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月のない夜。








数日置きには必ず宿で休む。

ハイランダーズの道を使い、状況により、時に夜駆けをしても、その後は必ずきちんと休息を取る。




雨の日もそれは同じだった。


午前中は雲もなく澄みきっていた空が、一転にわかにかき曇り、すぐに大粒の雨が勢いよく降り始めた。


凍えるほど寒くはなくても、もうすでに外套は重たくなって、内側にも浸み込み、下着まで水の中で泳いだようにずぶ濡れで体に貼り付いていた。


この旅に出てひと月がこようかという頃、ここまで酷い雨に降られたのは初めてだった。


村というよりは町に近い、でも町というには少し頼りないような所へなんとかたどり着く。


いつものように町の手前で一旦どこかに姿を隠そうとしたクロノに、アメリは声をかける。

雨音のせいで、声は叫ぶような大きさだった。


「クロノ! どうせこの雨だから、誰にも見えないって! 一緒に行こう!」


目の前は水の幕を下ろしたよう。

少し先の方すら地面から上がる霞で、町は白くぼやけて見通せない。

もちろんそんな中を行く人影は自分たち以外にはない。


クロノも直ぐに察して、毛を束にしている水の球を頭を振って少し散らすと、大人しくアメリについて来る。


町に入り、その地の詰所を訪ねる。出入り口からアメリが声をかけると、奥から年輩の騎士が顔を出した。

クロノはアメリの直ぐ横で軒下に身を寄せている。


宿の場所を聞くと、この町には厩のあるような大きな宿は無いと騎士は笑いながら言った。


「良かったらここで預かろう。空いている場所もあるし」

「助かります、ありがとう」


案内をすると騎士が出てきた時には、いつの間にかクロノはどこかに姿を隠していた。

多分建物の角を曲がった所にいるのだろうとアメリも気にしない。

詰所に併設された厩舎に案内してもらう。


グレンの装備を見た騎士は、アメリを少し不審げに見下ろした。きちんとした正装と言える、紋章入りの高級な馬具を着けている。


「あんた……ハイランダーズか」

「ああ……はい、まぁ」


厚手の外套でフードを被ったままなので、騎士はアメリが女だと気付いていないらしい。

腰の後ろには剣を佩ているし、荷にはクロノの剣も固定してある。騎士だと勘違いされても仕様がない格好だった。

アメリは外套の下の首元を探って、白金の証を引っ張り出す。


証はもちろんクロノのもので、鎖がきちきちに首を締めていたのでアメリが預かっていた。


「はぁ〜。若いのに大したもんだな」

「……どうも」


やっている事は身分詐称だが、ここで女だとばれて、しかもひとり、騎士の馬に乗って雨の中を旅している上手い言い訳を思い付かない。それなら貴族の少年騎士と勘違いされている方が楽でいい。


王城の侍女たちからは散々 少年扱いされている。特に嫌でもなければ抵抗すら無い。


クロノも許してくれるだろう。

そうでなくても、後でうんと怒られたって構わない。ちゃんと人の姿で、言葉で怒られるならいくらでも、と口の端を片方だけ持ち上げる。


グレンの濡れた体を拭って世話をしていると、気の毒がって年配の騎士が後を引き受けてくれた。ありがたくお言葉に甘えることにして、グレンの性格と体調を伝え、後をお任せする。



一層強まる雨の中、アメリは荷物を担いで教えられた宿に向かう。町に向かっているといつの間にかクロノが後を追ってきていた。


恰幅のいい気の良さそうな宿の主人は、木床にぼとぼとと水を滴らせているアメリの姿に、大変だったろうと部屋にある暖炉を使うように勧めてくれた。手伝いの娘が案内のついでに両腕いっぱいの薪を部屋まで運んでくれる。

礼を言うと娘は頬を赤らめて、慌てて部屋を出て行った。もしかしたらここでも少年騎士と勘違いされたのかなと、アメリはフードを外す。



通された部屋の窓を開け、そのすぐ下を見る。クロノはそこで待っていた。どうやって分かるのか、クロノはアメリが入る部屋の側で待機している事が多い。


今にも飛び上がりそうな体勢になったので、慌てて止める。何故かと少し首を傾げたクロノに、アメリは自分の外套を叩いてみせた。


すぐに意が通じて、滴り落ちていた雫を、クロノはぶるぶると体を揺らして周りに散らす。

アメリが窓際から体を横へ避けると、それを合図とクロノが音もなく部屋の中へ跳び入る。



重く濡れた外套や服をもそもそ脱いでいき、出来るだけ絞ってそこら中に干した。


借りた布で自分を拭いて、クロノも拭いてやる。

着替えたあとは気が抜けてただぼんやりとしていた。

寒い時季に比べたら弱々しい火の燃える暖炉の前の床に布を敷いて、ふたりは並んで体を乾かす。


窓の外の雨音は大きく、勢いは変わらない。

まだしばらく続きそうな雨足。

アメリは気分に身を任せて寝転んだ。


伏せているクロノの背に頭を乗せる。

アメリの髪もクロノの毛もまだ半乾きで、ちくちく肌に当たる。心地は悪くない。


雨音と、火の暖かさと、疲れが気持ち良く混ざり合っている。


「夕食を作ってる良い匂いがしてた……ここの食事は美味しそうだよ……楽しみだね」


ごろりと横向に寝返って、クロノの耳の後ろの毛並みを指でかき混ぜた。気持ち良さそうに目を細めるクロノに、少し寝るねとアメリは目を閉じる。



空腹で、腹の辺りがきゅうと締まる感じがして、アメリは眠りの世界から引き戻される。

ひとつ唸って、クロノの毛皮を探して手を伸ばすと、思っていた感触と違うものが手に触れた。


「……んん?」


ばっと目を開いて、ぐいと体を反転させて持ち上げる。


体を支える腕から力が抜けそうになる。目の前のものにくらりと眩暈がした。

こんな目の覚め方は体に悪い気がする。


「クロノ……起きて」


ゆさゆさと脇腹の辺りを揺すると、深く息を吸い込んで、クロノはうっすらと目を開けた。


「……なんだ」

「……こっちがなんだって聞きたいんだけど」

「アメリ?」

「うん」


起き上がりながら、自分の目の前に手を持っていき、意思のまま動くのか確かめて、そのまま体を見下ろした。


「……人の体に……」

「……うん」


アメリの頬を撫でるクロノの手が、僅かに震えている。


「……夢か?」

「……だったら寝たままでいたいな」

「アメリ……」


クロノに抱きしめられてそのままアメリはゆっくりと後ろに倒れていく。クロノの背を叩くとぺちぺち音がする。人の皮膚を叩く音が嬉しくて、何度も何度も叩く。耳元ではずっと自分の名を呼ぶ声がして、その全部に返事をした。


「クロノ……」

「……ああ」

「鞄持ってきて正解」

「……うん?」

「……いつまで裸でいるつもり?」


口付けて、笑い合う。


「まったく、気が効く良い妻を得た」

「……それはどうかな」


起き上がって離れていくクロノの体に、初めて見るものがあった。

胸の真ん中に、黒一色の円形の紋章のようなものが刻まれている。


「クロノ……これ……」


手のひらほどの大きさの紋章は、縁の部分に読めはしないが文字のようなものがあった。円の三分の一ほど書きかけの様な状態になっている。


「……これ…………猫!!」


呪いの何かなのか確かめようと、いつもなら呼ばなくても勝手に現れる、六本足の黒猫を呼ぶ。


「猫! 出てきてって!」

「……なんだ、うるさいな」


アメリも起き上がって周りを見渡す。

声は聞こえるが、どこにもいない。


「なにこれ、どういうこと?」


クロノの胸に手を当てて、広くはない部屋の中に猫の姿を探す。


「……今はやり辛い、放って置いてくれ」

「いつもは勝手に邪魔してくるくせに、何がほっとけよ! 説明して!」

「……新月の時は力が弱まる。だから……」

「猫は今、弱ってるの?」

「そうだ……お前に影の姿も見せられないくらいにな」

「だから私の体が元に戻ったのか?」

「……なんだ、戻ったのか?……そうだな、そういう事だ」

「今だけってこと? 呪いは解けてないの?」

「……もちろんだ。……まぁこの時を精々楽しめ。……ではな」

「ちょっと! 猫!!」


他にも聞きたいことは沢山ある、言いたいことも。それでも今はそんな時ではないと、クロノを見上げた。


猫の言う通り、時間が限られているなら、優先させるべきことをしようと、気を入れ替えた。優先させるべきこと、それは、クロノとの対話。一方的に話すばかりのひと月だった。


「……クロノ、ごめんなさい。本当に……どうやって、なんて謝っていいか、分からないけど……本当に」

「アメリが謝ることはない。……話が出来なくて、これ程もどかしい思いをしたのは初めてだ」


クロノは両手でアメリの頬を包むと、自分の方に顔を向けさせた。

覗き込んで目を合わせる。


「何度も、何度もアメリは私に謝っていたが、私はひとつも腹を立てて無い。いいんだ、謝らなくても。……と、ずっと言いたかった」

「でも、辛い思いを……」

「それが……不思議とそんな思いはない」

「だって……姿が変わって……」

「まぁ……こうして話ができないのは困るが、狼の姿はそう嫌でもないぞ?」

「そん……な……」

「思いのままに走れるのは、風になった様で気分が良い。あまり深く物事を考えず、ただやりたいことに目的を絞れるのも気楽だ。アメリが事あるごとに抱きしめてくれるのも、可愛がられるのも、堪らなく嬉しいしな」

「クロノ……」

「アメリと私だけの旅に感じるんだ……とても……なんというか、真っ直ぐ……何も混ざらない、純粋な感じだ」


クロノは自分の元にアメリを抱き寄せる。

腕の中に収まることが久し振りで、音がするほど様々な気持ちが溢れて出そうになる。


狼の姿の時は本当に単純なことしか思わないが、人はなんと雑多で色とりどりなのかと、クロノはふと笑い声を漏らす。


「だからどうか、気に病まないでほしい。もう謝らないでくれないか?」

「でも……」

「私は狼の姿でもアメリと一緒に居られることが嬉しくて仕方がない……アメリも結構、気に入っているだろう?」

「だって……かわいいから……」

「人の姿の私は可愛くないか?」

「かわいいって言われたいの?」

「……それは……微妙だな」

「クロノ……ありがとう」

「ああ……その言葉の方がずっと良い」

「……お願いがあるんだけど」

「アメリの為なら」

「……さっさと服を着て」

「このまま寝台に行けば丁度いいだろう?」

「あはは! いかない!」






いつの間にか雨は止み、流れていく分厚い雲の切れ間から、月のない星空が見え始めていた。












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