白金の糸。
無くなりはしないが疲弊はする。
白い竜はそう言っていた。
一歩も動きたくない、疲れたと感じることはあっても、いつも何かに背を押されて再び歩き出せた。面倒でも立ち上がれる何かがあった。
石の祭壇の上で、下敷きの腕が痛いとか、少しずつ湿ってくる服が嫌な感じだとか、頬の下の小石が鬱陶しくても。
何をどうする気も起きない。
どんなに体の調子が悪くても、ここまで、指の先も動かすのが億劫だと思ったことはない。
このまま眠れば楽になれるのかとも思うけど、残念なことにひとつも眠くはない。でも瞼を持ち上げるのすら途轍もなく大仕事な感じがする。
どれほど時間が経ったのか、しばらくは考えることすら放棄していた。
アメリは自分の元に近付いてくる気配を感じて、思考を再び動かし始める。
気配だけ。
物音ひとつ、足音すら聞こえない。
それはアメリのすぐ横まで来るとひたりと止まった。
見なくても分かる。
もうすっかり慣れてしまった、六本足の黒猫。
「……まに……あった……?」
自分から出た声がひどく掠れて、思ったよりも小さなことに疲れが増す。
「足か腕か、目玉か……ふたつあるものの片方ぐらいならくれてやる気だった」
「……なに……?」
「俺では代償にならないらしい……俺はこの世界のモノでは無いから無理だった」
「……なにが?」
「呪いを解くには相応の代償がいる」
緑濃い湿った空気を吸い込んでアメリは目を開いた。
「……そ……な話……聞いてない」
「ああ。代償は俺が支払うつもりだったから、言ってなかった」
目の前には黒猫ではなく、黒い靴の先が見える。黒い衣服の痩身の男、ジエレオン卿が立っている。
アメリは横向きの体勢からどうにか寝返って、仰向けになって男の姿を視界の中に入れる。
たったそれだけの動作で意識が後ろに引っ張られて、消えてしまいそうになる。
目を閉じて、引っ込んでいきそうな感覚に必死にしがみついて引き止める。
ゆっくりと息を吸い、吐き出した。
「腕か足で……元に、戻る?」
「ああ……誰のものでも、この世界の者の体で贖われる」
「……わたし……の……」
「そう言うだろうと思って、お前の元に来た」
出来るだけ早くしてもらわないと、今にも意識がどこかへ行ってしまいそうだった。
「……なんでも、もっていけば……いい。さっさとクロノをもどして」
「……ああ」
ジエレオン卿の返事だけは聞いて、アメリは暗く深いところに飲み込まれていくのに身を任せる。
ジエレオン卿が手を差し出すと、空中に青白い光の小さな粒が集まっていく。
やがてそれは形を作った。
三日月のように反り返った刃物。
一歩進むと石の祭壇でしなやかに伸びているものに視線を向け、それを中央に据える。
口の中で呪いを唱えながら、灰色の息を吐き出した。
付け根の部分に狙いを定め、ジエレオン卿は振りかぶった剣を、真っ直ぐに振り下ろす。
飛び去った竜を追って、向かって行った方角へ真っ直ぐ走る。
以前の旅で大人しく言うことを聞いてどうなったか。背を向けてアメリの元を離れて何が起こったのか。
一緒には行けない決まりならば、後を追えばいいと簡単に思っていたら、空を駆けて行ってしまった。
歯噛みする思いで漏れ出た低い唸りを撒き散らす。身体を低くし、渾身の力を脚に込めて真っ直ぐに駆け出した。
後ろからはグレンが追いかけて来ていたが、道も無い藪の中を突っ切るのは難しい。どんどん後ろに離されているようだが、それを気にしてもいられない。
同じように前を走っていたはず黒猫はいつの間にか姿を消していた。
森に入ってしばらく、己の感覚のみでただ真っ直ぐに走っていた。
見上げても葉の切れ目から、僅かに空が見えるだけ。もちろん竜の影もない。
どれだけ走り続けたのか、急に足が萎えたように力が抜ける。それほど長く走ってもいないのに、足がもつれて勢いに任せてそのまま前に転がっていった。
こんな時に、と苛立たしく立ち上がろうと地に突いた手の指が見る間に長くなっていく。
するすると黒い毛が引いた。
みしみし軋む骨の音、寒くもないのに身体中に震えが走る。痛みは無いが、この感じだけは気持ちが悪い。
身体が変わっていく。
呪いが解けたのか。
起き上がり自分の胸元を見下ろして、紋様が無くなっているのを確認した。
アメリはもう『世界の瀑布』に辿り着いたのか、そこまで考えてクロノは指笛を鳴らした。
辿り着けたのだと少しだけ心を落ち着けて、息を吐き出す。
しばらく待っているとがさがさ音を立てて、藪を掻き分けながらグレンが走り寄って来た。
随分頑張って進んだのか、黒く艶のある毛の間には更に黒く濡れた、いくつも血の滲んだ箇所がある。
鼻先を叩いて労い、鞍の後ろに固定された鞄を開ける。
服を身に付けた後に、グレンの脚に革製の覆いを被せた。
ここまで付いて来たのに、愛馬を置いていく訳にもいかない。かといって騎乗して走らせるにも酷なほどの悪路だ。
クロノはグレンの手綱を取って、藪を分けながら前に進む事にした。
感覚だけを頼りに、何も目印のない目標に向かって、真っ直ぐ歩き出す。
前から音も無く現れた人物に、眉間の間に力が入る。
この森の中には不釣り合いな、上等な黒い衣服を身に纏った、背が高く痩身の男。
燻んだ金色の長髪、同じ色の瞳。
アメリから聞いていた通りの風貌の男は、クロノの姿を認めると、薄い唇を持ち上げて不敵に笑う。
六本足の黒猫をそのまま人の形にしたようだった。
「ジエレオン卿か」
「ああ……人に戻れたな」
「この通りだが……何故そんな事を聞く」
「足りたようで良かったな」
「足りた? なんの話だ」
「俺が差し出せる代償では足りなかった。俺がこの世界でお前らと同じく持っているものは時間ぐらいでな。後の足りないものはお前の奥方からいただいた」
「何を? 何の代償……」
「お前の呪いを解く代償だ」
答えを聞く前にはもう既にその首をへし折ってやろうと腕を目の前に薙いでいた。
黒猫と同じように手応えもなく、空気を掻いただけで、手は何も掴まないまますり抜けていく。
たまたま手の中に入った草を引き千切ってその辺りに叩きつける。
「……覚えておけ。私も貴様をぶっ飛ばす」
「ああ、そのうちにな」
「……アメリから何を」
「体の一部をもらったよ」
「なん……何だと」
ふいと後ろを振り向いて、ジエレオン卿はふと笑いを漏らす。
「この先で倒れているな……大木の前の石舞台の上だ」
ひゅと鋭く息を吸い込んで、クロノはその方向を睨む。
「ああ……これでも一応は悪いと思ってはいるから、教えてやろう。お前、方向が少し逸れているぞ。このまま進んでも辿り着けない」
見ろとジエレオン卿は人差し指を出して、一点を突くように宙を指した。
細く今にも消えそうな銀糸がふわりと舞って、それは森の奥へと続いている。
黒衣の男はにやりと口の端を持ち上げて、おまけだと笑う。
「これを辿るといい……消えないうちにな」
蜘蛛の糸のように少しの風で揺れて、触れれば切れてしまいそうだった。
不思議と嘘を吐いている感じはしない。
この糸は繋がっているのだと、頬を掠める風に、アメリの香りを見つけ出す。
「俺は俺でなかなか忙しい……ではな」
言葉だけを残して、姿はもう空気に溶けて消えていた。
震える手にある手綱を握り直して、クロノは銀糸を辿って走り出す。
「過保護がとどまるところを知りませんなぁ……」
三日間眠り通した後、目を覚ました後も怠くて何をする気力もない。
不機嫌に唸るだけのアメリに、クロノはせっせと食事を口元まで運び、あれこれ身の回りを甲斐甲斐しく世話した。
自力で起き上がれるまで二日、更にその後もしばらくは静養させられて、外に出してもらえるようになるまで、アメリは眉間にしわを作り、口の先を尖らせたままだった。
今もグレンに乗るにも、子どものように前に座らされている。
いくらもう平気だと訴えても、嫌味を言っても、聞き入れてもらえない。せめてもの反意にクロノに思い切り寄りかかってぐいぐい体重をかける。
ふと後ろで笑う気配がして頭の先に口付けられた。
「そろそろ休むか?」
「え? もう?」
「……そこで休憩をするぞ」
「強要される!」
こうして呑気におしゃべりしながらの移動だから、大して距離は進んでいない。
にも関わらず、適度な広場を見つけると足を止めてグレンから降ろされる。もちろん抱えられたまま、ふかふかの敷物の上まで連れて行かれる。
「さっきの町で買った菓子が良いか? それとも果物にするか?」
「皮剥くの?」
「うん、もちろんだ」
「私、それの皮も好きなんだけど、しゃりしゃりして」
「なら食べやすい大きさに切ろう」
「……クロノ?」
「どうした?」
「きれいな服が着たい、お姫様みたいな」
「好きなだけ作らせよう」
「……クロノ?」
「なんだ?」
「……あの山あるでしょ、目の前の」
「ああ」
「……あれ、欲しい」
「山と言わず領地ごと手に入れよう」
「……クロノ?」
「うん?」
「頭大丈夫? 温いの? 痛いの? 病気?」
頬に大きな手が添えられて、その反対側に口付けされる。
細められている目を見上げて、くいとアメリは唇を引き結ぶ。
「可哀想がるのもうやめてくれない?」
「……そんなつもりは」
「気にし過ぎ。すぐに伸びるってば」
顎の辺りで切り揃えた髪は、ふわと揺れて頬をくすぐる。
代償として持っていかれたのは髪の毛だった。腕も足も、目も両方揃ってちゃんとアメリの体にある。
「すっきり軽くなって、私は良い気分なんだけど……涼しいし」
頓着なくもしゃもしゃと短くなった髪をかき混ぜる。
鳥の巣のようになった部分を、クロノの手が梳かしていく。きれいに慣らすと安心したように小さく息を吐き出した。
「たかが髪の毛ぐらい……」
「アメリのものを無くさせた……」
「髪が長くないと嫌?」
「そういう問題ではない」
「髪が短い私はキライ?」
こてんと頭を傾けてクロノを見上げる。
決まってクロノは真っ赤になって、それ以上ゴネなくなるので、最終的にはにっこり笑って嫌いなのかと聞いて話は終了する。
アメリはふへと力無い笑い声を漏らして、まだ怠い体を横にした。
ごろんと転がって手足を伸ばす。
自分の思い通りに動くようになってきた手を持ち上げて目の前にかざす。
「持っていかれたのが腕とかじゃなくて良かったでしょ?」
「……もしもそんなことがあったら、あの男をぶっ飛ばすどころでは済ませない」
「いやいやちょっと待って。ぶっ飛ばすのは、私だからね!」
ぶんぶん拳を宙に突き出して、アメリは今から殴る練習に余念がない。
あれ以来、黒猫もジエレオン卿の姿も見なくなった。影に潜んで付いて来ている気配もない。むしろもう会えないような気すらしている。
今は国を北上しながら、気になった所に寄り道しつつ、ゆっくりと移動をしていた。
城都へはまだまだ遠い。
「……クロノ?」
「うん?」
「服も山もいらないからねぇ……」
「ああ」
「別のものが欲しいなぁ……」
「なんだ?」
「騎士団長じゃないクロノ……総長夫人じゃない私……ちょっとの間だけでいいから」
「……ああ」
「……役目はしばらく要らない」
青白かった肌にやっと朱がかかってきた。
細かった頬が少しだけふっくらしてきた。
この世界のあらゆる美しいものを詰め込んだような我が妻に手を伸ばす。
ふわふわとした銀糸の髪を撫でると、気持ちよさそうに目を閉じた。
潰してしまわないように覆いかぶさって、もう止めろとアメリが怒り出すまで、クロノは何度も口付けを繰り返した。




