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ある人とあった人。






さっきから溢れているものが、何の涙なのか、分からない。

辛くも、悲しくも、もちろん嬉しくもない。

無意識のうちに頬を伝い、ぽたぽたと落ちて丸い模様をいくつも作っている。


「どうして、私はもう……役目は……」

「お前がどう思おうが、世界がお前を調整者としている」

「そんな……こと言われても」

「私は知らなーい、か?」


そう言えば楽になれるなら、そう言ってしまいたい。


でも解る。

解ってしまえる。

男の話の中身は理解できなくても、役目を果たさなくてはならないと。

言葉の通じるこの男が伝えに来たのだと。



この世界が、自分に向けて。



見ろ(・・)よ。どこにいる」


ぎりと奥歯を噛み締めて、きつく目を閉じた。


「解るだろ、錘はどこにいる」


背が丸まって、身体を縮める。


拒もうとしたって感じる。



白く輝く光の存在を。



「……なんだ、お前……調整者のくせにやる気の無い……この世界がどうなっても構わないとか思ってないか?」


びくりと震えた背を見て、男は太く息を吐き出した。


「そりゃ困るな……クラリエッタを泣かせたくない」


それはアメリも同じだった。

姫様を悲しませたくないし、この世界には大切なものがたくさんある。

ただ大きな塊が喉でつっかえて、言葉どころか息さえ上手く吐き出せない。


「しょうがない、手伝ってやる……といってもこれ以上 無駄に均衡を悪くしたくないから、俺はこちらの世界にヘタに干渉しない方がいいしな……そうだ……お前に“やる気”を出させてやろう」


見てはいなくても、男がにやりと笑っているのは声の調子で分かった。


腰の後ろに寒気が走って、アメリは跳ねるように顔を上げた。


「んー……お前、あれだ。自分が痛むのは平気な奴だろう。他人が傷付けられる方がキツい」

「……やめて」

「お? やる気が出てきたか?……こっちで何て言ったか……魔術? あ、呪いか!」

「やめて! やらないなんて言ってないでしょ!!」

「やるのは解ってる。やる気の話をしてるんだ、張り合いがあった方が良いだろう?」


金色の目が弧を描いて、それは楽しそうにくくと声が漏れて出ている。




「最初に思い付いたのは誰だ?」





アメリは椅子からふらりと立ち上がる。

力の入らない膝を苛立たしく思いながら、四阿にかかる大きな木の陰から、ふらふらと走り出した。


「上手くいったら呪いを解いてやろう」


悪態を吐いて、ぐいと涙も汗もシャツの袖で拭い、キースの元へと足を早める。


「おいおい、女がくそったれとか言うなよ」

「くそ食らえ!!」

「はは! いいぞ、走れ!」




人を跳ね飛ばさず、障害物を上に下に躱して、キースは早く、力強く、来た道を戻ってくれた。


屋敷に戻って、階段を駆け上がる。一番奥の扉を叩くだけ叩いて、返事も待たずに部屋に入った。


「どうした、そんなにいそ……」


机に着いて仕事をしているクロノの前までいくと、上のものをざっと腕で薙いでアメリは机の上に乗り上がった。


「アメリ?」


両手でクロノの頬を挟んで顔を覗き込む。


「なんともない?!」


虚を突かれて、珍しくぽかんとした顔をしているクロノの顔を、ぐいぐい右や左に向ける。


「……わぁーお。情熱的だねぇー」

「それより他に言うことがあるだろう」


後ろからハルとアルウィンの声がしているが、それは無視をしてアメリはクロノの目をぐっと睨む。


「痛いところは無い?」

「ああ……」

「苦しい所は?」

「……無いぞ、どうしたんだアメリ」


いつも通りのクロノだと確認して、アメリは体から力が抜けていく。

同時に小さく震え出した手を離して、今度は自分の顔を覆って机の上にへたりと座った。


「……の、……ぅ……」


顔を覆い、震えながらゆっくり肩を上下させているアメリに、椅子が倒れる勢いでクロノは立ち上がる。両方の肩をそっと撫でて、顔を覗き込むように身を屈めると、アメリの小さな声に耳を傾けた。


「……あの野郎……あいつ……ぶっとばす……」

「……何があったんだ……アメリ」


しばらく待っても落ち着かないのか、顔を上げないアメリの様子に、ハルとアルウィンが顔を見合わせる。


「あー……と。じゃあ、続きはアルの部屋でやる?」

「これじゃあ進まないので、仕方がない」

「うん……ま、そういうことなんで。……ごゆっくり……」


クロノは机の上で横に避けられた紙の束をまとめて、手を出しているアルウィンに渡す。


ふたりが部屋を出ると、クロノがアメリに腕を回して、ゆっくりと背中を撫でた。


「もういい……我慢しなくて」


唸り声をあげると顔から手を離し、そのままクロノに伸ばして首に抱きついた。


抱きしめて背中を叩く。


「泣いてもいいぞ?」

「……泣かない……」

「話す気になったか?」

「…………うん」

「……そうか……聞こう」



机から抱き上げると、アメリはクロノの腰に両足を巻きつけた。


木登りのような状態にクロノはふと笑い声を漏らして、アメリを腹に引っ付けたまま、執務室から隣に続く私室の扉を開ける。



アメリはぽつりぽつりと昨夜から今までのことをクロノに話した。


「ジエレオン卿が?」

「……うん」


私室の長椅子に膝を抱えて座り、それに向かい合っているクロノは床に両膝をついてアメリを見上げていた。


「……行くのか、その、錘の者を探しに」

「だって……」

「そうだな……準備しよう」

「ク……ロノ……クロノには、ジエレオン卿はずっと同じに見えてるんでしょ?」

「ああ……そうだな」


アメリは床に両足を着けると、そのまま滑るように椅子から下りて、床に膝をついてクロノの両手を握った。


「私にしか錘の者の場所は分からないし、クロノ、体も何ともないよね?」

「……そうだな」

「……信じるの? 私の話……嘘だと思わないの?」

「疑う必要があるのか? ……その前に、アメリにここまで壮大な嘘が吐けるとも思ってないが」


ふと息を吐き出して、クロノは床に座り込むと自分の脚の間にアメリを引き寄せて抱え込む。


「図ったような時機だな……そうなるように世界が仕組んだとしか思えない」


陛下から“褒美”を下賜されて、しばらくの休暇を取るために、ただ今、鋭意 引き継ぎ中だったクロノはくくと喉を鳴らしている。


「今度はどこへ案内してくれるんだ?」

「クロノも行くの?」

「ひとりで行く気だったのか」

「だって……」

「いつ出発する? 今からか……明日か」

「クロノ……」

「うん? なんだ」

「何ともないの? 痛くない? 苦しいところは?……今は平気でも……」


体を離してアメリの両方の肩を掴むと、真っ直ぐ目を見据えて、クロノはゆっくりと言葉を紡いだ。


「アメリ、本当に心配は要らない。何ともない、痛くも苦しくもない」

「……今は、そうでも……」

「もし何か変われば、隠さずにすぐに話をする……絶対だ。心配は要らない」




ひと時ごとに心がぼきぼきに折られて、次の瞬間には笑えるように、次の朝には持ち直せるように全てを払って心血を注いだ。


少しずつ蝕まれて細くなっていく体、苦し気な呼吸、弱く不規則になる胸の音。身体中、指の先まで熱くてかさかさしていた。

立ち上がるのも困難になると、時を置かずして、すぐに自分の力で起き上がることさえ出来なくなった。

目を閉じる度にもう開かなかったら、息を吐き出す度に次に吸い込まなかったら、最後の頃にはそれしか考えなくなった。



一番に辛い人がアメリを気遣い、大丈夫だよ、心配ないからねと笑みを絶やさなかった。


今クロノはネルと同じことを言っている。

ネルと同じにまた片方を失くすことになったら、

今度こそ本当に、


本当に耐えられない。




宵の色の瞳から、ころりと一粒だけ転がった雫は、シャツの胸元に吸い込まれて消えて無くなった。


クロノはそれを目で追って、堪らず両手に伝わる熱を引き寄せて抱きしめる。努めて明るく聞こえるように、柔らかな声を出す。


「……よく考えてみろ、アメリ。呪いというものがあったとして、私にどれだけ影響があるものだと思う?」

「……なに?」

「世界が大仕事を任せようとしているのに、アメリの心を挫くような何かが通用するだろうか」

「……“やる気”が出るように手伝ってやるって」

「ジエレオン卿はこの世界にこれ以上大きく関わらない方がいいと言ったんだろう?」

「うん……均整が崩れたらいけないから」

「呪いと言ったのが“呪い”じゃないのか?」

「なに? 分からない」

「アメリを急かせる為にわざと脅すような事を言ったんじゃないのか?」

「でも、嘘を言ってる感じはしなかった」

「うん……嘘ではないとしても……どうだろう、例えば髪が抜けていくとか」

「えぇ? クロノ、禿げるの? それはイヤ」

「例えば何度も躓いてこけるとか」

「……それもカッコ悪いからイヤ」

「私も嫌だが……その程度のことかもしれないとは思えないか?」

「そんなんでやる気出るかな」

「……なんだ、私がそうなっても構わないのか?」

「…………いやだ」


止めてと押し退けられるまで、何度も啄むように口付けを落としてから、クロノはアメリを抱えたまま、後ろにゆっくりと倒れて床に寝転がる。


「やる気が出たか?」

「……うぅぅ」


クロノが顔を覗き込むと、アメリは不服そうに唇を突き出している。


「明日の朝に出よう」

「……んん」

「……さっさと片付けて後を任せてくるから、アメリは旅の支度を」

「……うん」


規則正しく聞こえるクロノの胸の音に、自分の胸が締め付けられる感じがして、アメリはぐりぐりと頬を擦り付けた。


「……参ったな……離したくなくなるから、もう少し後に取っておいてくれないか」


楽しそうにくくと奥から聞こえてくる声に、アメリは黒い霧のように広がる不安を押し込めて、やるべき事を先頭に置いた。




そこからの行動は早く、周囲に諸々任せて荷物を揃え、準備はふたりともに日暮れ前には全て終わらせた。


ハルやアルウィン、ニーナ達や侍従長のモーリスも、突然のことには慣れたもので、はいはいと苦笑いしながらも動いてくれた。






白く小さな星の光が暗く広い空間を飾り立てている。

月は無く、空にはいつもより多くの粒が隅々まで広がって見えた。



私室の窓の外、露台に出て手摺に寄り掛かかる。



一際明るく、強く届いてくる白い光を地平の上に見た。


目を閉じたって感じる強い光。


世界を鎮める錘。



姫様やネルを想って、アメリは冷たい夜の空気を吸い込んで、体の中で温めてから吐き出した。


悲しませたくない。

泣かせたくないし、


泣きたくない。


心の中で見てろよと誰にともなく叫んで、悪態を垂れていると、背後からふわりとクロノに腰を抱かれる。


「……眠れないか?」

「……明日は晴れるかな、って」

「……誤魔化すのが下手になってないか?」

「うん? なにが?」

「私の腕が上がったのか?」

「なにそれ、何の腕?」


笑って振り返ると、同じように口の端を持ち上げているクロノと目を合わせる。


アメリの方から口付けをして、抱きついていくと、ぎゅうぎゅうと抱きしめ返されて、そのまま寝台に運ばれて行った。










次の日、目を覚ましてアメリは思い知る。

“呪い”は間違いなく在って、それは確実にクロノに降りかかっていた。


















今 在る人と、もう会えなくなった人。





















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