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調整者。







「……この痣……どうしたんだ、いつの間に。これは何だ、アメリ」


私室に戻り衣装を脱がそうとしていたクロノからゆっくりとした数段低い声がアメリに降りかかる。


後ろからの声だけで振り向かなくてもどんな顔をしているのか分かるから、アメリは天井を見上げて肩をすくめた。


「うーん……よくわかんない」

「これ……は、指の跡じゃないか」

「そう? なんか痛いなと思ってたけど、跡がついてるの?」

「誰にやられた」

「……分からない」

「 分からないなんてことがあるか!」


アメリの肩を押してくるりと体を回すと、覗き込んでそっと首筋に指を這わす。


お返しにアメリは手を持ち上げて、力が入っているクロノの眉間をぐりぐりと撫でた。


「……男の手だな」


指の跡の間隔を自分のものと比べて、アメリの顔を見据える。


「誰だ」

「だから。……分かんないったら。……いいでしょ、別に。明日には治ってるし」

「話せないのか? ……誰を庇っているんだ」

「ふふ……そんなんじゃないよ。えーとね……そのうち話すから……それまでちょっと待ってくれない?」

「アメリ……」

「約束する。大丈夫だから、時間を下さい」

「……そうやって、いつも……」

「ごめんなさい。……心配してくれてありがとう」


そっと抱き寄せられて、アメリはクロノの背中をばしばし叩いて、ぐりぐり撫で回した。


聞こえてくるクロノが歯をくいしばる音に、アメリはふふふと声を上げて笑う。






翌朝、改めて確認してみると、アメリの首の痣は薄くなって、もうほぼ消えかかっていた。


そもそもどれくらいの濃さのものか。そこまではっきりとついていたのかどうかもアメリは知らない。


元々そのつもりだったのだろう、あの後分かりやすく誘ってみると、すんなりクロノと寝台にもつれ込む結果になって、話はうやむやに持ち越される運びになった。


痣もシャツの襟で隠れるし、クロノに見えてさえいなければいいかとアメリは軽く考える。自分の首は鏡がなければ見ることはない。押さえなければ痣のことは忘れてしまえる程度のことだった。


湯気で曇った鏡を手で拭って、もう一度首回りを見る。ふんと小さく息を吐き出してボタンを留めた。


服を整えて浴室を出ると、ニーナが髪を乾かそうと待ち構えている。

大人しく任せて、髪を結われるのを良い子にして待っていると、ニーナは本日の予定を話し始めた。


「ジエレオン公爵のお嬢様から、お茶のお誘いです」

「はい、行きます。いつ?」

「これからお昼までの時間でいかがですかと」

「わかった……うーん、何か用意した方がいいかな?」


鏡越しにニーナに確認すると、急な話だから手ぶらでも無礼ではないでしょうと返した。


「ああ、西から頂いた茶葉を持って行かれてはどうですか?」


ザンダリルの屋敷でお世話になった侍女のマーサから、沢山の茶葉が贈られていた。一度、それもはっきりとではないのに、美味しいと言ったことを覚えていてくれて、わざわざ送ってくれたものだった。


「おお! 良いね、そうしよう! 用意して下さい」


クラリエッタも喜んでくれそうな気がして、アメリは両手をぱちんと打ち鳴らす。


ニーナは後ろに控えていたニコラに頷いた。用意するべく部屋を出るニコラに声を掛ける。


「ベルにも準備してと伝えて」

「あ! いいよ、外側から回って行くから」

「まあ、アメリ様……」

「だって面倒だもん……天気も良いし、外から馬で行くよ。だからひとりで大丈夫」



王城を中心にして、城壁に囲まれた敷地内はそこらの町と変わらないほど広い。

貴族たちの住居がある区画は、王城の北側。

歩いて行こうと思ったら王城を経由した方が近道だが、ただ簡単に通り抜けられる訳でもない。

何度も王城の騎士に用向きを告げて通してもらわなければいけない。度々 顔見知りに話しかけられもするし、共も一緒に行動しないと見栄えが悪い。


それなら外の敷地内を馬で駆けた方が、遠回りにはなるが気が楽だ。

城内を歩く近道も、馬で駆ける遠回りも、それ程時間は変わらない。ならば後者を迷いなく選ぶ。


敷地内だから迷う心配もない。ニーナから渋々とではあるが、なんとか了承を得る。





厩舎からキースに乗って走り出し、すぐに笑みを貼り付けた顔から力を抜いた。


クラリエッタの誘いは嘘ではなくても、昨夜の続きなのも間違いはない。


どうなるのかと思っても、浮かんでくるどれとも違う気がする。面倒になって、アメリはすぐに考えるのを諦めた。

なる様にしかならない。その都度 できる限りの対応をすると心構えをして、ジエレオン公爵の住まう区画に向かった。



夜会の翌日は朝が遅い。

大概が昼の時間を過ぎても活動的に動く貴族はいない。

昨夜の片付けに追われている各家の侍女たちも、一旦落ち着いた時間帯なのだろう。


規模の大きなお茶会に使われる広い庭も、個人で楽しむいくつかの小さな四阿も、今はひっそりとしてひと気は無い。



伝え聞いた通り、建物の端の方に位置する、大きな木の下にある四阿に向かった。

手前でキースから降りて、障りの無さそうなところに手綱を巻き付ける。

放して自由にさせてあげたいけど、後から怒られるのも嫌なので、キースには我慢してもらうことにする。ごめんねとぐりぐりに撫で回して四阿に向かう。



昼前の透き通った空気はとても気持ちが良い。白っぽい光と新緑の溶け合った中で、クラリエッタともうひとり、同じ年頃の侍女が楽しそうに声を上げてお茶の準備をしていた。


クラリエッタは載名をしていない。

王の為に働く道を選ぶのか、王城の外で誰かと縁を結ぶか、まだはっきりと決まっていないらしい。クラリエッタの侍女も同じだろう、小さな頃から時を共にしたふたりは、仲の良い姉妹にも見える。


笑い声を上げて、それでもアメリに気が付いた侍女の方は、ぴたりと笑うのをやめてアメリにきれいな礼の形をとった。


「こんにちは。お招きありがとうこざいます、クラリエッタ」

「アメリッサ様! ようこそおいで下さいました」


四阿からぱっと駆け出してきて、アメリに体当たりの勢いで抱きついた。

嬉しそうなその姿が可愛らしくて、思わずアメリの腕にも力が入る。

クラリエッタをぎゅうぎゅう抱きしめてぶんぶん揺らすと、胸元から楽しそうな笑い声が上がる。

そのまま縺れるように四阿に向かって歩き、楽しいお茶会が始まった。


まとまりのない楽しい話は、あっちに行きこっちに戻りしながら、時間はあっという間に過ぎていく。






王城の昼を告げる鐘を聞いた後、いよいよジエレオン卿の登場となった。


すらりすらりとこちらに歩いてくる姿は、隙を見せないよう、どこか用心深い感じがする。音を立てずに歩く猫のようだとアメリは思った。


「クラリエッタ……もうそろそろお開きの時間だよ。先生がいらした」

「……楽しい時間はどうしてこんなにすぐ過ぎるのかしら」


ぷくりと膨れた頬をアメリが摘むと、クラリエッタはくすぐったそうに身を捩って笑う。


「また呼んで下さい、いつでも」

「はい! また来てくださいね、約束ですよ?」

「はい、約束します」

「ではアメリッサ様、失礼いたしますね」


侍女と連れ立って建物に向かった背中を見送る。

今にも駆け出しそうな背中は楽しそうで、ふわふわととても軽そうに見える。





「よく来た」

「……どうも」


替わりに卓の向かいに座った男も、にやりと楽しげに笑ったが、ちっとも可愛くはない。


男は自分で新たに器を用意すると、お茶を注ぎ、ついでにアメリの器にも注ぎ足した。


「さて……あの後考えてみたんだが……」

「その前に、貴方は誰ですか」

「テオドアザール ジエレオン公爵だ。皆そう呼んでいるだろう?」

「どうしてジエレオン卿の代わりをしているの?」


クラリエッタには、この男は父親以外の何者でもない。どころかアメリ以外、皆がジエレオン卿に見えている。


「代わり? ああ……まぁ、それが一番都合が良かったからな」

「都合が良い?」

「何故、代わりだと思った」

「…………姿を変えて見せられるんでしょう? どうして? ジエレオン卿じゃないとダメな理由はなに?」


行き来はしているが、噛み合わずお互い躱し合いながら会話を続けていた。

時間を無駄に使っている気がして、アメリは苛立って確認したいことだけを端的に言葉にする。


「貴方がジエレオン卿を殺した?」

「いいや」

「クラリエッタに危害を加えようと考えている?」

「いいや」

「…………そう、なら良い」

「信用するのか?」

「信用するしかない」


経緯も理由も分からなくても、クラリエッタが大事にされているのは分かる。

クラリエッタを見つめる目も、その背に置かれた手も、慈しむようだと見ていて感じた。

彼女が幸せであるなら、それを与えているのが本物であろうが偽物であろうが、どうでもいい。


都合が良いと自ら言った。父親の姿をしていた方が本当の父親を亡くしたクラリエッタの為と考えてのことだろう。


「クラリエッタの為に、ジエレオン卿のフリをしているんだよね」

「……そうだな」

「うん……じゃあ、頑張って」

「おい、待て」


席を立とうとしたアメリに、男は馬鹿かといった目を向けている。


「なに?」

「こっちの問いに答えろよ」

「なにが?」

「何がじゃない、このまま放って置くのか?」

「放っておいてもらいたいんでしょう?」

「俺たちはな。その事はもういい」

「は? 何のはなししてんの?」

「お前、調整者だろう、この世界の」

「……違う」

「判者 以外に別の世界が見えるとしたら調整者だろう。判者ほど神経が細かくない、逆だもんな、肝が太い。思い付いて納得した」

「私は、違う……もう、違う」

「もう違う? ……ああ、最近 代替わりしたんだったか? その……この世界でなんて言ったか……そうそう、錘の者、姫、か?」

「もう私の役目は終わった」

「ならどうして俺が見える」

「し……知らない、そんなこと」

「まだ終わってないからだ」

「なに?」



もう立とうにも膝に力が入らない。


全身が粟立って、肌の上を走る痛みにアメリは自分の身体を抱きしめた。


「そうか……代替わり……次の調整者は決まったのか」


次と言われて心臓がぐいと掴まれる感じがした。痛む所に手を当てて、どうにか絞り出すようにまだだと答える。


「うん……少し待て」


どこかに行くのかと思えば、男は座ったまま、背もたれに体重を乗せると、その場で目を閉じてわずかに体から力を抜いた。ほんの少し、瞬きの間ほど男の輪郭歪み、その後は何か向け落ちたほどその存在が希薄になる。気配を絶ち潜むように。


アメリはシャツの胸の辺りを握りしめ、忙しなく頭を働かせた。


ユウヤとサヤの役は自分の両親に返っている。アメリの役目は終わったから。では、調整役が両親かといえばそうではない。彼らは次のユウヤとサヤを育てるのが役目。


次のユウヤとサヤはまだ生まれてもいない。



男の言う調整者は、今はこの世界に居ない。




姫様やネルに何かあったのだろうか。それとも、あの旅で自分は何かを間違えてしまったのか。


耳元で鳴っているような心臓の音が、不規則に響いて、どんどんとうるさい。

じわじわと額に脂汗が浮かんでいるのがわかる。呼吸は走った後のように荒い。



ひゅと大きく息を吸い込んで、目の前の男が目を開いた。ふはと笑い声をあげる。


「はー……なるほど、はは! あー。なー? どうする?」

「なに……なにが?」

「上位存在がひとつ消えて空位ができたんだけど」

「は?」

「その座を狙って争ったはいいが、おかげで上位の者が大勢消えたみたいだな」

「何のはなし?」

「それで均衡が保てなくなって、錘の者がこっちに転がり出たらしい」

「姫様が?!」

「いや、別の世界の」

「別の世界の……?」

「分かってるだろ、世界は七つ。もちろん錘も七つだ」

「そん……なの……知らない」

「あ、そ。どっか別の世界がヘタれば全部がおかしくなるのは知ってるだろ?」

「うん……それは」

「崩れた均衡を世界が立て直そうと働いた」

「……ちょっと」

「だから別の世界の者の俺が、この世界の調整者に見つかったんだな」

「ちょっと、待って」

「世界を正せとな」

「なに?」


「こぼれた錘を探して、元の世界に還せ」












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