父と母。
顔の上にある濡れた布が温まってくると、ご丁寧にも裏返しにされる。
きちんと冷やされているか、腫れは引いているか、唇で確かめようとしているのか、毎度 目元に口付けを落とされる。
抱き寄せるから、体重を預けると背中を撫でられ、その大きな手の温かさに目の周りが熱くなる。
必要とされたから、乞われたから一緒に居ればいいと思っていた。
最初にそう思ったのは間違いないけど、それでも『別にいい』と思えたのは、気付かないうちに選んでいたからだと、思い知る。
理屈や理由抜きで、いつの間にか、選んでいた。
今になってやっとその理屈や理由に気が付く。
強くて、体が丈夫で、約束を約束のままで終わらせないと思える人。
クロノなら絶対に自分の目の前からいなくなったりしない。
そう思わせてくれる人だから『別にいい』と思えた。
「私より先に、ネルの方が気付いてた」
「……うん?」
「『僕、あいつのことキライなんだけど』って言ってた」
「私のことか……確かに好かれている感じはしなかったな」
耳をあてた胸の奥でくくと笑っているような声が聞こえた。
ちょっとしたやきもちみたいなものだと思っていたけど、思ったよりもっとなのかもしれない。
「ネルはあの時にはもう、分かってたのかな」
「……アメリが私の妻になることがか?」
「……私がクロノを好きなこと」
潰れるんじゃないかと思うほど抱きしめられるのは、苦しいけど。
息をするのと同じ回数、口付けようとしてくるのも、鬱陶しいけど、いい。
別にいい。
それは多分、クロノだから。
「ホント……鈍くて困っちゃうね……気付くの遅すぎ」
「アメリはすぐに後回しにするからな」
「なに?」
「自分のことはすぐに後回しにする」
「……そんなことないけど」
「本当に……鈍いな」
「……へタれた旦那とお似合いじゃない?」
「……そうだな」
顔の上の布が取られると、空気の方がひんやりと感じる。
目の前のクロノのシャツのボタンがぼやけて見えて、目を擦ろうとするとクロノの手がそれを止めた。その手で上を向かされる。
「一日の、いちばん始めにおはようを。その日のいちばん終わりにおやすみを。ネルに代わって私が言おう」
自分のことは後回しになってしまうのが、どうしてなのか。クロノは私が欲しくなるより先に、私の欲しいものをくれるから。
言われて初めてこれが欲しかったって、後から気が付く私が鈍いからダメなのか。
代わるものなんてないのに。
誰にもネルの代わりなんてできない。
誰もクロノの代わりができないのと同じように。
「……代わりじゃなくて、クロノが言って」
返事は無しで口付けが降ってきて、それは、いつも以上に優しくて、しつこかった。
「アメっ子ちゃーん……お父さんは腹ぺこでぇーす……」
部屋の入り口から弱々しいユウヤの声が聞こえてくる。
部屋の中は暗くなって、開いた扉から細長く見える外はもう宵の色をしていた。
「先代も待ってるよー……早く出ておいでー……」
アメリはぷはと笑い声を漏らして、ぬくぬくと包まれていたクロノの腕と、掛け布の中からゆっくりと抜け出した。
「私もお腹が空いた……行こう、クロノ」
ふわふわとした足取りで部屋を出た途端に、横から攫われるようにしてアメリはユウヤに連れ去られていった。
クロノは寒くなった胸の辺りを、軽くなった両腕で擦って、アメリの温もりと柔らかさを反芻する。
囲んだ食卓は賑やかで、それでも心は穏やかになるもので、いつかのアメリの手料理は間違いなく、この母から受け継いだものだと分かる。
クロノが聞けば、西端の生まれはひとりも居ないから、色んな地方の味が混ざった不思議な料理が多いとサヤは笑う。
どこにでもありそうな、でもどこにもないこの家だけの味なのだと、クロノの小さな疑問かひとつ解消された。
食事が済んだくつろぎの時間に、先代に促されて話を始めるも、アメリは旅の行程のほとんどをさらりと済ませてしまった。
クロノよりも簡素な話ぶりに、満足いかないのか、先代はしわだらけの顔に更にしわを寄せる。
ユウヤの勧めでクロノがもう一度、今度は皆の前で旅の話をすることになった。
今度は少し私見を交えながら丁寧に話をする。
時々アメリが自分はどう思っていたのか、意地悪な合いの手を入れている。
ユウヤには話したが、アメリが命を取り落としたことは話さなかった。
敢えて話をしないことをユウヤもアメリも、わずかに口の端を持ち上げるだけに留めてなにも言わなかった。
話の最後をアメリは笑顔で締めくくる。
「ネルに会えたよ……元気な時に戻ったみたいだった。ちょっとも痩せてなかったし、どこも痛そうじゃないし、苦しそうでもなかった」
「私が見た彼もそうです……立派な、美しい青年でした」
ふと息を吐いてアメリは隣のクロノを見上げる。
「クロノがね、言ってくれたんだけど……居なくなったんじゃないって……会えなくなっただけで、別の場所で幸せに暮らすんだって……姫様だけじゃなくて。ネルもそうなんだって、会えたからそう思えたのかな……だから、すごく……なんて言うか、もう大丈夫だって思えた」
ユウヤも同じような笑顔を浮かべて、隣にいる、両手で顔を覆ってしまったサヤの肩を抱き寄せた。
「……そう……そうだな。嬉しいな……ねぇ、サヤ?」
腕の中にいるサヤを覗き込んで、ぎゅうぎゅうと抱きしめる。
クロノはアメリたちの部屋で眠ることになって、罪悪感と少しの嫉妬が入り混じったような、複雑な心境に思わず低く唸り声を漏らす。
先ほどは感じなかった居心地の悪さからアメリを夜の散歩に誘った。
折りよく満月に近い月が昇って、夜道はふたりの影が見えるほどに明るい。
小高い丘をゆっくりと歩き、ぼんやりと白く浮いて見えるサザラテラの家々を見下ろす。
月明かりと同じ色にアメリの髪が輝いて見える。
クロノは感嘆の息をこぼしていつの間にか見惚れていた。
白い光の灯った睫毛の先が数度 瞬いて、それはクロノにはひどくゆっくりに見えた。
間に合って良かったとぽつりとつぶやいて、アメリはきれいに笑う。
「……間に合った?」
「もうすぐ……次のユウヤとサヤが生まれてくる。そうなったらふたりを探しに旅に出ちゃうから……だから、今のうちに会えて良かった」
次のユウヤとサヤの役目を負う子どもを育てるのが、今のユウヤとサヤの役目。
いつか聞いた話を思い出して、クロノは長い、果ても知らないほど長い時のことを思った。
姫様を送り届けて、それで終わりではない。
いつか、何十年か何百年先に生まれる次の姫様を、世界の瀑布まで送り届けなくてはいけない。
これまでと同じように、これからも何人ものユウヤとサヤ達は、細く長い糸を紡いでいく。
世界の均衡を保つために。
当たり前のように繋がれた手を見下ろす。
かつて右側にいることを定められて、今も自分の右側にいる人に目を向けて、ふとクロノは疑問に歩みを緩める。
世界の話も、姫様の話も、その時アメリが思い付くままにされる話をただ聞いていた。
今まで疑問を持つ前に次の話題や、自分たちのこれからについて話が移っていたことを思い出す。
「ユウヤとサヤの役目を負うと、子どもはできない……」
「うん? なに?」
前に聞いた話の断片を手繰り寄せて繋ぎ合わせていく。
「アメリを生んだ両親は城都に、と言っていたな……」
「……それが?」
「ネルにもネルを生んだ両親が?」
「そりゃ、居ないと生まれてこられないよね」
アメリは困ったように眉を下げて、何の話かと目で問いかけている。
これまで疑問にも思わなかったことが、実はただの思い込みだったのか、確かめようとクロノは言葉を継いだ。
「次のユウヤとサヤを探すと言ったな?」
「言ったよ、なに? さっきから」
「姫様は誰の子どもだ?」
何を聞いているのかと言う顔になって、その後すぐにアメリはくすくすと笑いだす。
「もちろん、姫様を生んだ人の……」
「アメリじゃないのか?」
「え? なんでそうなるの?」
「姫様は、アメリとネルの間に生まれた子だと……」
「うん?……うーん。そりゃあね、心の中では自分の子だと思ってたけど……全然 似てないよね、私と姫様」
「似てない親子はいくらでも」
「まあ、そうだけども……」
「親子だと、自然にそう思っていた」
姫様に対する言葉遣いは親子のそれとは違っていたが、姫様を見つめる目や、触れている手も表情も、全部に特別な思いが溢れて見えていた。
ひとつの疑いも持たず、アメリが生んだ子だと思っていた。
それほどふたりが強く結ばれているように見えた。
血の繋がらない親子はどこにでもある。
アメリも血の繋がらない両親を持ち、自分も血の繋がらない子を持っていた。
同じようにあった関係でも自分と、この親子たちとの決定的な差に、叩き起こされたような感覚に陥った。
驚いたような顔ですっかり歩みの緩んだクロノを、アメリは顔を傾けて下から覗き込んだ。
「……それは……すごく嬉しいけど……ていうか、姫様、今年で七つだよ? 私 何歳で子ども産んでるのって」
アメリの乾いた笑い声を聞いて、クロノの足がぴたりと止まる。
手を後ろに引かれる形になって、アメリは振り返った。
「アメリの歳?」
「19です……もうすぐ20か……あ、でももう見た目は変わらないんだった……」
「じゅう……く?」
汗が吹き出た感じがして、空いている方の手で自分の顔をぐいと撫でる。
人のことは言えない、アメリの歳を気にしたことが無かった。
自分もまだまだ後回しにしていることがたくさんあったのだとやっと思い至る。
「おじいちゃんのクロノに比べたら、私は赤ちゃんみたいなもんだね」
にやりと口の端を持ち上げたアメリは意地悪そうに笑っている。
「そこまで若いとは……もっと……」
「いってると思った? そんなに老けて見える?」
「いや……でも、落ち着いているから……」
「はは! 思ったより子どもでびっくりした? 子どもだから止めとくとか、今さら言わないでよ?」
歩き出したアメリの手を引いて抱き寄せる。
今更も何も、止めておくという選択肢は無い。
今まで蔑ろにしてきて、人との深い関わり合いを極力避けてきたツケが返ってきているような気がする。
嫌味だと思っていた『下手くそ』は、そっくり見たままの事実だったのだと、自分に呆れて泣けてくる。
ここまで自分に変革をもたらしたアメリを見下ろして、驚きながらも、それでも今まで足りなかったこの温もりに、感謝に似た気持ちが湧いてくる。
これまでに無かったのは、今この至上を両腕に抱く為だったのだと、何度思ったか知れないのに、また強く想う。
年齢がどうのと、今はもう関係のない場所にふたりは立っている。
大切なのはこの腕の中のアメリで、そのアメリを失わないことだ。
指の先でアメリの頬をくすぐった。
「アメリこそ、よくぞこんなじじいを夫にしたな?」
「えー? そっちが子どもを妻にしたんでしょ?」
「私には、アメリはとても美しい女性にしか見えない」
「クロノは先代の何倍も年寄りなのに、おじいちゃんには全然見えないね」
この嫌味はどうだと見上げてくる顔も、可愛いとしか思えない。
口付けを繰り返すと、もういいと腕の中で暴れて怒りだす。
それすらも抱き込めて、この人もこの想いも決して手放したりしないと、また何度目か数え切れないほど同じことを思う自分に笑い声を漏らした。




