back home.
スミスに渡る橋の前には人や荷車が押し寄せていた。
人だかりが出来ている割には静かにささめき合っている。
心配していた通りに、少し前から雲はとうとう持ち堪えられずに雨を振り撒きだした。小粒の水の玉が音もなく落ち、少しずつ景色を濃く彩っていく。
普段なら人や荷車が往来し、それなりに賑やかな橋の上は今はひと気が無い。
少し進んだ先の場所で三人の男が追い込まれ、長剣を構えて寄せ集まり、その周りを五、六人が囲んでいるように見える。
こちら側にいる人々は橋を渡りたいが、常ならない雰囲気にそうもいかず、事が収まるのを遠巻きに見るしかない状態だった。
商人風の男に近付いて、何があったのかとローハンは問いかける。
「少し前から橋を渡るのに、制限が掛かったんだよ。向こう岸からは誰も渡って来ないし、こっち側からは身分が確かでないと行かせてもらえない」
「……なるほど、それで?」
「ほら、囲んでいる方の男たちが無理に橋を渡ろうとして、ハイランダーズが止めているところだけど……なんだか旗色がよくないな」
今回の件に加担したマルコットの集めた兵士をそのまま野放しにもしておけないので、ザンダリル領側には警戒線が張られていた。
スミス側からはこちらには入れないように通行止めになっている。それは元々の計画にあったので、ローハンはすぐに状況を呑み込んだ。
「困ったねぇ。このままこっち側に居たくないな。物騒できな臭いったらない……それにごらんよ、あの赤ん坊は急病じゃないか。早くスミスに連れて行って、医者にかからないと可哀想だ」
商人が顔を向けた先には、火がついたように泣いている赤ん坊と、それを抱えた若い母親が、病人のように青い顔をして、うろうろ歩き回って落ち着きを無くしている。
アメリとローハンはお互いの顔を見合わせた。
人だかりをかき分け、間をすり抜けて橋の袂まで歩を進める。
「奥方様、ここからどうです?」
「ああ……まぁ、何も無いから」
すぐに構えの態勢を整えて、弓に矢を番えて引き絞る。
「……足とかでいいでしょ?」
「充分です」
「外れたらごめんね」
「構いませんけど、私には当てないで下さいよ?」
にこりと笑って、ローハンは集団に向けて態勢を低くし、真っ直ぐではなく横に膨らんだ軌道で走り出した。
一射目は背中を向けていた男の腿の裏側を射抜いたが、続けて二射目を放った瞬間に舌打ちをした。矢は外れてその向かい側にいた騎士の足を掠めて石畳に乾いた音を立てる。
「ごめーん! だいじょーぶー?!……風が強いな」
揺れている外套の裾、灰色の空を見上げて目線を戻す。
もう一度矢を番えて、橋の上の風の方向と強さを、小さな雨粒の流れる方向を見て調整する。
腰より上は、外れてまた仲間に当たりでもしたら申し訳ないので、やはり今度も足元を狙う。
放った矢は今度はどうにか男のふくらはぎの端をえぐって突き通る。
折りよく辿り着いたローハンが、その男を鞘に入った剣で足元をすくうように薙いで転ばせる。そこから立ち上がりざまに、すぐ近くに居た別のひとりの顎を鞘の先で突いて石畳に倒し、向かって来たもうひとりの鳩尾を突いて地に伏せさせた。
一気に形勢が変わり、男たちを橋の欄干に追い詰めて押し留める。
どよどよと声が上がる後ろを振り向いて、アメリが声を上げる。
「赤ちゃんのお母さーん!」
進み出た若い母親を促して、一緒に橋を渡ることにした。
袂にいる人々に片手を突き出す。
「他に病人やケガ人は居ない? 後の人はもう少し辛抱して!」
さっき話をした商人を見付けて手招きした。
「頼みがあるんですけど、ここから川下にある広場に行って、騎士を何人か寄越すように話をしてもらえませんか?……あー……大弓を持った愉快な格好の人に頼まれたと言えば通じるはずです。急いでって伝えてもらえると助かります」
「……優先的にこの橋を渡してもらえるなら、喜んで引き受けますとも」
「あはは! 良いですよ……じゃあ、交渉成立ですね」
ローハンの元まで行って、矢を当ててしまった騎士に詫びを入れるとすぐに心配ないと返事があった。
アメリは母親を連れてそのまま橋を渡りきり、スミス側に居た顔見知りのハイランダーズを数人引き連れて戻る。
「……あれ? なんか人数 増えてない?」
さっきは五人程だったのに、倍の人数が橋の欄干を背に並んで座らされていた。
どの男もどこかしらケガを負って血を流している。
「あの広場に行かなかった者が逃れてきてるみたいですね」
ローハンはにこにこと笑いながら、どうという事はない様子で答える。応援に駆け付けた騎士たちに指示を出してその場を任せると、アメリと共にスミス側に向かった。
「スミスに行って何かすることがあるの?」
「スミスの向こう側に陣所ができているので、そこに戻って、とりあえず待機ですね」
「そう……分かった」
スミス側の橋の袂にも、旅人や商人、その荷車が詰めかけている。通行止めだと追い返され、雨天も手伝って、諦めた人たちのスミスに戻る後ろ姿がぽろぽろと見えている。
城塞の頑強な壁沿いにスミスの町を迂回する。
城壁の外側、街道脇の広い草原には、立派な天幕がいくつも建っていた。
腰高の柵でぐるりと周りを囲み、中はちょっとした集落のようで、活気があり賑やかな感じがする。居るのはすべて騎士たちなので、あちこちで野太い声が飛び交い、むさ苦しさが半端ない。
出入り口に近い場所にある小ぶりの天幕の布を引いて、こちらですとローハンが声を掛けた。
顔見知りに囲まれて話をしていたアメリがそこへ駆け寄る。
「総長の天幕です。奥方様はここでしばらく休んで下さい、荷物も運んでありますから」
「やった! どうもありがとう」
分厚い布の天幕に足を踏み入れれば、外の騒めきはそこまで気にならない。
天幕を叩く雨粒の音に包まれている感じが心地良い。
中は五歩も歩けば端まで行ける程の広さで、折り畳みのできる小さな卓と椅子がある。
弓の水滴をわさわさしたスカートの裾で拭って、出入り口に立て掛け、濡れて重くなった外套を脱いで椅子の上に置いた。
腰の剣は外套の内側にあったのでひとつも雨に当たった様子はない。ベルトごと外して卓の上に置く。
天幕の一番奥に、上蓋に布が張られた長椅子ほどの大きさの木箱があり、中には最低限のクロノの衣装や必需品が入っていた。
衣装箱の隅に自分の鞄を見付けて取り出す。その底の方に長靴が揃って入っていた。
布の量が多いくせに心許ないこの衣装から、自分の服に着替えができるとアメリは両腕を振り上げて、でもすぐに同じ勢いで腕が落ちる。
背中のボタンは普通のものでも手が届かない場所がある。というのに更に加えて内側に隠されていて、自分でボタンを外すには難し過ぎる。
「……ローハンに?……いやいやいや、いくらなんでもそれはないか……」
服に刃を入れて切り裂くことも一瞬 考えたけど、いくら良い趣味とは言えなくても、衣装に罪は無いからそれも憚られる。
いつ戻るか知れないクロノを待つしかないのかと、地面にへたり込んで、アメリは衣装箱の上に両腕と頭を乗せて、大きな溜息を吐き出した。
しばらく続いた小雨はひどく降らずに止んで、頭上にあった雲は流れ、今は空が見えている。
沈みかけの太陽が空気を橙に染めていた。
陣所内は夕食の準備が始まって、湿った木の燃える濃い煙の臭いと、何かを煮炊きする匂いが混ざって、ゆるい風に乗って漂っていた。
マルコットとホルスを屋敷の自室に閉じ込め、部下たちに後を任せた。
クロノは隊長たちと合流し、陛下や王騎士と共に陣所に引き上げてきたところ。
自分の天幕に入った途端に、その現状に鋭く息を吸い込んでアメリの元に走り寄る。
アメリが地面に手足を縮めた格好で横たわっていた。
「アメリ……どうした!」
抱き起こして軽く揺すると、ひとつ唸り声を上げ、温かさを求めてクロノの胸に頬をすり寄せてくる。
規則正しく小さな呼吸を繰り返しているのを確認して、眠っていただけかと安堵の息を吐き出した。
下に敷いてあるのが厚手の絨毯とはいえ、それで地面から伝わる寒さを凌げるものでもない。
着ているものがしっとりと濡れている感じがして、抱きしめてみれば随分と体が冷えている。
マルコットが贈った白い衣装を見下ろして、クロノは眉間に力が入っていくのを自覚しながら、アメリの冷たい頬をむにむにと摘んだ。
「……アメリ、起きなさい」
「……う……寝ていますので」
「そうだな……でも起きてくれ」
苦笑いを漏らしてぎゅうぎゅう抱きしめると、苦しいともがいて、やっと薄く目を開いた。
しばらくぼんやりと宙を見ていた目がクロノを捉えると、瞬きを繰り返して、やがてぱちりと開かれる。
「……んん? クロノ?」
「目が覚めたか?」
自分で体を起こして両手で顔を擦ると、もう一度唸り声を上げる。
周りを見回し、自分がどこに居るのか思い出してああと漏らす。
「あれ? クロノがいる……!」
知らない場所でここまで寝起きが悪いのは珍しい。余程に疲れているのかと気の毒に思いながらも、それでも可愛いと思う気持ちが先に立って、クロノはふと吹き出して笑ってしまう。
「……お早う、アメリ」
「え? ……朝?」
「いや、夕方だ」
「ああ……そう」
目をごしごしと擦っている手を取って止めさせると、そのまま自分の方に引いて、もう片方の手で首の後ろを掴み、強引に口付けをする。
すぐに力無く腕の中で暴れ出したが、お構いなしで強く弱く、至る個所に口付けを繰り返す。
「や!……ダメだって……無事に、帰ったら……って……約束!」
「……無事帰ったぞ」
「ここじゃない!」
たとえそこがどんな場所だとしても、自分の帰り着く場所はアメリの側だ。
ふと息を漏らすとアメリの首筋から顔を上げる。
「……認識が違ったようだ」
アメリの眉間に寄ったしわに、怒って見上げている目元に口付ける。
離れようと突っ張っているのを力尽くに抱きしめて、唇を重ねる。
反論を息ごと呑み込むようにして、その内に大人しくなるかと腕に力を籠める。
反してどんどん力強く押し返そうとするアメリの手や腕に、クロノは徐々に苛立ちが募ってくる。
一番に腹立たしい原因から対処しようと顔を少し離した。
「……いつまでこんなものを着ている気だ」
「私だって早く着替えたいって! ……でもボタンが」
「……ボタンが? ……なんだ?」
そこまで言われて、アメリは自分の背に開放感と、冷んやりした温度を感じて手を後ろに回す。
「うわ! いつの間に!」
上から下の方までボタンは外されている。なんなら編み上げて縛ってあった紐も緩んでいるのを後ろ手で探って確かめた。
呆れたような顔で背筋から力が抜けていくアメリを見下ろして、クロノが片方の口の端を持ち上げた。
「……ねぇ、こういうのどこで練習するの?」
「……聞いてどうする」
器用に動くクロノの手が、背中にある紐をするすると引いて、上から順に抜けていくのにアメリは閉口する。
首筋に口付けられて、唇がそのまま下に向かっていくのをされるがままにしていた。
程なく人の気配が近付いて、天幕の外から声がかかる。
「総長、陛下がお呼びです」
クロノは盛大に舌打ちすると、半分は出ているようなアメリの胸元に噛みついて顔を上げる。
赤く痕が付いたその場所を満足気な顔で、親指を這わせる。
早く着替えなさいと耳元で囁いて、クロノは天幕を後にした。
アメリは息を吐き出し脱力して、後ろの衣装箱に背中を付けて寄り掛かかる。
ザンダリルの屋敷でずっと見ていた険しい顔ではなくなったから、いくらか機嫌が良くなったのかなと思う。
赤く浮き上がった痕を見下ろした。
わさわさとした衣装をもそもそと脱いでいく。
だらりだらりとゆっくり着替えて、馴染みの格好にほっと落ち着いた。
髪の毛もいつものようにまとめて、やっと清々した気分になる。
そうしているうちに、今度はアメリが呼び出され、陛下の大きな天幕に案内された。




