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負けず嫌い夫人。








新章の始まりでございます。



お楽しみいただけますように。















人の多い場所には慣れているつもりでも、それは屋外ならば、という条件付きなのを身に染みて感じていた。


いくら自分の何人分上にあるか分からないほど高い所に天井があろうが、端まで行くのが面倒なほど遠くに壁や柱があろうが、これだけ人が居れば、開放感という言葉は幾人にも踏み付けられ、その足元でばらばらと散っている。


人々のざわめきや、時折起こる甲高い笑い声をなるべく耳に入れないように努力しながら、それでもアメリは余りの人の多さに知らず肩が下がる。


比較的に人の密度が低い場所に手を引かれて行く。その大きな手で背中を撫でられ、そのまま腰を引き寄せられた。


手の持ち主は苦笑いでアメリを見下ろしている。


「楽の音だけ聞いていなさい」


耳元でする掠れた低い声に、アメリは僅かに口の端を持ち上げる。

周囲には分からないように、うんざりだという心境を隠して薄く笑顔を保っているはずなのに、クロノにはどうやらお見通しらしい。


広間中央のダンスの為に空けられた場所で、ゆったりとした曲に合わせてくるりくるりと回る。


アメリは踵の高い靴を履いているから、ふたりの顔はいつもより近い位置にある。ちょうどいい高さにあるクロノの肩に額を軽く乗せるようにすると、握られた手に少し力が入って、こめかみの辺りに掠る程度の口付けが降ってくる。


「疲れたか?」

「……まだ来たばっかりだよ?」


日暮れに合わせて始まった夜会。

まだまだ宵の口の今は、アメリの言った通り、数人と挨拶を交わし、クロノの隣で微笑みながら当たり障りのない相槌を打っただけだった。



先の問題で国と各地方の領主との力関係や、連携を密に保つ為に開かれたこの夜会。


今回の件に大きく関わっていたクロノが出席しない訳にはいかない。それ以前に民の為の騎士団長でもある。アメリも面倒だから留守番というのを許されるはずもなく。

そもそも国王陛下 直々の招待なので、お付き合い程度に顔さえ出せばさっさと帰れる類の夜会でもない。



王城の大広間には、王城に住んでいる貴族に加えて、各地方の領主たちも出席していた。

確実に人数は多く、すれ違って目的の場所に行くにもなかなか難しい。


いつもならクロノと踊った後、アメリは面倒な挨拶回りから解放されて、休憩できるように設けられた場所で、ハルにお守りをされながらクロノを待っている。

その場所に居れば他の殿方はダンスに誘えない決まりになっているし、そこを踏み越えてくる無作法な貴族たちも、ハルが追い返してくれる。


それが今夜はそうもいかないらしい。アメリは腹を括るしかないのかともう色々と諦めかけていた。


ハルは遠く人の波の向こう側。煌びやかに着飾ったご婦人たちに囲まれて、頭の先の方しか見えないので、視線すら合わない。


アメリのもうひとりの新しい愛人、アンディカも、これまた遠くの場所、大広間の壁際で他の騎士と話をしていた。

あちこちに頭を巡らせているアメリに不機嫌そうな声が聞こえる。


「……何を見ているんだ?」

「ハルもアンディカも遠いなぁと……」

「今夜はずっと一緒にいろと言わなかったか?」

「……ぬぅぅ」

「……ダメだ」

「ううぅぅん……」


大広間に入る前にクロノが今夜はアメリのお守りは必要ないと指示を出していた。

ハルもアンディカもそのつもりだから、自分の用を果たすべくこちらをあまり気にしていない。




原因は今夜のアメリの衣装だった。


クロノの礼装、騎士服と同じ濃紺に染められた糸は、繊細に編まれてアメリの体にぴたりと寄り添う形の意匠をしている。

下着で締められたり、無理に持ち上げられたりもしていない。

仮縫いの段階から美しくないから下着は付けるなと製作者にきつく言われていた。

最初はあまりの頼りなさに落ち着かず、心許なかったアメリも、なんだかもう慣れてしまった。


拘っているのはクロノの方だ。

傷だらけのアメリの体の傷のない箇所が惜しみなく晒されていた。

首元から臍の辺りまで、中央で縦に切れ目が入って素肌が見える。体に沿っているので、どんなふうに屈もうが、おかしな角度に捻ろうが、大事な部分はぽろりとしない。そこは流石、妹殿下の仕立て屋の技なのだろう。

裾は足首までまとわりつくように沿っているものの、後ろ側は尻のすぐ下まで切れ込みが入っている。こちらはうっかり大股で歩けば脚が丸見えになってしまうので、少し前を歩くクロノの歩幅も、いつもより狭い。


衣装を見た瞬間は褒めていたが、仔細が分かるにつれてクロノの眉間のしわが深くなった。


陛下から贈られた衣装なので着替えられないと言えば、盛大な舌打ちをして遠慮なしに悪態を垂れていた。


殿方からは褒め言葉とねっとりとした視線を浴びせられ、ご婦人たちは顔を寄せ合い何かしら感じの悪い空気をこれでもかと垂れ流している。


「言ったろう、気が気じゃなくなる、離れるな」

「もう……平気だってば」

「私は違うぞ……返事は?」

「はぁい……」




ダンスが終わってその場を移動しようと歩き出し、それにアメリは付いていく。

クロノの腕に手をかけて、足を踏み出してたたらを踏んだ。


「ぅわ!」

「どうした?」

「え? 猫? ……なんで?」


ちょうど出した足先の前に飛び出してきた、黒い猫のような動物は、沢山ある人々の足の間をすり抜けていく。

声を上げた時にはもう姿は見えなくなっていた。




氷の張った水の中に放り込まれたように、一気に体温が奪われた感覚がして、アメリは鋭く息を吸い込んだ。

全身に鳥肌を立てて、クロノの腕にしがみつく。


「……アメリ?」

「…………誰?」


目線の先にいる人物は、アメリに気が付いたのかにこりと口の端を持ち上げて、わずかに頷いた。


「ああ、ジエレオン卿じゃないか……この間晩餐に呼ばれただろう。娘さんと仲良くなったのに、忘れたのか?」


確かにその人物の横に並ぶクラリエッタとは、とても楽しく過ごした。もうすぐ14歳になることと、夜会に初めて行けるかもしれないことを心待ちにしているような可愛いらしい女の子で、アメリはすぐに仲良くなれた。


そのクラリエッタもアメリににこりと笑うと小さく手を振っている。


「……あれは、なに?」


アメリの記憶にあるジエレオン卿は、四、五十代に見える、恰幅が良く、体に見合って器も大きく、一目で優しいと分かるような、いつも笑顔の絶えない朗らかな人だ。


だったはずだ。


「……アメリ?」


アメリはぶるりと身体を震わせる。


様子がおかしいことも、顔色が悪くなったことも気が付いたのか、クロノが前に回って立ち、覗き込むようにする。


相手の視線から解放されて、ゆっくりと息を吐くとクロノと目を合わせた。



今そこにいる(けい)はクロノと変わらない歳に見えた。燻んだ金色の真っ直ぐ長い髪をひとつに結わえて、すらりとした長い手足に合わせて身体つきもひょろりとしている。金の目は鋭く射抜くようで、何を取ってもアメリの記憶と真反対の雰囲気しかない。




瞬きを繰り返して、違う、と首を横に振った。


見方(・・)を変えると、アメリの知っているジエレオン卿の姿が同じ場所に重なって見える。



この感覚。



姫様と旅をしていた時に見えていた、他の世界の景色が見えるこの感じ。



さっき足元を通り過ぎて行った猫のようななにか(・・・)


そうだ、知っている猫はあんなに胴が長くない。


六本も足は無い。



上手く息が出来ている気がしない。

こんな場所で、役目の終わった今、この感覚が戻ってきたことに、背中に寒気が走る。


「……どうした、気分が悪いのか?」

「……クロノ……あれ……あれは、人間?」

「うん? なにを……」

「な……んでもない……平気」


心配そうに少し眉の端を下げたクロノに、アメリはわずかに笑い返す。


考えたところで自分には何が起こったのか、どうすればいいのか分からない。


考える間もなくクラリエッタがジエレオン卿の手を引いてこちらに近付いてくる。


それに合わせてクロノとアメリはそちらに体を向けた。


「こんばんは、アメリッサ様!」


ふわふわとした薄い黄色の衣装を着て、少し興奮しているのか、気持ち声が高く弾んでいる。朱に染まった頬も光の映り込んだ瞳も楽しそうで、クラリエッタが輝いて見えた。


差し伸べられた両手をアメリは取って、そのまま自分の腰に回すようにしてからクラリエッタを抱きしめる。


「こんばんは、クラリエッタ! とってもかわいいですよ!!」


両方の頬を手で挟んでふにふにと揉むと、クラリエッタは見た目の通りに可愛らしくうふふと笑い声を上げた。


ぎゅうとクラリエッタを抱きしめて顔を上げると、クロノとジエレオン卿が握手を交わして挨拶をしているのを目にした。


クロノにはジエレオン卿は前と変わらず見えているのだろう、アメリが少し首を傾げていると、ジエレオン卿はアメリにこくりと頷く。

アメリも膝を折って挨拶を返した。


一度そうと認識してしまえば、もうジエレオン卿のことを、人の良さそうな貫禄のある姿で見るのは難しい。


いつまでもふたりを気にしていると、下から可愛らしい声がしてくる。


「もう誕生日が過ぎたでしょ? お父様が夜会に出席しても良いって!」

「……楽しいですか?」

「ええ、とっても!」

「それは良かったですね」


返事の代わりに抱きついてきたクラリエッタをぎゅうと抱きしめ返す。

クラリエッタは以前に見たときと変わりなく、人懐っこい女の子だ。別の誰かと姿が重なって見えたりしない。


「アメリッサ様、すごく綺麗。さっき騎士団長様と踊ってらしたでしょ、おふたりともとっても素敵だったわ!」

「……そう? ありがとう……でいいのかな?」

「私もいつか、あんな風に誰かと踊ってみたいです……」

「ウチの総長で良ければ、いつでもどうぞ?」


瞬時にその姿を想像したのか、クラリエッタの顔がみるみる朱に染まっていく。あぁ、と消え入りそうな声を漏らしてきつく目を瞑ると、腰に回していた腕に力を入れて、アメリの胸に顔を埋めるように擦り付ける。


柔らかく、ふわふわとしたクラリエッタの髪を撫でて、その手でとんとんと背中を叩いた。


久しぶりの感覚に姫様を重ねて思い出し、ぐいとこみ上げるような熱い塊を少しずつ飲み下して自分を落ち着ける。

顔を持ち上げてこちらを見ていた人と目を合わせる。


今、この状況は一旦よそへ置いて、可愛いクラリエッタの小さな望みを叶えてあげることに、少しのためらいもない。


アメリはジエレオン卿にいつもと変わらぬ笑みを向ける。


「……ジエレオン卿、私を踊りに誘って頂けませんか?」

「ええ、もちろん。喜んで」


クロノが意を汲んだのか、クラリエッタに手を差し出した。


「ではクラリエッタ嬢、私と踊って頂けませんか?」

「…………はい!」


広間の中央に向けて歩き出したふたりの背を見送っていると、ジエレオン卿はアメリに手を差し出した。


自分の手を乗せてアメリも合わせて歩き出す。


向かい合って軽く礼をし、ゆったりと続いている音に乗って踊り始めた。




ジエレオン卿がこの間とはまるで別人に見えていることは恐ろしくはあったが、どちらかというと不思議だと思う気持ちの方が優っていた。


今に始まったことではないのかもしれない。

たまたま今夜 気が付いただけで、昔からこうだったのかもと思考を変えてみたりもする。


取り留めもなく考えても何も解決しないので、向かい合った人物に、なるべく柔らかく遠回しに聞いてみようと口を開いた。


(けい)は……濃い茶色の瞳をしていませんでしたか? 髪も……」

「……そうですが、夫人にはそう見えませんかな?」

「前はそうだと思っていたんですけどね」

「今は違うと?」

「髪も瞳も、金色に見えますね」

「……ほう?」


ジエレオン卿は少し離れた場所で踊っているクラリエッタの方を見る。

つられてアメリもそちらを向いた。


背の高さや、体の大きさが違いすぎて優雅に踊っているとは言い難いが、クラリエッタはとても嬉しそうに微笑んでいた。


「……知り合いに判者が居たか」

「はんじゃ?」


くるりと態度が変わり、抑揚のない、何の感情も入らないような声を零している。

ふむとアメリを見下ろし、口の中で何かもごもご呟く。

ジエレオン卿は一度アメリから両手を離し、それから改めて片手を伸ばすと、ゆっくりアメリの首を掴む。


ぐいと指に力が込められる。

顔を近付けてジエレオン卿はアメリの耳元で囁いた。


「別人だと言ったところで、誰も信じないぞ?」


握られて締め上げられているのではなくて、横を押さえられている。指に力が入っても痛いだけで息は苦しくない。

圧迫感はあるけど呼吸ができるので、直接 死に繋がる感覚が薄く、アメリにはまだ余裕が残されていた。


「……あなたはニセモノなの? 本物のジエレオン卿はどこに行ったの?」

「彼は死んだよ」

「……なにを言っているの?」


相手を睨み、両手で首を掴んでいる腕を剥がそうとしているが、微動だにしない。


さらに腕に力が込められ、アメリは自分の体が少し持ち上がる。掠っているつま先で地面を掴もうと足をふらふらと動かした。



それよりもこの事態に誰一人として反応が無い。クロノには声すら届いていないようだった。


「無駄だな……今の俺たちは誰にも認識されていない」

「……どういう、こと?」

「何が何がと……他に言うことは無いのか」

「だって何がしたいのか、全然分からないから!」

「お前……俺が恐ろしく無いのか?」

「何も分からないのに、何を怖がればいいの?」


相手は眉を片方跳ねあげると、腕の力を緩めて手を離した。


地面に足をしっかりつけられたアメリは少し離れて痛む首元に手を置いた。


恐ろしくないと言えば嘘になる。

見た目の姿が変わったのではなく、本物のジエレオン卿は死んだと軽々しく答えた。

首を掴まれて吊るし上げられたことも、この会話が誰にも届いていないことも、この得体が知れない事態が、恐ろしい。


恐ろしいが、この仕打ちが腹立たしくもあった。正直に怖いと答えて、それが何になるというのか。誰の手も借りられないこの状況で。


アメリは面白いものを見る目をしている相手を睨んで返す。


「判者は恐れの余り、気が小さく臆病な者になるはずだが」

「だからその、はんじゃって……」


じりと近寄られて、アメリは負けたくないから同じだけ前に出た。


「この世界では無い、別の世界を見ることができる者のこと」

「……別の世界」

「その物言い……やはり知っているようだな」


知っているから、別の世界とは何だと聞かなかった。それが相手の興に入る結果になったことに、アメリは心中で舌打ちをした。


「知らない、私はその……はんじゃとは違う」

「では何だ」

「別に、何でもない」

「……まぁ、そういう事にしておいてやろう、今はな」


にやりと口の端を持ち上げて、手を差し出す相手を、どういうことかとアメリは眉を寄せる。


「さあ手を取れ。間もなく曲が終わる……周りに変に思われるのは、俺にもお前にも利は無い。そうだろう?」


さっきまで自分の首を掴んでいた手にアメリは手を重ねた。

握られ引き寄せられるままに近付く。


「……笑え。何だその顔は、この続きはまた今度だ」


ぐと奥歯を噛み締め、深く呼吸をすると力を抜いて、無理矢理に笑顔を貼り付けた。


「……クラリエッタはお前の事を気に入っているみたいだからな。悪いようにする気は無い。明日にでも訪ねて来ると良い、話を聞いてやる」

「……偉そうに……」

「は! ……面白いな、お前」


何事も無かったように踊り終えたフリをした。


すぐにクロノがやって来て、ジエレオン卿にクラリエッタを引き渡す。


「クラリエッタ……楽しんだようで何よりだが、もう夜も遅い。ここまでにしよう」

「はい、お父様……分かったわ……残念だけど」


少し小さくなったのかと思う程 気を落としたクラリエッタに、ふと笑顔を見せてクロノは手を差し出す。

そっと乗せられた小さな手に、口を付ける仕草をする。恭しく扱われた小さな淑女ははにかんだ笑顔を浮かべた。


「またいつか、お相手をお願いできますか?」

「はい、もちろんです! 喜んで!」


別れの挨拶を交わして、その場を後にする姿を見送った。



その後、アメリは貼り付けた笑顔をそのままにして、夜が更け、夜会がお開きになるまでクロノに付き従う。




誰にでもよく分かるように夜会に於ける騎士団長夫人をやり遂げた。










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