと近付いたつもりが、草を踏む音に目を開く。
「……ああ、クロノ……用事はもう済んだ?」
「すまない、起こしたか……」
壁から離れると両手を上に突き上げて、ユウヤは軽く伸びをした。
「ちょっと休憩……ハルが姫様と遊んでくれて助かった……」
ユウヤの横に腰を下ろして息を吐いた。
「アレをあんまり信用するな」
「男としてはどうかと思うけど、良い人は良い人でしょ?」
「……その評価は妥当だが……」
「お腹空いてない? 夕食にする?」
立ち上がりかけたユウヤの手を引いて、もう一度座り直させる。
「もう少しここで休めばいい……それと……」
「なに? 深刻な顔して」
いや、と言い淀んでひとつ間を置く。いつの間にか入っていた力を抜いた。
「夕食が終わってから……と言うか、今から宿を探しても部屋は無いぞ?」
「え?! ここに泊めてくれるんじゃないの?」
「なに?」
「参った……そうか、どうしよう……ハルに頼もうかな」
「待て待て!……最初からここに泊まるつもりだったのか?」
「うーん……でもハルに頼るのは色々面倒だなぁ……」
「いや、良いんだ、居てくれて構わない」
悩む様子のユウヤに、落ち着けと含ませ、意識してゆっくりと言う。
「……え? なに、もう。びっくりさせないでよ」
「宿の話をしていたから、そちらの方が良いのかと」
「……あ! そうか! 家に来いって言うから、もう泊めてくれるもんだと勘違いを……恥ずかし!」
「あ、や。……私の方こそ、何の確認もしなかった……から」
「あー……えっと。……お世話になります」
居ずまいを正すと、改まってユウヤは頭を下げた。
「いや、こちらこそ食事を用意してもらって、ありがたい」
力を抜いて壁に凭れたユウヤは、橙に染まり始めた空を見上げている。
「森の中の事はなにも知らないけど、町の事は……こんなに人が多い町なら、宿を探すのが大変な事くらい知ってますけど?」
「……そうだな」
同じように壁に背を付けて空を見上げる。
あの時やましい事は無いのかと目を覗き込んできた時には、ここに泊まる事は視野に入っていたのか。
それならあの目も納得だ。
もう少し時間が経てば、空はユウヤの瞳の色になる。
それまでは隣でこのまま空を眺めていよう、考えて体重の全部を壁に預けた。
ユウヤの作った食事はどれも、初めて口にした味だった。西端の料理とも少し違う感じがする。
町の食堂のようにはっきりわかりやすく、誰もが好む味とも違う。
毎日食べても飽きないだろう優しい味付けは、きっと小さな子に合わせた家庭の味に近い。
姫様もご所望のパンを前に、始終満足気にしている。
少しだけ味見をさせてもらった、蜜と飴がからまった木の実の乗ったパンは、甘みが強くてお菓子に近い。ひと口ほどの大きさで、ころりと丸い形。
姫様は食事と一緒に美味しそうに食べている。
和やかで賑やかで、温かい空気に包まれた食卓に心も満たされる。
邪魔者が邪魔過ぎるが。
ハルは何かとユウヤに構い、話しかけては近寄ろうとする。時々こちらの様子を窺い、へらりと笑って挑発的だ。
ユウヤが伸びてくる手を払い、冷たくあしらっているおかげでクロノの溜飲が下がっている。
最終的に襟首を掴んで『覚えていろ』と声をかけてハルを家から放り出した。
姫様はいつもユウヤにそうするように、椅子に腰かけたクロノの膝によじ登って座った。
下着姿の姫様からは、風呂上がりのほかほかと温まった、石鹸のいい香りがしている。
風呂場からは、早く寝台に行くようにとユウヤの声がして、姫様は仕様がないと前面に押し出した、不服そうな返事をしている。
小さな手のひらを合わせるとふふふと笑った。仕様がないが、代わりに良いことを思い付いたので、それで納得すると決めたらしい。
「クロノ、お話して!」
両腕を伸ばしてせがまれたから、そのまま抱き上げて寝室に連れて行く。
大人しく布団の中に入ると、さあ始めろと言わんばかりの目で見上げている。
クロノは枕元に腰かけて、自分が子どもの頃、眠る前によく母にねだった物語を思い出しながら静かに語り始めた。
疲れていたのか、程なくうとうとし始め、姫様はすぐに目を閉じた。
そのまま話を続けて、寝入ったのを見計らって口を閉じる。
「……ここからが良い所じゃないの?」
ユウヤが寝室の入り口に寄りかかって苦笑いしている。
「私の方が気になって眠れなくなりそう」
小さく抑えたユウヤの声は、少しかすれて耳に心地いい。首の後ろをそっと撫でられるような感覚に、クロノは腰からそわそわ這い上ってくるものに背筋を伸ばした。
「では向こうで話の続きで……も、待て、何だその格好は」
肩は細い紐だけで腕は何にも覆われていない。脚もつま先から付け根までが露わになっている。
透けそうなほどに薄い布は下着とも呼べないくらい頼りない。
「全部、洗濯したから」
「……誘っているのか」
「姫様も似たような格好だけど?」
「同じに考えろと?」
「……勝手に誘われといて、それを私のせいにしないでもらえる?」
「……何か着てくれ」
「だから乾いてないんだってば……見なきゃいいでしょ」
「無理を言うな」
「じゃあ、がまんして」
「……これ以上か?」
急に喉が渇いて、同時にこの家には酒が無いことを思い出した。ゆっくりと呼吸して自分を落ち着ける。
「茶でも飲もうか……」
「お淹れしましょう?」
振り返って部屋を出るユウヤの薄い肩。
引き締まった腕や脚、美しい曲線の腰。
明るい場所に出ると肌の白さが浮き立つ。
向けられた背の、一層その肌の白さを際立たせるものに、クロノは全身を逆撫でされ、思わず言葉がこぼれ出す。
「その背中……」
全体に翼が描かれている。
羽一枚として手を抜かず、本物を写し取った様に精緻で美しい。黒一色で描かれた翼は、白い背中でさらに羽を白く浮かせて見せている。
言葉にするより先に思考が物凄い速度で結論を叩き出す。
いつ、誰に、何をされても対応できるように、剣士の構えとして利き手を、右手を空けているのだと。
姫様を左に『置いている』のだと思っていた。
そうじゃない、違う。
それは全て自分の勝手な思い込みだったと息を呑んだ。
姫様を左に置いていたのではない、
ユウヤは姫様の『右側に居なくてはいけない』のだ。
背中の翼はふたつに折りたたまれており、羽のいちばん先は右足の腿の中程までに達している。
片翼。
右側の翼だった。
「は?! もしかして虫が付いてる? むりむり!取って! お願い!」
熱に浮かされふらりと近寄って、その背中に手を置く。
風呂上がりのしっとりとした肌は吸い付くような感触で、クロノの背筋にぞわりとした震えが走る。
翼を撫で、手を滑らせてそのまま両腕でユウヤの腰を抱いた。
「……虫が抱きついてきた」
忌々しい、そんな雰囲気でユウヤは静かに言い放つ。
「……ユウヤも、役目の名なんだな」
右側に在る事を決められた、
そのものを指す名。
『右也』
ユウヤは自分の背にあるものを今思い出したかのように、ああと小さな息をこぼす。
「……やりにくいったらない」
「左側はどうした……サヤという名か?」
「……だったら何? あなたに答える必要があるとでも?」
顔を見なくても、声だけでユウヤが今どんな表情をしているのか分かる。仇を睨み付けるような、敵に挑んでいるような、鋭い眼差し。
全てを突き放す冷徹な微笑。
想像だけで腹の中が燃えるようだ。
細い首に口付けをして、唇を沿わせていく。
きっと今、自分も同じような顔をしているに違いない、と息を吐いた。
長椅子に組み敷いても、手を体に沿わせても、声どころか息ひとつも漏らさない。
人形のように感情の無い顔は、こちらを一瞥もせず横に逸らされたまま。
邪魔な布を取り払って、男が魅了されるのを計算し尽くしたとしか思えない曲線を撫で上げる。
白磁の肌に時々引っかかるのは、大小いくつもの傷跡。自分の身体にも見覚えのある刀傷はユウヤの肌でほんのわずか主張している。
痺れたような指先で、手のひらで。
唇で、舌で。そのひとつひとつを撫でていく。
「早く……して」
熱のこもった声ではなく、全く言葉通りの意味でユウヤは言った。
「私が良くなる必要はない……」
部屋の隅の方、光の届かない暗闇をユウヤは見つめている。
「そのうちに姫様が、目を覚ます……泣き出す前に終わらせて」
顔に手を添えてもこちらを向く気はない、目を合わせようともしない。
腕はだらりと椅子から垂れ下がってそのまま動く気配もない。
「そうやって人形のように振る舞えば、私の興が削がれるとでも思うのか?」
「……どうでもいい」
ユウヤは目を閉じて、溜息を吐き出した。
とろとろ微睡んで、夢と現実を行き来していると、腰に巻き付けていた腕を除けてユウヤが起き上がる。
床に散らかった服の中から自分のものを引っ張り上げて身に纏った。
ふらつきながら立ち上がり、寝室に向かう。
扉を開けると、姫様の弱々しい泣き声。いつものように、ここに居ると言う優しい声が、扉が閉まるのと同時に聞こえなくなる。
一瞥もくれる事なく離れて行った背中、閉じたドアにユウヤの感情が現れている。
広くなった長椅子で仰向けに寝返って、大きく息を吐き出した。
ままならない自分に嫌気がする。
優しくしたかった、し、そうしてきたつもりだった。ユウヤの心の中に住む事を許されたいと思った。
良い人だと思われたくて、それなりに気を遣ったはずだった。
ひとりの人として、その強くてたおやかな心に敬意を持ったし、大切にしたかった。
御しきれなかった体も、それを止められるはずの心も総てがユウヤに向かい、全てを吐き出して思いのままにぶつけた。
他の誰とも違うと思わせたかった。
結局は誰とも違わない、『見た目だけで評価する村』の住人で、祭りの夜に求婚する酔っ払いと何も変わらない。
今までにないほどに、どんな女よりもユウヤを求めた結果がこれだ。
今までにないほどに、誰より大切にしたいと思った人なのに。
服を着て、剣を一振り握って外に出る。
朝日が昇り始めるまで、集落の外の草はらで剣を振るい続けた。
一方通行の始まり。
右也
ユウヤと名乗ってますが、名前ではありません。
姫様と同じく。
役目や立場を訳しているとご理解下さい。