間違いなくベリー系。
大木の足元に真っ白い靄、音もなく大きな川のようにゆったりと流れている。
どこにも平等に朝が訪れているはずなのに、この森の中はまだ夜が終わっていない。
純白と薄い紺色に染まった景色はとても幻想的に見える。
移動なんて考えなければ。
実際に歩いてみれば足元は朝霧で不確かだし、風に流され靄が切れてもその下には陽の届かない闇がある。どちらにしても注意が必要だった。
近くに水場があると言うので、野営地から少し離れた場所を三人は歩いている。
ユウヤが昨夜言っていた通り、本当に決定権は姫様にあった。クロノの申し出は夕べの応酬とは裏腹に二つ返事で了承を得る。むしろ一緒に来るものだと思っていたのに、今さら何をと不思議そうな顔をされた。姫様の中では、出会った時点で同行が決定していたらしい。
次の町までの案内を任された。
ここからなら急いで三日。
動き始めるなら早い方がいいと言ったが、足元の確保が難しい状態で準備を始めるのはどうだろうかと思う。が、クロノは何も言わずに従っていた。
笑顔で応じているユウヤを見れば、反対意見を押し切るほどでもない。少々気を付ければいいだけの話だ。しかし。
「本当に水場があるのか?」
「こっちだよ!」
先頭を姫様がご機嫌な様子で歩く。
よいしょよいしょと岩を乗り越えて、先の方を指さしている。すぐに小さな水音が聞こえてきた。
跳んで渡れるほどの細い川は、雪解け水か地下の湧き水が寄せ集まった流れなのか、指先が痺れるほど冷たく澄んでいる。少し口に含んでみて問題なさそうなので水筒の水を入れ替え、朝食用に鍋に汲んだ。
「クロノはあっちで」
ユウヤが川下を見ながら言い、クロノは差し出されたものを素直に受け取る。
「……やっぱり臭うか?」
「……私たちもそう変わらないから」
こんな物の前にもっと用意するべきものがあったんじゃないかと言うべきか、そこはやはりさすがと言うべきか。渡されたものは薬草を練って固めた汚れ落とし。香りもそうだが他のものとの配合具合をみると城都にあるものと遜色ない高級品に見える。
清潔さに関して、自分でもどうかとかなり思っていたのでありがたく受け取った。余計な事は言わずにくるりと向きを変えて川下に急ぐ。
お互い姿は見えないが声は聞こえる位置で、身体を清めて身支度を始めた。
木々の隙間から陽の光の降る暖かい場所で、姫様は髪の毛を梳られていた。
背筋を伸ばして座り、ユウヤが髪を結い終えるのを大人しく待っている。朝の光は姫様の白い服にやわらかく反射してぼんやりと光っている。まだ残っている朝靄も手伝って、それは夢の中の光景に見えた。
もちろんもれなくクロノは見惚れて、密かに感嘆の溜息を落とす。
「可愛くできましたよ、姫様」
後ろを振り返って立ち上がると、姫様はにこにこと笑いながらユウヤの首に抱き付く。
ふと目が合ったのでクロノもその通りだと頷き返せば、姫様はさらに笑みを深めて、恥ずかしそうにユウヤの肩口に顔を擦りつけた。
昨日から残しておいたもので朝食を済ませると、旅の支度を素早く整える。
姫様ニ、三人分のクロノの荷物に比べると、ユウヤの荷はその半分にも満たない。もちろん姫様は手ぶらの状態。昨日作った羽の枕は、クロノの荷の上に乗せられた。
「それは、やはり横に佩くんだな」
ユウヤは背負った荷物の下、腰の後ろで真横になるように細身の剣を佩いている。
荷物のすぐそばに置かれていた剣を目にした時から気になっていた。以前に何度かこの剣の使い手と手合わせした時、見たものとよく似ている。
国の西端だけにある流派の仕様。
城都にも他の地域にも類を見ないこの流派は、他流派と交流を持たず、広く子弟を募らないので使い手は極端に少ない。振って斬る事が主流なのに比べ、この流派は刺突に重点を置いている為にかなり細身の剣を使う。独特な剣捌きで、戦うには厄介だという話が変に捻れて伝わっていた。
「横佩きの剣士に近付くな」
「まぁ、そう言われてはいるな」
「彫り物付きには関わるなっていうのもあるでしょ?」
「私は見事な細工だと思うが」
剣の鞘は木製か革製か、その両方がほとんどだが、この流派は鞘まで武器として使うために金属で作られている。
ユウヤの言う彫り物付きというのは、数々の太刀傷を受けて模様のようになった鞘のことか、職人の手で彫刻の入ったものをいい、どちらもかなりの使い手。
さらに彫刻の入った鞘の持ち主は、武器としてそれを使う必要が無いほどの腕だと聞いていた。
「前に、何度かその剣と同じ使い手に会った事がある。そこまで鞘全体に細工の入ったものは見た記憶が無いが……ユウヤは相当な使い手らしいな」
「まさか。お守り……みたいなものだよ、これだけ派手なら、クロノみたいに知っている人は近寄ってこないし」
「噂を知らない者も信じない者も居るんじゃないのか?」
「……そういう、腕試し? みたいな変に絡んでくるのには、勝てるから」
それならやはり相当の使い手なんじゃないのか、思いつつ見てみるとこの流派の使い手は皆、一様にすらりとした体型をしていたのを思い出した。
ユウヤは女性なのでそこまで感じなかったが、男なら痩せ過ぎだ、板切れだとからかわれる。見た目のひ弱さとは相反してどの剣士も長い手足がさらに長く見える動き、身が軽く、驚くほど柔靭な身体をしていた。
「一度、手合わせを願いたいな」
「やだ! クロノに勝てる気がしない!」
「ユウヤは強いから勝てるもん!」
「いいえ、見てくださいよ、姫様。こんな大荷物を平気で担いで歩くような人に勝てる訳ないですよ?」
姫様は納得いかないのか、頬を膨らませてユウヤは強いと繰り返した。それだけの事を目の当たりにしてきたのだろう。
剣技だけでなく距離を取って戦う事になれば。ユウヤの肩にかかるこの弓をあの腕前で使うとなったら、クロノにも果たして勝ち目があるかどうかあやしい。
「国の、西端から来たのか? それにしてはユウヤも姫様も訛ってないな」
「私は元々、城都の生まれだし……姫様はずっと私と居るから……」
ユウヤの長靴や腰にある革製の帯と矢筒には、端に小さな草花が型押しされている。これも皮革の加工が得意な西の領地の製品。国の西側から来た事を裏付けていた。鎌をかければ案外素直に認めたので、クロノは眉を上げる。逆にユウヤは眉間にしわが寄る。
「……そういうの止めて」
「そういうのとは?」
「博識な人はこれだからやりにくい……」
「褒められたのか、私は」
「はくしきってなあに?」
姫様がユウヤの腰に腕を巻き付けながら聞いている。先程の表情は嘘のように優しい笑みでユウヤは姫様の頭をひと撫でする。
「何でもよく知っている人の事です」
「はくしきはダメなの?」
「その知っていることを使って意地悪をするから嫌なんです」
「クロノはいじわるしないよ」
「ああ、今のは確実に褒められたな」
最後に火の始末を確認して、野営地を後にした。
ここからはクロノの頭の中の地図に従って行動すると確認を取った。
まずはハイランダーズの道を目指す。
商人や旅人、村人が使う道が大通りだとすれば、ハイランダーズの道は裏路地のようなもの。長い年月をかけて探索家や収集家が、効率良く森を行くのに切り開いていった道だ。
実際には獣道に毛が生えたような、人ひとりなら充分、馬を走らせるなら保護してやらないと脚を痛めるような細い道。
定期的に通らないと、森の中の道はすぐに緑に飲み込まれる。収集もあったが、どちらかというとクロノの目的は道を通すためにあった。
ハイランダーズは国中にこのような道を張り巡らせていた。どこにでも迅速に行動するためにクモの巣状に広がっている。けれどその存在は国民には噂程度に知られているだけで、道標は無いし、地図にも載っていない。
他言はしないように伝えると、ユウヤは二度と同じ道を通れる自信は無いと胸を張って言った。
草を分けて進んでいると、クロノは頭より高いところに木の実を見付ける。
この時期にはもうすでに鳥や小動物に食べられているか、熟し過ぎて落ちるか。そのはずなのに、ずいぶんと呑気な木だなとクロノは手を伸ばす。
後ろを歩いている姫様に小さな実を差し出した。
「それは食べても大丈夫なの?」
「中に種があるから気を付けなさい」
受け取ろうとした姫様の前に、ユウヤが手を出して制した。
「地面の近くに同じ実が生ってたけど、他の動物は手を付けてなかった」
「ああ……よく気が付いたな。そっちは食べなくて正解だ。少しだけ毒がある……と言っても腹を下す程度だが……これはよく似ているけれど、違う植物たがら大丈夫だ。高い位置に生っていて中に種があるものは食べられる」
「そうな……あ!」
言っている間にユウヤの手を押さえて身を乗り出した姫様が、クロノの手から直接木の実を口の中に入れた。
「姫様?!」
「……ーーー甘い! ちょっとすっぱくておいしい!!」
押さえられた手で姫様の顎を掴むと、頬をむにむにとしながら睨み付ける。
「何でもかんでも口には入れません」
一音一音はっきりと言われて、怒られているはずなのに慣れっこなのか、姫様は嬉しそうに笑い声を上げる。
「たねがあるからだいじょうぶなの」
口の中から種を取り出して、ユウヤに掲げてみせた。クロノにもほらねと見せるので、頷き返す。
姫様はもっと取ってと両手を上げた。
「この時期に残っているのは珍しい。他の木はもうとっくに落ちているのに」
ユウヤは小さく溜息を落とすと、息を吸い込むのと同時に気分を入れ替えたのか口元を緩める。
「良かったですね……姫様のために残してあったんですよ」
実を取るとぴょんぴょんと姫様は跳ねて、早く早くとクロノの腕にぶら下がる。手まで食べそうな勢いで木の実を口の中に入れた。
摘んでは口に運んでを繰り返す。
まるでひな鳥にエサを運んでいるようだとクロノは知らず笑みをこぼしていた。
同じ調子で実を摘んでいると、いつの間にか姫様の口の中はいっぱいになっていたので、無意識でクロノはユウヤの前に木の実を差し出した。
瞬間ぴたりとふたりの動きが止まる。
しまったと思ってももう遅い、木の実はユウヤのすぐ口の前にあった。
ちらりとクロノを見上げ、避ける事はせず、姫様のように直接口を付けて赤い実を食べた。
たった今受けた視線と、ほんの少しだけ指先に触れた柔らかな唇の感触。
もの凄い勢いで腰の後ろから首まで這い上がってくる何かに、加えて心臓を絞られる感覚がする。
「……済まない」
「……何か悪い事でもしたの?」
極めて冷静を装ってクロノが言うと、ユウヤはくすりと声を漏らして笑った。
顔に手をやってごまかすように背けても、多分もう遅い。自分でも熱くなっているのが分かるから、きっと赤くなった顔を見られたに違いない。
少し触れただけでこの始末。
純朴な少年でももう少し自制できると自分に呆れながら、木の実を枝ごと落として姫様に手渡した。