かわるもの。
久しぶりに服を身に着けることにクロノは苦笑いしていた。くくと喉を鳴らしながらシャツのボタンを留めている。
「窓から出て表に回る……アメリとは食堂で待ち合わせよう」
「……わかった」
大概、部屋でくつろぐ時は、下着のままで過ごすことが多い。それは今もそうで、アメリも服を着ると手早く髪を整えて準備を終える。
クロノはそれらしく見えるように荷物を担いで、ふたりは同時にそれぞれ別の方向から部屋を出た。
廊下を宿の食堂に向かって歩く。
通路にひと気は無いが、向かう先からはがやがやとした人の騒めきと、美味しそうないい匂いがしていた。
人の入り方をみると宿泊客だけではなく、地元の人々も酒や食事目当てで訪れている様子だった。
客室のある建物より、食堂の割合が広く感じる。
旅人に頼るより、酒目当ての常連客で繁盛させた方が確実なのか、元々ある食堂の横に宿をおまけに付けたと思えるような広い店だった。
アメリは空いている小さな卓を見つけると歩み寄り、何人かいる内の、一番近くに居る前掛けをした女性に声をかける。
くるくると忙しそうに動き回っているその女性は、アメリを部屋まで案内してくれた人だった。
「ここ、座ってもいい?」
「はい! どうぞ! ……あ!」
「……なに?」
「あ……いえ……どうぞ」
ささと手を出して席を勧めて、気まずそうな笑顔を浮かべる。
「……お泊まりのお客さんですよね……雨の中来られた」
「……です」
「すみません、てっきり男の方かと」
「……こんなかっこしてるもん、紛らわしいよね」
ふふふと笑い合って、よく見てみると、アメリとそう年は変わらない感じに見える。
「えっと、食事をお願いします。ふたり分」
「ふたり分?」
「うん……もうすぐ夫が……あ、来た。……クロノ、こっち」
正面の入り口から、さも今到着したような雰囲気で食堂に入って来たクロノは、酔った人を躱し、避けながら卓まで歩み寄り、アメリをぎゅうと抱きしめる。
「わぁ、ちょっと止めて。苦しい……」
「良いだろう、久しぶりなんだから許してくれ」
アメリがべしべしと脇腹を叩くと、やっと腕の中から解放される。
「……あ! お食事ですよね。ええっと、今日は鳥の煮込みか、焼いてある方か選べますけど」
ふたりをぼうっと見ていた娘が、はと気が付いてアメリに問いかける。
「うーん。じゃあ、ひとつずつ下さい。半分こしよ、クロノ」
「そうだな……そうしよう」
「はい、では用意しますね!」
回れ右してぱたぱたと厨房の方に向かった娘の後ろ姿を見送りながら、アメリは卓の席に着く。向かい側に座ったクロノに眉を顰めた。
クロノは口の端を持ち上げて、楽しそうに喉を鳴らしている。
「……なんだ?」
「……かわいくないなと思って」
「そうか……それは残念だな」
「どうして人前でひっつくかな……」
「分かりやすく態度で示さないと、いくらでも男が寄ってくるだろう?」
「心配し過ぎ」
「……アメリはしなさ過ぎだ。周りの男共の顔を見てみろ」
「……気にし過ぎ」
クロノは腰を浮かせるとアメリの頬に口付けをして、椅子に座り直す。ふうと息を吐き出した。
「アメリはもっと気にしなさい」
「……だから野宿でも良いって言ってるのに」
「そればかりでは充分に休まらないと言っているんだ」
「大丈夫だって……」
「駄目だ……」
「じゃあ男の人に見られるのくらいガマンしてよ」
「嫌だ……」
「面倒か! ……やっぱりかわいくない!」
ぷくりと空気の入った頬を、クロノが摘んでしぼませる。そのまま指の背でするりと撫でた。
「……何気ないいつもの会話がこんなにも大切だとは思わなかったな」
「クロノ……」
「アメリもそう思ってくれると嬉しい」
「クロノ……良いこと言って話を逸らそうとしてない?」
「うん…………気付いたか」
いつも以上に会話をしながら食事を終えて、部屋にふたりで戻ってからも話を続けた。
人目が無くなってからは、特にクロノにぎゅうぎゅうに抱きしめられ、あちこち撫でられたり、口付けられたり。
ジエレオン卿の黒猫が言ったことを忠実に守って、その時を楽しもうと心血を注いでいるようだった。
「……新月って、いつからいつまでなのかな……明日にはクロノの姿が変わるのかな」
「ああ……考えたんだが、初めて姿が変わった前夜が新月だったな」
「そうだっけ……じゃあ、呪いにはかかってたけど、新月だったから次の日の朝まで姿が変わらなかったってことかな」
「……だったなら、しばらく猶予があって助かったのか」
「ああ……ほんとだ。ハルやアルウィンの目の前で変わらなくて良かったね」
長生きしてそれなりに驚くべき事態に遭遇している人達だろうと、許容範囲というものがある。人の姿が狼に変わるような、そんな経験は流石に無いはずだから、大騒ぎでは済まなかっただろう。
「それを思うと、アメリは落ち着いたものだったな」
「びっくりしたよ、それなりに」
「そうか? 悲鳴のひとつもあげなかっただろう?」
「……犬が好きだからかな?」
「そういう問題か?」
「叫んでる場合じゃないでしょ」
「それは……まぁ、私としてはありがたかった。……というか、嬉しかったが」
「嬉しい?」
「すぐに私だと分かってくれた」
「うーん……だって、目が……クロノの目だったから」
ぎゅむとクロノの頬を両手で挟むと、狼の姿の時のようにぐりぐりと撫でて、そのまま髪の毛をぐしゃぐしゃにかき混ぜる。
眉間に皺を寄せて、ぎゅっと目を閉じながらも、クロノは笑顔でアメリの手を避けずにされるがままになっている。
「さっき……日暮れ頃に姿が変わったんだったら、明日の同じ頃までこのままかな」
「どうだろう……そうだと良いが」
このまま眠ってしまうのがもったいない。
寝て起きた時に姿が変わってしまうかもしれない、とも思う。
嫌ではない。
どちらの姿だろうがクロノはクロノだ。
それでも、クロノの心や体に負担を強いているような気がして、諸手を挙げてかわいいだの、犬が好きだの言って大丈夫なのかとも思う。
「クロノ……狼でいるのは疲れない? しんどくない?」
「……全然。困る事と言えば、話が出来ない事くらいだな」
「痛かったり、苦しかったり……」
「大丈夫だ、何ともない……ああ、お願いだからそんな顔しないでくれ」
「そんな顔って……」
「アメリの方が痛くて苦しそうな顔をしている」
お互いの頬を両手で包むようにして、ふたりは額をこつりと合わせる。
「アメリ……アメリッサ。私を信じてくれないか。本当に何ともないんだ」
それでも、どうしても、無理をして笑っていたネルの顔が頭から離れない。痛いくせに、苦しいくせに、辛くてしんどいくせに、ずっと笑顔でいた。
世界を放り投げてしまいたかったアメリと違って、誰よりも生きていたかったはずなのに。生きていて欲しいと、みんなが願っていたのに。
クロノにどんなに言葉を尽くされようと、自分の手も見えない程の濃い霧の中に居るような不安は、いつまでたっても晴れる気がしない。
ネルには最後まで怖くて聞けなかった。
痛くて苦しいのは、辛くてしんどいのは、見ていて解ったから。
クロノはそれが見ていても解らないから、余計に怖い。強いから、弱い部分を隠せるのではないかと思ってしまう。
だから何度も確かめる。
痛くはないか、苦しくはないか。
自分と一緒に居ることは、クロノにとって負担になるのではないか。
「……無理だよ……」
「…………そうか。……それなら、仕方ないな」
「……心配だもん」
「でも忘れないで欲しい、私は平気だし、もしも平気でなくなったら、必ずアメリにそう伝えよう」
「……約束?」
「ああ、約束する。だから忘れないでくれ」
一緒に居ることは、クロノにとって、良いことなんだろうか。
その夜はよく眠れなかった。
時々目が覚めて、その度に自分の腰に巻き付いたクロノの腕を確認したり、寝顔をそっと見ては、静かに息を吐き出した。
朝になっても、クロノは人の姿のままだった。
ふたりでゆっくり朝食を済ませてから宿を発つ。
説明が面倒なので、クロノは詰所から離れた場所で待ってもらう事にして、アメリは髪を見せないように外套のフードをきちんと被った。
詰所を訪ねて中を覗き、声をかける。
机に着いていたのは、昨日とは別の騎士だった。それでも上手く引き継ぎが成されていたらしく、早速に立ち上がるとアメリを連れて厩舎に向かう。
「若いとは聞いてたんだけど……」
「なんでしょう?」
悪びれない様子でその騎士は笑っている。
「女みたいだな」
「ああ、それ。よく言われる」
「おっと、気を悪くしたんなら、済まない」
「はは! 大丈夫、気にしてないから」
グレンはアメリの姿を認めると、柵の横木を壊す勢いで器用に蹄鉄を打ち付けている。
さあ走らせろと息が荒い。
子どもをあやす様に声を掛けて宥めすかし、準備を手早く終えて、手綱を引いた。
「お世話になりました」
頭を下げると、騎士がいやいやと手を振った。
「これくらいの事、お役に立てて何よりだ」
「ありがとうございます」
「ああ。道中気を付けて」
昨日の年配の騎士にもお礼をと言付けて、手を振って別れた。
クロノの元へ戻り、そのまま町の外れまで歩く。
町を出た街道で、クロノはグレンに跨った。
「……自分の足で走らないのは、何だか変な気分だな」
笑いながらアメリに手を差し出す。
「そう? でもこっちが普通でしょ?」
「そうだな」
手を握って、引き上げられるまま、クロノの後ろに乗った。
「腰に手を……走るぞ」
「うん……」
「……アメリ」
「なに?」
クロノは体を捻って後ろを向くと、アメリの肩を力強く抱いて、頬に口付けた。
「笑ってくれ」
持ち上げていた頬も口の端も、他の人には笑顔に見えていても、クロノにはそう見えなかったらしい。
クロノの腕から逃れて、前を向くように体を押す。背中に抱き付いて、ぐりぐりと額を擦った。
「……ごめん、今は……無理」
嘘も作り笑いも下手くそになったと、ハルが言ったのは本当なのかもしれない。
平気だったことがどんどん平気ではなくなって、自分が自分でなくなる気がする。
弱っている場合ではないのに、前向きに考えるのが難しい。
“やる気”を出させてやると掛けられたクロノの呪いは、足を緩めるだけのような気がした。
前に進む足が、今のアメリには、とてつもなく重く感じる。
適度に休息を挟んで、日暮れまで駆けた。
近場に町も村も無いので道から逸れた森の中で夜営の準備を始める。
アメリがその近辺を枯れ木を拾って動き回っていると、聞きたくも無い声が聞こえてきた。
「どうだ、楽しめたか?」
目の前に現れた黒猫は金色の目を細める。
口元の白く鋭い歯や、耳の近くまで裂けて見える口から覗く薄紅色。まるで薄ら笑っているようだった。
「月が出た。残念だな」
クロノが居るであろう方向を見て、一度大きく息を吸い込んで静かに吐き出した。
向き直って枯れ枝を探して歩く。
「口答えしないのか?」
持っていた枝でひと薙ぎする。ふわりと散った煙はまた集まって猫の形を作る。
「……嫌味も無しか」
一言も口を利かずに夜営の場所に戻ると、クロノの姿は無かった。
火を熾して待っていると、がさりと音を立てて藪の中から黒狼が歩み出てきた。
口にはクロノの服が咥えられている。
分かっていたことなのに、どうしていいのか分からない。
アメリは両腕をクロノの方に伸ばす。
体を寄せてくるクロノにゆるく抱きついて、誰にも何も見られないように、アメリはクロノのふかふかの毛の中に顔を埋めた。




