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おもりのもの。






三度目の新月の日を、国の南端で迎える。


あと数刻もすれば陽が落ちる。それまでに次の町に辿り着けるはずだ。


砦の町の手前、街道を逸れた草原で休息のため足を止める。アメリはグレンに水を飲ませようと、手綱を引いて小川を探した。


ちらちらと白い光を返す水面と、グレンがざぶざぶ水を飲む様子をその横にしゃがみ込んでぼんやりと見ていた。


その横の藪の中を枝を踏み折りながら近付いてくる足音が聞こえる。


「アメリ……」

「クロノ戻ったの?」

「ああ……服を取ってくれないか」


アメリはグレンを見上げて、鞍の後ろ側、腰に掛かったままの鞄に、眉を下げてふふと笑い声をあげる。




自分に掛かっていた白金の証を外して、服を整えたクロノの首に掛け直す。


「町に入る前に姿が戻って良かったね」

「そうだな……アメリ?」

「うん? なあに?」


クロノは腕を伸ばすとアメリを抱き寄せて、ぎゅうぎゅうとその中に囲い込む。ひとつ大きく息を吐き出した。


「どうしたの?」

「……狼の姿だと、これが出来ないからな。しばらくこのまま……」


はいはいと笑ってアメリはクロノの腰を叩いて背中を撫でる。




旅が始まって二月(ふたつき)

このまま南下すれば、錘の者の元に数日中には辿り着けそうな距離にまで来た。国境を越えるにも人の姿のクロノと一緒の方がすんなりと事が運ぶ。


そう考えて、光の元が隣国ではないかと予測を立ててからは、新月の時期に合わせて移動をしていた。


「アメリ……この前の傷を見せてみろ」


耳元や首筋にしつこく口付けを落としながら、クロノはアメリのシャツを引っ張り上げようとする。


「は?! 大丈夫だし。何度も見たでしょ、ていうか、ここ外だから!!」

「うん?……誰もいないぞ」

「そういう問題じゃない!! やめてってば!」


町に寄ればひとり旅の女と思われて、しつこく男は寄って来る。

街道を走っていれば、随分と身なりの良い優男と勘違いされて、金品目的の盗賊に襲われそうになる。


その度に心の底から人を見下す様な冷笑を浮かべて、辛辣な言葉を吐き散らし、それでも足りなければ剣を振り回し、まだ諦めなければクロノが唸りながら飛び出して来た。


少し前に三人組の男たちに囲まれた時、相手もそこそこ腕に自信があったのか、なかなか諦めなかった。

アメリか金目のものか、またはその両方を手に入れようと執拗に襲ってくる。


ひとりの太腿を刺し貫いて動けなくし、ひとりの手首から先をクロノが噛み千切って、剣を持てなくしたところで、やっと諦めて去って行った。


その時にアメリは胸のすぐ下の脇腹を負傷した。

傷は皮膚を深めに割いただけで、押さえていればすぐに血は止まったし、きつく布を巻いておいたら次の日には傷は塞がっていた。

戴名(たいめい)して死に難い体になっていなかったら、傷を縫ったり、塞がるまでが面倒だったろう。


「うわ! ちょっと、ほんとにやめて!! なんで私まで外で裸になるの?!」

「……それは私に対する皮肉か?」


アメリが傷を負ったと分かった途端に、逃げようと背を向けている男を地面に抑え込み、クロノはその首に食らい付いていた。


アメリが止めなければ手の先同様、頭も失くしていただろう。




上に下にぐいぐいシャツを引っ張り合って、どうにかアメリは太陽の下で腹を出さずに済んだ。

クロノは不承不承といった表情でシャツの上からアメリの傷のある辺りに手を当てた。


「済まない……私が付いていながら傷を」

「ええ? いいよ、稽古でもこのくらいのことはいつでもあるでしょ?」

「稽古とは違うぞ」

「実戦でこれだけで済んで、良かったね?」

「私が同じ傷を負ったら、どう思うんだ」

「あ……あぁ。うん。……でも大丈夫だよ、もう全然痛くないし」


するりと背中に腕を回し、クロノはアメリの足が地面から離れそうになるほどぎゅうぎゅうと抱き込む。


「もうすぐだね」


近ごろ呪文の様に何度も言っていた言葉に、この日はちゃんと言葉で返事がある。


「そうだな……随分遠くまで来たものだ」

「時間がかかっちゃった……」

「いや? 私はまだこのままでも構わないぞ?」


体を離してアメリを見下ろすと、怒った様な顔で見上げている。クロノは頬に手を沿わせて口の端を持ち上げる。


「……冗談だ。もうそろそろ狼の体も飽きてきた。先に進もう」


背骨が浮いて、薄くなった体を撫でる。余計なものを無理に削ぎ落としていったようなアメリの体と心は、自身の腰の後ろに佩ている剣のように研ぎ澄まされた感じがする。


初めて出会った時のように、

役目の為に自分を顧みなかったあの時のように、目的を果たそうとそこに全てを懸けている。


「……その為に先ずは休息だな。今日はたくさん食べて、ゆっくり休もう」

「……だね、そうしよう!」


一晩を砦のある町で言葉通りに明かした。


それでもクロノが人の姿である一日はあっという間に過ぎてゆこうとしている。


国境をクロノのおかげで難なく超えて進み、大きな街道を白い光を目指す。

途中立ち寄った草原で、アメリの目の前に六本足の黒猫が現れる。


「よう、楽しんだか?」

「どうして? まだ月は出てないでしょ?」


木陰で休んでいる隣には、人の姿のクロノが座っている。


「ああ、何だろうな。いつもなら力の具合が難しいんだが、今は明瞭に感じるな。流れが読み易い感覚だ」

「なにそれ、わかんない」

「錘の者が近いから安定するのか」

「そういうものなのか?」

「まぁ、俺も錘の者もこの世界からしたら異物だからな、近しいモノ同士で影響し合うのか……ただの推測だが」


ふたりを邪魔するように真ん中に座って、両隣からの言葉に黒猫は顔を向けて答えている。


「猫……聞きたいことがあるんだけど」

「なんだ」

「クロノの胸のところの紋様」

「ああ」

「もうすぐひと回りしそうだけど」

「そうだな」


前回に見た時はその紋様を囲む文字のようなものは、三分の一ほどだったものが、今はもうすぐ天辺に届いて一周する所まで埋まっている。


「急げよ、ひと回りすると呪いが完成する」


自分のシャツの胸元を引っ張って覗き込んでいるクロノの横で、アメリは盛大に舌打ちをして勢いよく立ち上がり、そのまま横にいた猫を踏みつける。


ふわりと散った黒猫の煙は、目の前にふわふわと移動してまた猫の形をとる。


「やる気が出たか?」

「黙れ」


地を這うような低い声の後に大きな手が猫の体を横に薙いだ。


「これ以上追い込む必要があるのか? もう止めてくれ」


クロノは立ち上がると、身体中に力を込めているアメリを優しく包み込むように抱きしめた。


「……アメリ……大丈夫だ」


色んなものを飲み下そうとして、体を小刻みに震わせているアメリを宥め、何度も大丈夫だと繰り返す。背を撫で、口付けを落とし、握られた手をゆっくり解こうと包み込む。


黒猫は目を細め、その様子をしばらく静かに見ていたが、そのうちにふわりと散って姿を消した。


自分を立て直すまで、クロノはアメリの細くなった背を撫で続けた。



ふたりは草原に座り込んでいる。

アメリはクロノの足の間に小さくなって、首元に額を寄せたまま動かない。

このまま眠ってしまいそうなほど落ち着いた雰囲気の中で、クロノはふと呼ばれたように顔を上げる。

さわさわと運ばれる緑の匂いを吸い込んで、ふうと息を吐き出した。

アメリの顔を覗き込む。


「アメリ……時間みたいだ」


残念そうに眉を下げて、口の端を持ち上げると、クロノは大きな手でアメリの額を撫でて、そのままゆっくりと手を下ろしていく。


「そのまま目を閉じていて」


耳元で掠れて聞こえる低い声に、アメリは眉間に力を込めた。

そこをぐりぐり指で揉んで、唇の感触があった後、この場を離れていく気配にアメリの目の周りに熱が集まっていく。


シャツの袖でごしごし擦って息を整え、離れていった気配が静かに戻ってくるのを待つ。


ふわふわの毛が頬に当たって目を開いた。


「……まっててクロノ……すぐに戻してあげるから」


腕を首に回してふわふわの真っ黒な毛並みに顔を埋める。






小さな集落の端、小さな家の前で、ふたりの子どもが座り込み、小石やその辺りで摘んだ花を並べて遊んでいる。


何事かを話しては顔を見て笑い合う。


仲の良さそうな兄妹に見えた。


静かに近付いて行くと少し大きめの男の子がアメリに気が付いて顔色を変える。


「探しました……行きましょう?」


その背に小さな女の子を庇うように、アメリの前に立って軽く両腕を広げる。


「ちょっと……待ってほしい。この子のために」

「どの位ですか?」

「この子が大きくなるまで」

「……それは、この世界では『ちょっと』とは言わないんですよ」

「そんな事解っている」

「お願いです。その『ちょっと』の間に、世界の均衡が崩れてしまう」

「世界の方が私を吐き出したのにか」


小さな男の子は忌々しげにこぼす。

その表情はとても小さな男の子が出来るような表情ではなかった。


腰に巻き付いてきた小さな手を取ると、後ろを振り返った。

その時には男の子は可愛らしい笑顔を見せている。


「リーナ、大丈夫だよ。僕はどこにも行かないからね」


女の子の頬を小さな手で包んで、こつんと額を合わせる。


その前にアメリは静かに両膝をついた。


「この世界が崩れてしまう……貴方の元居た世界も」

「だったら何だ」

「貴方と同じように、私にも大事な人が」

「……狡いな」

「こんな事しか言えない自分が嫌になります…………猫! あんたの所為でしょ、今、力を貸して!」


アメリの影から別の形を作って、黒猫は地面から這い出てくる。


「……なんだ、気付いてたのか」

「他人の所為でこうなったら、ここまで私に構わない。任せて放って置けばいいのに」


きゅっと眉を寄せて、男の子は六本足の黒猫を見据える。


「お前か……」

「久しいな、錘の……どうする、その子どもを攫って行くか、それとも度々様子を見にくるか……そのぐらいなら力になってやれる」

「は……お前そんな甘ったれた事を言うような奴だったか?」

「まぁな、変われば変わるもんだと最近知ってな」

「一度戻って立て直す」

「うん……力を貸そう」


男の子は空を見上げてひとつ息を吐き出すと、女の子を抱きしめる。


「リーナ、すぐに戻るよ。だからそれまで僕のことは忘れておいで」


ふわりと目を閉じて力の抜けた女の子の体を抱え上げると、難なくそのまま家の中に連れ入った。

しばらくすると男の子はアメリの前に立つ。


「迷惑をかけたな」

「いいえ……迷惑なのはこの猫です」

「全くだ」


あくびの様に開けた口からは白く尖った小さな牙と薄紅の舌が見えている。

そのまま何も言わずに口を閉じた。


「あの子……リーナは判者だ。放り出されてぼろぼろに傷付いていた死にかけの私を、自分の命を削ってまで助けてくれた……本人はそうと気付いて居ないが」

「そうでしたか」

「あんなに小さな体で」


五つか六つ、姫様とそう歳が違わない女の子は、ひどく白っぽい顔色をしていた。


「きっと世界が私を失うまいと差し向けた……お前もな」

「……そうでしょうね」

「すまない」

「……いいえ、私のことはどうでもいいんです」

「ああ、あとで猫を平たく伸しておいてやる」

「それは助かります」

「さあ、連れて行け」



アメリは手を差し出す。

前にもそうだったように、その人の右側に立つ為に、左の手を。


小さな手が乗って、それを包むように握った。



「行きましょう」











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