ラフィかえる。
ほとんど眠れないまま早くに目が覚めて、起き上がって卓に向かった。
紙の束をしっかりと一枚の革で包んで紐で縛り、国王陛下に宛てた手紙を書き終え、蝋で封をした。
届ける物の方の準備はこれで整った。
衣擦れの音、もそもそと起き上がった気配に、寝台の方を向く。
ぼんやりと目が半分しか開いていないアメリを見て、知らず口元が緩まる。
「起きたか」
「んん……無理……」
周りを見回して、床に落ちている服を掴もうと、くたりと身体を倒す。重たいものでも運ぶように寝台に引き上げている。
動作はひどく緩慢で、しばらく止まっては動いてを繰り返していた。
いつもの何倍も時間をかけて仕度を整えるアメリを黙って見つめる。
届ける物の準備は整っても、送り出す方の準備がまだ整わない。
信用はしている。
やり遂げるだけの力量があるのも分かっている。
それでももし、と考えてしまう。
もし途中で予期せぬ事態が起こったら、もし悪意のある何者かが現れたら、もし……。
よくない考えばかりが浮かんで、いつまでたっても、決心がつかない。
髪をまとめて持ち上げている後ろ姿。白くて細い首筋、器用に動いている指に、ぐっと胸が絞られる。
近付いてうなじに口付けると、アメリは尾を踏まれた猫のような声を上げた。
「……目が覚めた」
「そうか……おはよう、アメリ」
「……おはよう」
両腕を上げてしなやかな身体を力一杯伸ばす美しい妻を両腕の中に囲い込む。
「……お腹空いた」
「そうだな……どこにする?」
「昨日のとこがおいしかった」
「うん……ではそこに」
ひとり分の荷をまとめて、外套を着る。
新しい剣を真横に佩いた旅姿のアメリの手を取って宿を離れた。
ゆっくり食事を済ませて、城壁にある詰め所の厩舎に向かう。
柵の中にいるグレンは遅かったなと言わんばかりの尊大な態度で、キースは待っていましたと、アメリに甘えてすり寄っていく。
「……グレンに乗って帰ってくれるか」
「うん? いいけど、どうして?」
「足が強い、道もよく覚えているし、それに……私がグレンと一緒だと目立つからな。キースを貸して欲しい」
「はは。確かに……ふたりが揃うと怖いもんね。分かった」
アメリはグレンに鞍を乗せて、荷を固定した。
黒一色の大きな体に抱き付いて、何事か話しかけている。
その後に今度はキースを抱きしめて顔を撫でまわし話をしていた。
「何の話をしたんだ?」
「よく言うこと聞いてねって」
ふわりと微笑むアメリの腰を引き寄せて、口付けようとすると、ぐいと押し返された。
「……誰も居ないぞ?」
「ちがーう……これ以上はまた今度」
「今度?」
「クロノが無事で帰ったらね」
舌打ちをするとアメリは声を上げて笑う。
良い子にして待ってるからねと手を振って、アメリは城都に向かう街道を駆けていった。
姿が見えなくなってもまだ街道のその先を想い、そちらの方を向いたままだった。
いつの間にか後ろにはヨエルが立っている。
「あの勢いなら、ホントに三日で城都ですね」
すごいと笑っているヨエルにくいと顔を傾けると、はいはいと返事をしながら付いてきた。
「うーん、総長……そのもの凄く機嫌が悪い顔、何とかなりません?」
「なると思うか?」
怖いと後ろで笑っている気配に、静かにゆっくりと息を吐き出した。
小川の水をざぶざぶ飲んでいるグレンを見て、大丈夫だなと手ですくって口に含んでみる。
変な臭いも味もしないので、そのまま飲み込んで、ついでに埃っぽくなった顔も洗った。
ひと息ついて立ち上がると、まだ水を飲んでいるグレンの体をべしべし叩いた。
街道から少し逸れた森の際。
今来た方向と、これから行く先を見る。
「やっぱりさっきの村で止まるべきだったんじゃない?」
まだ走れる、走らせろと張り切っているグレンに任せている内に、日が暮れかけていた。
さっき見かけた街道の標べからざっくり計算して、次の町まで走るとすると、到着は真夜中を過ぎそうだった。
初日から夜駆けをしたらグレンの体が保たない、そう思って、適当な場所が目に付いた途端に、強引に足を止めた。
「さっそくじゃないですか、グレンさん……」
スミスを出る前にクロノとしたいくつかの約束の中で、最重要だと言われていた “夜は必ず宿に泊まる、安宿は不可” をいきなり破ることになって、アメリはにやりと口の端を持ち上げた。
「うん……まあ、しょうがないよね。だって……しょうがないから!」
周辺を歩き回って枯れ枝を集めながら、野営に良さそうな場所を探した。
風と人目を遮れて、平らな場所を見付け、手早く火の準備をする。
その頃にはもう頭上に星がいくつか見え始め、紺色が橙を塗り潰そうとしていた。
久しぶりの野営はなんだか懐かしく、それなりに楽しいことのように思えて、いつの間にかアメリはふと笑い声を漏らしている。
グレンを呼んで鞍と荷を降ろして、馬具を外し、地面に伏せさせる。滑らかな手触りで弾力のあるグレンの腹にアメリは寄りかかった。
「さぁグレン。野宿になった責任を取って、ちゃんと番をしてよ?」
耳をぴくりと動かし、ふいと遠くを見るように首を持ち上げる。
腕を伸ばして首を撫でると、グレンは満足そうに鼻を鳴らした。
急に支えが無くなって体が転がる。
唸り声を上げると、顔を盛大に舐められて、さっきよりも大きな唸り声を出した。
立ち込めた霧は、日の昇る前の空気と混ざってすみれ色。
いつ眠りに落ちたのか覚えていない。
深く眠っていたのか、夢も見ない間に目覚めた気がする。
グレンに鼻先で頭を押されて、また顔を舐められた。
「うぅ……起きましたので」
尚も押してくるグレンの鼻先をぐいと押し返して、アメリは体を起こす。
とりあえずべとべとになった顔を洗いに、ふらりと立ち上がるとよたよた歩いて、まだ少し暗い中を小川へ向かった。
昨日の分を取り返せと、立ち寄った小さな町の食堂で、店主が心配するほど大量に食事を取った。
ついでに持ち運べる料理をもう一食分 作って包んでもらう。
これで心配無くなったと、アメリは街道を北上する。
途中、見たことがある景色に出会って、グレンの足を止めた。
太くて大きな街道に、斜めに交わる細い道。
どこにでもあるような、小さな集落に通じる道に見えるが、サザラテラに向かう途中で、確かにここを通ったのを覚えている。
「グレンさん……これ、ハイランダーズの道だよね?」
指示もしないで問いかけただけで、細い道の方に足を向けたグレンを、ちょっと待ってと手綱を引いて止める。
“絶対に街道を通る、道は逸れない”
クロノの声が頭の中に響いている。
「うううん……どうするグレン、どっちに行こうか……」
早く早くと足踏みしているグレンをその場で二、三周ぐるぐると回して、アメリは勢いよく腹を蹴った。
グレンは細い道を走り出す。
「だってしょうがないから!」
笑いながらアメリは寝そべるように身を屈める。
馬がやっと通れるほどの細い道は、すぐに森の中へと繋がって、グレンは走りを緩めること無く木々の間をすり抜ける。
いくつかある分かれ道は、これという特徴が無いので、アメリも前回にどこをどう通ったのかもう覚えていなかった。
道が分かれるたびに、お家に帰るんだよと言ってグレンに任せていた。
山を越え、森を抜け、草原を走ってまた森に入る。
重要度の高い約束ばかりをことごとく、しょうがないからのひと言で済ませて、二回目の野宿を終えた。
明るく白けてきた森の中を進んでいると、向かう先に騎影が見える。
アメリはグレンを止めて、腰の後ろにある剣を意識する。
黒革に銀色の馬具、グレンの装備とよく似ている。こちらに向かって来るのが明らかにハイランダーズだと分かって、緊張を解いた。
見覚えのある顔だったので、アメリは片手を上げた。
相手は目も口もこれでもかと大きく開いている。
「は? え?! 奥方様?!」
「おはよう! エセル、久しぶり!」
「……ちょっと待って下さい、まさかおひとりじゃないですよね?」
「うん? おひとりおひとり」
「里に帰ってたんですよね? 総長はどうしたんですか?」
「総長は用事が出来たから、私だけ先に帰ってきたよ」
「あ、え? そうなんですか?」
「やー……さすがだねグレン。道 間違ってなかったね!」
得意そうに頭を持ち上げたグレンの首をばしばし叩く。
エセルはいやいやと力なく呟いた。
「ちょ……正気ですか奥方様」
「はいはい、正気だよ……ねえこれ城都までどのくらい?」
「グレン任せで帰るとか……有り得ないですからね?!」
「あは! やっぱりそう思う? 怒られるから総長には内緒にしといてね?」
「俺からは恐ろしくて言えませんて!」
ああと声を上げて身悶えると、エセルは眉を八の字にさせたまま、城都の近くに出る道の説明を始めた。
「……で、右手に神殿が見えたらその道で正解ですから」
「神殿て、春節祭で行ったとこの?」
「そうです」
「分かった、ありがとう」
「お願いですから気を付けて下さいね?」
「エセルこそ気を付けて。行ってらっしゃい!」
狭い道で慎重にすれ違って、アメリは振り返って手を上げた。
複雑そうに顔をしかめるエセルに、お仕事頑張ってねと後押しをする。
渋々頷いて走り出した後ろ姿を見送って、アメリも先へ進んだ。
言われた通りに難なく進むうち、城都が見えてくる。
街中は通らないように迂回する道を選んで、城壁の側まで辿り着いて、空を見上げた。
真ん中に太陽がある。
二日半で駆けてやったと気分を良くして、王城の正面の門ではなく、城壁の端、屋敷があるハイランダーズの為の門を通ることにした。
敷地に入るとゆっくり走って、屋敷の前でグレンから降りる。
あちこち痛む身体を伸ばしたり捻ったり、腰とお尻を擦っていると、勢いよく正面の扉が開いて、侍従長が飛び出してきた。
「あ、モーリス……ただ今帰りました」
「お帰りなさいませ……あの……」
「私ひとりです、総長はえっと……置いてきました」
「……置いて?」
「あーと……陛下に会いたいので、知らせを出してもらえますか? 蝋封の付いた手紙を預かっています」
「分かりました、すぐに……」
「お願いします。……それと、アルウィンがどこか知ってます? 総長の執務室?」
「いえ、一階の彼の仕事部屋に」
「分かった……ありがとう」
グレンから荷物を外していると、厩舎の方から騎士が走ってくる。
グレンに抱き付いてぐりぐりと撫でて褒めた後、騎士によくよく世話を頼んで、アメリは久しぶりの屋敷に足を踏み入れた。
玄関の広間の奥を進み、アルウィンの仕事部屋を訪れる。
驚いている顔に何度も同じ説明をするのが急に面倒臭くなって、何も言わずに蝋封の付いた手紙を懐から取り出した。
アルウィンの顔の前に持っていく。
「これから陛下のとこに行こうと思うんだけど、アルウィンも一緒に行こう?」
「……そうですね、奥方様からは碌な話が碌に聞けなさそうです」
「ふふ……陛下に話す時についでに聞いて。……王城の騎士の相手はアルウィンがしてね」
「……こういう場面で労力を惜しまないでいただきたい」
ふへへと力なく笑うアメリを見上げてから、ぱたぱたと机の上を手際よく片付けていく。
アルウィンは眉間にしわを刻んだまま椅子から立ち上がった。




