下手くそ、増える。 ☆おまけつき
ひたひたと耳や首筋に冷たいものが当たる。
徐々に深い場所から引き上げられる感覚がしても、まだはっきりせず、ごろりと体の向きを変えた。
ぐいぐい押されて、肩に重みがかかる。
薄く目を開けると部屋の中は藍色をしていた。
「んー……あさ?」
アメリはもう一度反対に寝返って、ぱたりと腕をクロノの方に倒した。
頬に当たってくる冷たい感触と、ふわふわとした手触りに一気に覚醒させられる。
自分を見下ろす目と見つめ合いながら、アメリはゆっくりと腕を突いて体を持ち上げた。
さっきからうるさいほど胸の音が鳴っている。
苦しいこの胸の中身を掴んで放り出せれば楽なのにと、その辺りを手で押さえて拳を握りしめた。
「クロ……ノ……」
薄暗い中で光って見える瞳の色。
もそりとした大きな影はすぐにクロノだと分かった。
いつものように一緒に寝台に入って、いつものように隣で眠ったのだから、疑いようが無い。
それが例えどんな姿であっても。
黒い大きな影、口の部分は耳まで裂けるように持ち上がって、尖った歯の間から薄紅の舌がちらと見える。
「い……犬じゃない……ね」
体はアメリよりも大きい。重さも人の姿のクロノと変わらないだろう。
背後ではそれ自体に意思があるようにぱたりとぱたりと音を立てて尻尾が揺れている。
「狼……かな」
ぴんと立った耳や、綺麗な色の瞳は鋭い感じがする。
ひゅーんと鼻にかかる高い声を上げると、くるりと耳を後ろに向けて倒す。
鼻先を下に向ける仕草を、こんな場合ではないのに、可愛いと思ってしまう。
「こ……れ……。これが、呪い……?」
こんな、と言葉を続けようとして飲み込んだ。
黒い影は体を伏せさせて、アメリの膝の上に頭を乗せる。
条件反射的にふかふかの頭をアメリは撫でた。
握った手で胸を叩いて、深い呼吸を繰り返した。落ち着けと自分に言い聞かせて、体を屈める。
不安で戸惑っているのは、こんな姿になってしまったクロノの方だ。
禿げたり、すぐ転んだりするような、嫌がらせみたいな呪いではなくて、こんなにも分かりやすく姿を変えられて。
自分が迷って躊躇っていても、何も好転はしない。
「……クロノ……ごめん……ごめんなさい」
どうにか言葉を絞り出すと、ぐりぐりとクロノの頭が腹に潜り込む。
言葉は無くても言っていることは何となく分かる気がする。
「昨日の内に色々準備してて良かったね。まだ暗いし……今ならこっそり出て行けるかな。……みんなに見られないようにしないとね……待ってて、すぐ服を着てくるから」
クロノの頭を下からすくって、目を見合わせて話をする。ぎゅうと首に抱き付いてから、アメリは寝台を下りて、急いで自分の部屋に行った。
服を着て、衣装部屋にまとめてあった荷物を掴んでクロノの私室に戻る。
私室の長椅子に用意してあったクロノの荷物も一緒に担ぐ。
「行こう、クロノ……」
部屋を出ようと振り返ると、ぐいと後ろに引かれた。見るとクロノが、自分の荷を噛んで引っ張っている。
「うん? なに? 忘れ物? 何か要るものがある?」
ぐいぐい引かれて、終いには荷の鞄が床に下される。そのまま引きずられてぶんと振った方向に鞄が転がった。
「……ダメダメ、置いていけないって。無くなってないと変に思われるよ」
確かに今のクロノには何ひとつ取っても要らないものばかり。それでも、それこそ『お荷物』にしかならなくても、身ひとつで姿を消したと思われるのは避けた方がいい。
「みんなが心配したらいけないから……ね? 持って行かないと」
見上げている目に笑い返すと、アメリはクロノの荷物を拾い上げて担ぎ直す。
今度は引っ張られなかったので、承諾したんだろうと私室の扉を開けた。
アメリの部屋からそっと外を覗いて、通路に人影が無いことを確認して振り返る。
扉の隙間からするりとふたりは抜け出て、音を立てないように廊下を歩いた。
階段の側で耳を澄ませる。
人の気配を感じない。
アメリは階段の手すりに腹を乗せて、下を覗き込み、床から両足を上げてそのまま滑り下りていく。
この方が早いし、なんと言っても音が出ない。何度か折れ曲がって玄関広間までするすると下りる。
クロノは横で同じ速さで駆け下りていた。
ひとつの足音も立てていないのは、靴を履いていないからかもしれない。
そこまで考えて、アメリはしまったと階上を見た。
服は持って来たけど、クロノの靴を置きっぱなしにして来てしまった。
「……どうしよう、クロノの靴、忘れちゃった」
小声で話かけると、ふいと首を持ち上げて、クロノはくるりと向きを変えると静かに階段を駆け上がって行った。
すぐにいつも履いている長靴を咥えて戻ってくる。
どうやったのか、器用に扉を開けられたらしい。
無言で頷いて靴を受け取る。
履き込んでいるので、靴の皮はくたくたに柔らかい。丸めて鞄に仕舞った。
またひとり通れる程度に玄関扉を開けて、隙間から静かに屋敷を出る。
石畳の上に両膝をついて、アメリはクロノに抱き付いた。
「クロノ……ありがとう。一緒に行ってくれて、嬉しい……よろしくお願いします」
ぱたぱたと振れている尻尾を見て、ふふとアメリは小さな声で笑う。
「……とりあえず城壁から出るまでは気を付けないとね。見付かったら大変だから、クロノはこっそり来て?」
比較的に人の通らない細い道を選んで、城壁を目指して走る。
大きな門ではなくて、人が通る為の小さな通用扉の手前で、アメリは足を緩めた。
内側には、不寝番の騎士ふたりが向かい合わせに腰掛けて、盤を挟んで駒を取り合って遊んでいた。
「おはよー」
アメリがにこにこと笑いながら手を上げて近付くと、とろんと眠そうな目が、ぱちりと開かれる。
「あー奥方様……お早うございます」
「お早うございます。どうしたんですか、こんな時間に」
「んー……ちょっとジェリーンに用事があって……もう来た?」
ジェリーンは詰所の食堂を切り盛りしている女性、毎日城外から通って来ている。
この門を使っている人物の名を適当に出して、なんとか門を開いてもおかしくない言い訳を口に出す。
「あー、や。まだですね」
「そうなんだ……ちょっと外、見てみても良い?」
「どうぞ、どうぞ。今開けますね」
騎士のひとりが立ち上がり、のぞき窓から外を見て確認すると、閂を外して門を引き開ける。
草はらに続いてる細い道の先の方には人影はない。それは知っている。ジェリーンはいつも朝日の登る少し前にやって来る。
まだ空は白み始めたばかり、少し時間は早い。
「まだみたいだねぇー」
「そうですね、もう少ししたら来そうですけど」
「ふーん……そうかぁ……で? これ、どっちが勝ってんの?」
眠気を堪える為にしていた局面をアメリは門の扉を押さえたまま覗き込む。
「どっちもどっちって感じですかね」
開いた扉の影になるのをいい事に、アメリは騎士ふたりが盤の方に気をそらせるように注目させた。
手を伸ばしたアメリが適当に駒を動かすと、動かされた方の騎士が酷いと声を上げて笑う。
「これ、ナシだろ?!」
「いや、一手は一手だから!」
いひひと笑っているアメリの足のすぐ側をさっと気配が駆け抜けて行った。
ふたりの騎士はまだ言い合いを続けて何も気が付いていない。アメリはこっそりと息を吐き出した。
城壁の外側を覗いて、クロノの黒い影が、すぐ側の森に向かって行くのを見届けてから、扉を閉じた。
「ジェリーン、まだみたいだから、一度戻るよ。ありがとう」
「はい、分かりました。何か伝えますか?」
「んーん。大した用事じゃないから、いいよ。お仕事頑張って」
「はい、ありがとうございます」
じゃあねと手を振ってその場を離れると、アメリは急いで厩舎に向かった。
夜明け前でも馬たちの世話をしている騎士の姿はちらほらと厩舎にある。
いつもと変わらぬように朝の挨拶を交わした。
少し考えてから、奥の方へと足を向ける。
馬具が置いてある場所から、一式揃えてクロノの馬の元へ向かった。
「お早う、グレン」
荷物を全部置いて、今度はすぐ隣にいるキースの元へ歩み寄る。
予定ではキースに乗るつもりだったけど、二頭を連れて行くのは大変な気がする。どちらかを置いて行くとなれば、それはアメリの馬の方しかない。
「キース。いい子にね、行ってきます」
声をかけてぐりぐり撫で回していると、後ろからかかる声にアメリは眉を顰めた。
気を取り直すと笑顔を意識して、くるりと振り返る。
「おはよう、ハル」
「早いね……もう出かけるの?」
「ハルこそ早いね、どうしたの今日は」
「んー……家に帰るのが面倒だったから、詰所に居たんだ……何となく目が覚めてね」
「あ、そうだったんだ」
「総長は?」
「ん? うん。先に出たから追いかけようと思って」
「は? なにそれ」
「なにそれって、何が?」
「いや、グレンがここに居るし」
「うん。だから、グレンと一緒に追いかけようと思って」
「え? キースは?」
「うーん……お留守番だよね」
「ええ? そうなの?」
「そうだけど。いいでしょ? 別に」
話をしながらてきぱきとグレンの装備を整えていく。不振がりながらも、ハルも手を貸してくれた。
「え、これ……なに? どういう事?」
「なにが?」
「いや、昨日から色々と急過ぎじゃない?」
「んー……まぁ、そうかな?」
「そうかなじゃないよ、何か困った事があるなら、相談して欲しいんだけど?」
「ハルったら……心配症だね。別にそんなんじゃないってば」
「……アメリ……なんか、下手くそになった」
「は? なにが?」
「嘘吐くの」
「嘘なんか」
「あと笑うのも」
「ハル……」
「……まぁ……悪いことじゃないけどさ。僕には話してくれないんだなって、寂しくなっただけ!」
ぷいとそっぽを向いたハルに、アメリは顔をくしゃりと歪める。何とか口の端だけは持ち上げた。
「ありがと、ハル。ごめんね、心配かけて」
「ふーんだ」
「……総長とふたりだけで、ゆっくりしたいんだよ」
「それ、聞いた」
「誰にも邪魔されたくないから、内緒でこっそりなの」
「あっそ……」
「ちょっと、行ってきます」
「教えてくれる気はないんだね。…………で? いつ帰るの?」
「ゆっくりしたらね。……陛下が許してくれてる間はあちこち行ってみたいから」
「……気を付けるんだよ」
「うん、ありがとう、ハル」
ハルに見送られて城壁を抜ける。
しばらく走って、人が砂粒程にしか見えなくなった所でアメリはグレンから降りて、横に広がる森の方に体を向けた。
どうやって呼ぼうかと考えるうちに、木々の間から黒い影が飛び出して、こちらに走って来るのが分かった。
アメリの手前で速度を緩めると、ひたりひたりと四つの足で進んでくる。
「クロノ! お待たせ!」
両膝を地面に付けて、両腕を前に突き出すと、ゆっくりと近付いて、クロノは体を擦り寄せる。
後ろでグレンが驚いて鼻息と足音を撒き散らしているけど、雰囲気がぶち壊しなので無視しておく。
「クロノ……とってもきれい」
夜明け前の時点では本当に影にしか見えなかったけど、陽が昇かけの明るい今ならよく分かる。
艶々の毛並みは朝日を浴びていても、その光を全て吸い込むような黒。
瞳だけが人の姿の時と変わらない翠色をしている。
「すごく格好良い……素敵」
みっしり詰まった毛並みの間に指を埋めるようにして、アメリはうふふと笑う。
「あと、すごい暖かい」
ぎゅうと抱き付いて、顔も毛並みの中に埋めていく。
胸の中身を掴まれるような感覚も、喉の奥の大きな塊が詰まったような感覚も、熱くなってくる目の周りも。
何とかやり過ごそうと、ゆっくり、静かに、深く呼吸を繰り返した。




