ひかるもの。
「ああ……なんだ、それ程遠くなさそうだな」
「ええ……そうですね」
目的を切り替える気分で、光を放つ方向に意識を向ける。
これから目指すべき『世界の瀑布』はここより東の方角にあった。
ふと笑ったような声が聞こえてきて、隣の小さな男の子を見下ろす。
「向こうから寄って来ているのか……」
「それだけ大ごとということでしょうね」
「初めの旅はそりゃ厳しかったが」
「ええ……私もです」
自分たちだけの力で進まなくてはいけない。
本能のように心の底から湧き出る気持ちは、前の旅の時と同じだった。
それでも姫様との旅の時のように途轍もなく遠いとは感じない。
「……調子の良い事だ」
「何年も歩かなくて済みそうで安心しました」
男の子はもう一度短く笑いを吐き捨てる。
「そんな暇はないぞ」
「……ですね……あ、少し、良いですか?」
離れた場所で佇んでいる、黒い姿が目に入る。
男の子の方が率先してアメリの手を引いてそこへ歩み寄った。
「……クロノ、ちょっと行ってくるから待っててね」
アメリが正面でしゃがみこむと、少し頭を下げ、睨むようにしてクロノが唸り声を上げる。
「だめだめ、知ってるでしょ。他の人は一緒に行けないってば」
地を這うような唸り声は途切れずに続いている。
「これは……人か? 呪いをもらったな」
「……はい、そこの猫に」
「……ふん。人を盾に取るとはな……痴れ者が。お前如きに何が出来る。勘違いでもしたか」
男の子は振り返って、アメリの足元の影から、体半分だけ地面から生えたような猫を見下ろす。
長い尻尾が蛇のようにうねうねと揺れていた。
「ねえ、猫……もういいでしょ、クロノを元に戻して」
「……まだだ」
「は?」
「錘の者を元の世界に還すまでと限って術を施した」
「……ちょっと、待って……だって、そんなの間に合うわけない……」
どれだけの猶予が残されているのか知らないが、ふた月で呪いの紋様の文字は一周する手前まできている。
「今から術の書き換えはできない」
「そんなの!」
「……何度も急げと忠告した」
「……完成したら、クロノは元に戻れなくなるんでしょ?」
「ひと回りする前に元の世界に還れば問題ない」
手足の先から寒気が上がって、身体中の毛が逆立ち震えた。
無理だと大声を張り上げたいのに、食いしばった歯は開こうとはしない。
あと数日の猶予もないはずだ。
あと数日のうちに世界の瀑布まで?
さっきまでは楽だと思っていたのに、今はもう遥か彼方、遠く、絶望的な距離にしか感じない。
どうやって体を真っ直ぐにしていればいいのか分からなくなって、アメリは地面に両手を突いた。
その腕も自分の体を支えられずに小刻みに震えている。
「……お前は何をしにここに来た」
男の子の低い声は辺りの空気をさわりと震わせた。
真っ直ぐ前を見据えていた目が後ろにある影を振り返る。
「柱としての己の座を棄て、世界の秩序を乱して構わぬと、お前を動かしたものは何だ、何の為だ」
空気は動いてはいないのに、風に吹かれた煙のように、猫の黒い体がゆらりと霞む。
「私やこの調整者を痛め付けてまで得られるものはなんだ?」
細められた金色の目を見て、男の子は意を得たように口の端を片方持ち上げた。
「……なるほど。大切な者を失うという恐怖を知ったというのに、その痛みを私やこの調整者に課そうとよくも考えられたな」
男の子は小さな手でするりとアメリの背中を撫でた。
「さあ、行こう……調整者」
地面で土を掻いている手の上に、さっき背を撫でた小さな手が重なる。
「私がお前に呪いをやろう……良い方のな。だから私に力をおくれ」
「……もとに……もどれる?」
「ああ、きっと……だから私にお前の心をおくれ」
血の気の引いた顔を持ち上げて、アメリは男の子の瞳を覗き込んだ。
女の子を見ていた時のように優しく微笑み、心配は要らないと小さく頷いた。
ぐいとふたりの間に黒狼が割って入る。その背にアメリを庇うようにして。
「安心しろ、悪いようにはしない」
男の子はふかふかのクロノの毛並みを撫でる。
「心をくれとは言ったが、無くなるものでもない……お前は何かを思う気持ちが……例えば、この調整者への想いが減ったり無くなったりすると思うか?」
ふわりと揺れたクロノの尻尾は、アメリを何度も撫でるように行き来する。
「与えたからといって、消えたり無くなりはしない……いくらでも膨れて大きくもなる。心とはその様なものではないか?」
クロノはわずかに頭を下げて、数歩後退する。アメリに顔を向けて頬ずりをすると、鼻先を合わせた。
クロノの首の毛を掴むと、アメリはぐりぐりと掻き回す。
「ふふ……元気出た。ありがと、クロノ」
大きく息を吸い込んで、両手で自分の頬を勢い良く叩いた。
「私はどうすれば良いでしょうか」
男の子はアメリに小さな手を差し出した。
「想え、私に力を貸したいと」
左の手をその上に重ねて、アメリは目を閉じた。強く願う。
アメリの影の中にいた黒猫は転がる様に走り出てその場から距離をとる。
「お前とて私たちの旅には同行出来ん、邪魔だ」
片方の口の端を持ち上げて首を傾げ、黒猫を横目に見る。
「だがいいか、後は追ってこい……自分の後始末は自分でしろ。解っているな」
男の子はアメリに向き直ると、自らも目を閉じた。
「……いいぞ、調整者……そのまま」
ふと空気に溶ける様に輪郭が白く光る。
男の子は口の中で何事かをつぶやくように声を出すと、瞬きほどの間に光に包まれ、その光の塊はアメリの手の上に乗るほどの球になる。
光の球はするりと腕をひと回りしながら、尾を引いてアメリの肩に登った。
眩しいほどの明るさがアメリの両方の肩の間を行き来し、次第に落ち着いていく。
くるくる回って止まった頃には、光は消えていた。
肩に乗っているのは、白い鱗で全身を覆われた竜。
物語に出てくる竜よりもずいぶん小さいが、美しい姿の、翼を持った竜だった。
「うん……良いな。すっかり傷も癒えた様だ」
アメリの肩から膝の上に降りると、小さな竜はアメリを見上げる。
「さあ、役目を果たせ。調整者よ」
宵の色をした猫のような目が瞬いた。
「これなら間に合うだろう」
膝を下りて目の前に駆け出していく竜の背が、見る間に大きくなっていく。
それこそ物語の挿し絵で見たような、人の何倍もある大きさになった。
広げた翼は蝙蝠のようで、向こうが透けて見えそうなほど薄いのに、羽ばたくと風を巻き上げ小さな石や葉が吹き飛んでいく。
「背に乗れ、調整者……行くぞ」
アメリは力の入らない膝や腿を何度か叩いて立ち上がる。
ふらふら駆け寄って、長い尾の方からこぶのように僅かに出っぱった部分に手と足を掛けて、大岩を登る気分で竜の首元を目指した。
「落ちないように大人しくな」
笑うような声にアメリは頷いて、首元の辺りに跨った。落ち着ける場所を探り当てると、ぺちぺちと白い鱗を叩いて合図を送る。
大きな裸馬に乗ったような感覚で、アメリは足を折り畳んだ。
ぐと一旦体を沈めて、竜は翼を持ち上げる。
数回羽ばたいて地面を二本の足で蹴ると、見た目の重さを無視する速度で急上昇した。
反してアメリは自分の体の重さを支えきれずに、ぺちゃりと潰れたようになっていた。
重みが消えて、体を持ち上げた時には、地面は随分と下に、家々の屋根は自分の爪の大きさもない程小さく見えている。
森を渡り、山並みを越えた。
味わったことのない速さで景色が後ろに流れていく。
「……高い……」
「恐ろしいか」
「……はい……でも……気持ちいいですね」
「そうか」
腰から下が寒い感覚。怖さで足が痺れたようでも、気分は悪くない。
むしろ高揚して、嬉しいくらいだった。
馬で走るように体が後ろに持っていかれるかとも思ったけど、不思議と風を切る音は無く、髪の毛を軽く揺らす程度。ふわりと生温い風が掠めていくだけ。
もの凄い速さで前へと進むのに、アメリはどこかに掴まる事もなく、両手はぺたりと鱗に乗っている。
冷たくも温かくもない、するするとした鱗の感触に、勝手に手が動く。
鱗は見る角度で陽の光を白く跳ね返したり、虹色に光ったり、朝の降り積もった新雪を見ているような感じがした。
「……あまり撫でるな、くすぐったい」
「あ……気持ち良かったので、つい」
「……しかしこの体は目立つな」
「え? 元々この姿じゃ無いんですか?」
「形はな……この姿だ。だがお前から力を得たから、色はかなり違うぞ」
「そうなんですねぇ……困りますか?」
「いや……こんなものだろうと予想はしていたしな」
「元々はどんな色ですか?」
「闇の色だ……あの猫や狼と同じ」
「へぇ……真反対になっちゃいましたね」
「うん……まあ、構わん。己の色を何時も気にしたりしないしな」
「……そうですね……他にたくさんするべきことがありますから」
「……案ずるな、きっと間に合う」
「……はい」
体を寝かせて寄り添って目を閉じる。
自分の心がこの竜の力になるのなら、想えばもっと早く辿り着くかも知れない。
空を裂くほどの速さで、風を切る弓矢のように。
「私は楽になって良いが……ほどほどにしておけ?」
「……え?」
「心は無くなりはしないが、疲弊はする」
「構いません……だって、私は飛べない」
間に合うのなら、心が疲れようが、どうなろうが、どうでもいい。
クロノの呪いが解けるのなら、後のことは構わない。
額を白い鱗に擦り付けて、アメリは心を研ぎ澄ませていく。
自分を取り囲む景色が二重、三重、それよりたくさんに見えるこの懐かしい感覚に、アメリはふと笑い声を漏らした。
役目が無ければ聞こえるはずもない音が響いている。大きな布が風を孕んで揺れる音。
滝を落ちるような世界を映す布の幕。
『世界の瀑布』
一度目は近付くことすら叶わなかった城を見上げる。
クロノから聞いて想像していたよりも、がっしりした感じにぽかりと口が開く。
もっと繊細で、美しい幻のような城を思い描いていたのに、思いの外、立派で頑強そうな大きな城だった。
するりと竜の首元から滑り降りて、その傍に立つ。
ふわりと景色が膨らんでめくれ上がると、その向こうの景色から現れたのは、少年だった。
十を少し過ぎた程。アルウィンと変わらなそうだなと思って、見た目の歳は当てにならないんだと思い直した。
それ以前にこの姿は、きっとこちらの世界に合わせたものだろう。
竜の前まで歩み寄って、少年は丁寧に礼をした。
「力が及ばず、申し訳ありませんでした」
「いや……無理もない。謝罪など要らん」
竜は白い光を放ち小さく縮むと、光が消えた後には、出会った時の男の子の姿に戻っていた。
隣に立っているアメリの左手を掴んで、くいと引く。
「礼を言おう」
アメリは両膝を地面に落として、真っ直ぐに男の子を見た。
「いいえ……私の方こそ、ありがとうございます」
「うん……ここはまだお前の世界だ。長々とはできん。話はまた今度改めてさせて貰おう」
「はい……では、また」
「うん、いずれな」
歩み寄る気配に顔を上げると、少年はアメリの目をしっかりと見ながら深く頷いた。
「心からの感謝を貴方に」
「……役目ですから」
別の世界にもこちらと同じように、ユウヤとサヤのような役目があるのかは知らない。
それでもきっと似たような何かを背負っているような気がして、アメリは少年に頷き返した。
離れていくふたつの背中を見送る。
大きな布を持ち上げるように、景色を持ち上げて、ふたりはその向こう側に姿を消した。
アメリは立ち上がって、今度こそ儚く、幻のように消えていきそうな石造りの城を見上げた。
瞬きを繰り返すたびに薄く消えていく城は、間もなく木々の緑色に変わった。
目の前には天を貫く大木。
幹はちょっとした家周りよりも大きそうだった。
視線を下に向けると、ぱたぱたと水の玉が足元に落ちていく。
シャツの袖で、顔を拭った。
自分が立っている大岩は舞台のように四角く平らになっている。
苔むして端は欠け、崩れている箇所もいくつかあるが、足元に薄っすらと彫刻が見える。
人の手が加わった、祭壇のようなものかも知れないと、アメリはその場に座り込む。
視界いっぱいの一際大きな木は、とても神聖な感じを受けるから、きっとこの考えは間違いないだろうと、深く息を吸い込んで、静かに吐き出した。
そのままゆっくりとアメリは横に倒れる。
もう座っている事すら辛かった。




